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第89弾「わたしを忘れないで」

ハーイ!みんな元気?あたしけいご。

89曲目はこれ。わたしを忘れないで。いまはタイのバンコクにいます。弾いているのはギタレレです。これで音楽を作る経験ははじめて。慣れない。まったく慣れない。音楽の作り方がわからない。困った。参った。八方塞がりだ。四面楚歌だ。だがしかし作る。いまは作る。タイでも、こどもたちと接する機会が多い。こどもたちは、なにかあるとすぐに「ねえ見て」とか「ねえ聞いて」って、自分のことを共有したがる傾向がある。これ、多分、おとなになっても、普段は出さないだけでみんなもっている部分だと思う。

「わたしを忘れないで」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

本気で ひとを愛すこと
それは 命を賭けること

わたしを 置いて 行かないでね
わたしを 連れて 行ってね

ねえ見て ねえ聞いて ねえ わたしに さわって
ねえ見て ねえ抱いて わたしを 忘れないで

天国に持って 行けるのは
愛し 愛された メモリー

あとは何の役にも立たないの
なにもかも 置いて 行くの

ねえ見て ねえ聞いて ねえ わたしを さらって
ねえ見て ねえ泣いて わたしを 離さないで

ねえ見て ねえ聞いて ねえ わたしを さらって
ねえ見て ねえ泣いて わたしを 離さないで

ねえ見て ねえ聞いて ねえ わたしに さわって
ねえ見て ねえ抱いて わたしを 忘れないで

これはただのボヤきなんだけど、教育ママが苦手な理由がわかった。それは、自分さえ良ければいいって考えているように見えちゃうからなんだと思った。誰かの役に立てる人間になるための教育より、落ちこぼれないため、勝負に勝つため、世間的に認められるために、時には「他人を蹴落としてでも」人の上に立つことを強要するような、そういう雰囲気が苦手なんだと思った。弱いひとのためになにかをするのではなく、弱いひとを軽蔑して、弱いひとみたいにならないことを大事にしているような、そういう印象を覚えた。学歴がないと、ロクな人間になれないよ、みたいなことを平気で言う。そういう雰囲気に接すると、あたしは「なんだかな」って思ってしまう。もっと正直に言えば、そういうあり方に『憤り』を、感じることもあります。

自分よりも立場の弱いひとに、どういった振る舞いをするか。そこに、そのひとの本質は露骨に出る。こどもは、親のことが好きだから、親から認められるために勉強だって頑張る。仕事だって頑張る。でも、なにかをすれば認められるということは、なにもしなければ認められないってことになっちゃう。だから、こどもには、いつの間にか『置いていかれる恐怖』みたいなものが、植えつけられる。自分が有用である限り、自分はここにいてもいい。でも、自分が有用ではなくなったときに、自分は見捨てられるかもしれない。そういう恐怖心に支えられた行動は、どれだけ成果をあげたとしても、永遠に恐怖心を取り払えない。弱いひとを否定する考え方は、自分の調子がいいときは、別に何も問題はないかもしれない。でも、人生、なにが起こるかわからないから、ふとしたことがきっかけで、一気に「弱い立場」に置かれることも、ある。そのときに、自分を支えるものは、なんなのだろう。

タイに暮らしている日本人は相当な数がいて、前、タイ在住の日本人コミュニティに呼ばれて足を運んだ。そしたら、そこは「日本よりも日本!」みたいな空気感だった。見栄の張り合い。社交辞令。愛想笑い。虚栄。世間体。友達ごっこ。自分は充実した人生を過ごしていますアピール。自分が幸せになることよりも、周囲から幸せだと思われることに命を賭けているような、そういう感じ。それらが、日本以上に凝縮された空気感を感じた。食卓には豪華な料理が並んだ。みんなの自己紹介を聞くと、華々しい経歴ばかりが語られる。でも、あたしには、なんの魅力も感じることができなかった。豪華な料理もからっぽ。華々しい肩書きもからっぽ。会話の内容もからっぽ。それは、自分の外側に張りついているものを自慢し合うような空間で、裸の人間はひとりもいなかった。自分の人生は充実をしていると語るひとの話を聞いても、まるで、心に響いてくるものはなかった。楽しいって話すひとを見て、あたしは「なにかをごまかしている気がするだけ」とか、そう思った。

