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オキシトシンが足りない世界の片隅で

フリーで仕事をしつつ、主夫として家のことをしつつ。
そんな生活を5年くらい。


子どものウンチが手についても
食べ物が床に落ちても
ギャーギャーいわずにフキフキマシーンと化す
それぐらい慣れてきた。


さて、いつぞやのニュースで夫の家事関連時間が1時間54分でうち育児は1時間?妻はその5倍くらいというニュースを見て驚愕した。そりゃ、繋がりや愛を感じて放出するホルモン、オキシトシンが足りない世の中だ。主に男性。


男性脳と女性脳っていうのはないっていう本を読んだ。けれど、環境の影響によって、認知の影響によって、今現在の男性女性、一般的なイメージ状態が自身にも世界にも作られてしまう。こうでしょっていうのが。
例えば、男性だろうが女性だろうが、地図を読むのが苦手な人は、そもそも苦手なんですよ。


だからこそね、オキシトシンを放出し続けるとなれるんですよ。
男でも母のように。


これまでね、育児をしていて一つの壁を感じていたんです。どれだけ子どもに愛情をそそいでも、触れ合っていても、結局は「お母さん」がいいときがあるんす。子どもって怖かったり、なんかイレギュラーがあると結局「お母さん」を求めたりするんですよ。

その時の状況に陥ると、自分は、よくドラマで見る「育ての親」と「産みの親」のストーリーを思い出しいて。
ある程度まで大きくなった養子縁組の子どもが「これまで育ってくれた恩や愛情はわかってる、でもあってみたいんだ!」っていわれたときの育ての親の感情。ドラマ(きっと現実も)の中では育ての親は愛情深いリアクションをしてる。けど、自分の場合、お母さんにいっちゃう時の心情は、



うぉぉぉぉぉぉん、あんなに一緒にいたのに〜!キィぃぃぃ!
とか思っちゃうんですよね。


そして、オキシトシンを放出し続けた結果。
最近、その壁がぶち壊れました。
何をするのもパパになってしまったのです。
ウンチをかえるのパパ。
トイレにいってもパパ。
お風呂に入ってもパパ。
お着替えもパパ
抱っこもパパ
ご飯の時は両膝にのってくるので、
全然自分のご飯が食べれません。
パパパパパパっパパパパ!


キィぃぃぃぃぃ!
たまには一人でゆっくりトイレしたい。
それが最近の悩みです。



ただ、この感じって大抵はお母さんが悩んでるんだなって感じる。
お母さんの場合は、精神的なところだけじゃなくて、身体的にも。特に授乳期。結局はママじゃないと!っていう最後の手綱をパスされたら、そりゃ、キィぃぃぃってなるよね。子どもにも、もちろんパートナーにもね。


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それでね、上記のようなことを体験してるとなんか主夫目線で発信したい〜!って思うんですけど、自身が男性であると途端にもやもやする。


自分が体感してることって、人間が全部体感したらいいんじゃないかなって思うんだけど、今ってほとんどが女性が担っている。それで、女性だけこんなのはおかしい!!って男性優位社会に対して発信があるのは、主夫としての目線が一緒だからおもしろい。だけど、その振りかざしたおかしい〜!が向かってるのって紛れもない男性の自分なんだよなぁって気づくと、悲しくもある。


例えば、ワークライフバランス。テレビに出てる偉いおじさんは、仕事と家庭が横並びのイメージで考えてると思うけど、それは違って。縦、縦なのよ!お家が基礎で1番重要で、その上に仕事がある。バランス考えるのは、ヤジロベーじゃなくて、しっかりとした土台を考えないと。


いや、もしやおじさんはオレだったんじゃ、、、、、
ドーパミンじゃなくてオキシトシンが増えるアイデアがいいな。



※下記は好きな著書二つ


これまでもアカデミックの視点から、そもそもアカデミックの起点って白人・欧米・男性で作られたモノが多くね?っていう問いもあって。それでいいんだっけ?っていうところから「ケア」の概念を知ってnoteにも書いてきた。


世の中にはきかれてこなかった声がたくさんあって、ギリガンのいう「もう一つの声」が。マザリングの著書、中村佑子さんがいう「濡れたぬるぬる」とかケアと倫理のエンパワメントの著者、小川公代さんのいう「多孔性」とかもそう。



こういうことを考えてきて、今の自分の立ち位置って何を言葉で紡いでいけばいいんだろう。きかれていない声を表出させたいんだけど。。。
たとえば、プリミティブなことだったり、五感だったり、
そういうところの起点がいいのかな、とか考えてたりする。
人間ってなんだろうとか
なんで言葉を作ったんだろうとか。
すごい途方もないこと考えてたりするんだな。




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