ひとりひとりと話せば、きっと、みんないいひとなのだと思う。でも、なぜか、集団になると『集団における人格』みたいなものに汚染されて、途端につまらない人間になる。これ、なんでなんだろう。どこかで「自分のままでは生きていけない」とか「これが大人になるということだ」とか、そういう暗黙のルールでもあるのかしら。おとなになるということが、まるで「自分を殺すスキルを高めること」みたいになっているのは、なぜなのだろう。なぜ、空気を読むことがこれほど大事とされているのだろう。同調圧力なんて言葉を出すのも大袈裟だけど、協調という言葉の意味を、考えてしまった。

協調性は大事だと思う。でも、悪いことにまで協調しちゃったら、意味ないじゃない。人間はひとりでは生きていけないんだぞ!とか、そんなんじゃ社会はまわらないんだぞ!とか、そういう言葉で怒られてきたことがあたしにはたくさんあるのだけど、でも、ちょっとまってよ。その結果が、自殺者3万人の世の中であって、その結果が、鬱病患者100万人の世の中なんじゃないの???生きることは大事なことだと思うけど、それよりも大事なことは「生きたいと思うこと」なんじゃないの???ただ生きるだけじゃやっぱりつらいんじゃないの???毎日、いやだな、いやだな、いつまでこんな生活をすればいいのだろうとか思いながら生きること、それが当たり前で、それがおとなになるってことなら、あまりにも辛すぎるとは思いません???

あたし、今日、こんなことを思った。「死んでも何も変わらない。生きて何かを変えてやろう」ということを思った。生きていると世の中はクソだなと思うことが結構ある。クソみたいな世の中を生きることが馬鹿らしくなって、死んでしまいたくなることも結構ある。でも、クソみたいな世の中のために死ぬことは、もしかしたら一番クソなんじゃないのかなって思う自分もいる。死んでも何も変わらない。でも、生きていたら、何かを変えることができるかもしれない(できないかもしれない)。誰かの正義に殺される前に、自分の正義を生きてみたい。生きてなにかを変えてやる。なにも変えられないかもしれない。負けてばかりかもしれない。でも、戦うことに意味があるように感じる。自分の中にある、生きたいと叫ぶ魂に応える。それが、自分の正義を生きるということなのかなって、そんなことを考えていた。

教育ママの話に戻るけど、あたし、弱いひとの力になろうとするのではなく、弱いひとを軽蔑するような教育方針に、強烈な反応を示したの。それに触れたとき「なんだかものすごい嫌だ」って思った。正義がどういうことなのか、あたしにはよくわからない。ただ、自分が『憤り』を感じることのなかに、自分の正義はある気がする。あたしの心は、常に、なにかに対して「ふざけるな」って感じている。それは、広く、生命と呼ばれるようなものが蹂躙されているのを見た時に、咆哮する。あたしの正義のスイッチは、そんなところにあるみたい。タイで暮らしながら、音楽を作りながら、文章を綴りながら、あたしは、あたしの正義について、もう少し考えていきたいと思う。正義という言葉が、いま、あたしにとってのテーマになっています。

じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。

坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com

【イベント情報】

7月28日(日)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」あ

音楽活動開始宣言をしてから、およそ4ヶ月が経ちました。音楽初心者が、一年でどこまでいけるかを見てみたい。そのためには、本気でやる必要がある。そう思って、1日1曲を目安に音楽を作ったり、できる限り場数を踏むためにライブ活動(人前で演奏すること)も経験したいと願っています。もし、人前で演奏できる機会を設けてくださる方がいたら、ご連絡いただけたら最高にうれしいです。交通手段さえどうにかなれば、あたし、どこまでも行きます。会場も規模も問いません。ひとりでもいれば、あたし、行きます!!

6月30日開催「Agape 定期演奏会」の動画です。


バッチ来い人類!うおおおおお〜!