「ロックンロールとキリスト教」

三浦綾子の小説に影響を受けた私は、キリスト教の教えに興味を持つようになった。20歳を過ぎた頃、東京でイラン人の牧師と出会った。その人はイランでストリートチルドレンとして生活し、弟たちの面倒を見るために窃盗や強盗を続けた。喧嘩が強くなければ生きていけないため、腕を磨き続けた。それが功を奏して、レスリングの世界大会に出場するようになった。だが、母国で戦争が起こり、軍人として戦地に赴いた。戦場は悲惨だった。さっきまで談笑をしていた戦友が、爆風が起きた次の瞬間には頭だけが吹き飛ばされている。そういう場面を何度も見た。仲間がどんどん死に、自分自身も飢えや疲労でボロボロになり、いつ終わるかもわからない戦争は心も体も蝕んだ。ある時、その男性は老夫婦が暮らす一般家庭の家に逃げ込んだ。老夫婦は、彼を温かく出迎えた。そして、一杯のスープを差し出した。普通だったら、軍人が家に来たらすぐにでも追い出すはずだ。軍人を匿った罪を問われて、最悪の場合は処刑される。だが、老夫婦は彼に優しかった。どうしてそんなによくしてくれるのかと尋ねたら、彼らは、そっと聖書を差し出した。

戦争を終えて、男性は日本に来た。上野公園で路上生活者として生活しながら、朝、公園にやってくる日雇い労働者を拾い上げるトラックに乗り込み、その日の食い扶持を稼いだ。彼が日本に来たきっかけは、日本映画だった。日本映画を愛した彼は、隙間時間に映画のセリフを独り言を言うように繰り返すことで、日本語を覚えた。日雇い労働で貯めたお金を使って、彼は日本の神学校に入学した。イスラム教を公式宗教とするイランでは、キリスト教の牧師になることはブラックリストに掲載されることを意味する。彼は、イランには二度と戻らない覚悟を決め、牧師として生きる覚悟を決めた。老夫婦の影響が大きかった。あの日、老夫婦が自分に示してくれて優しさがなければ、自分はダメになっていた。彼らのおかげで今がある。その思いが、彼を生きる方向に向かわせた。爆風で頭を吹き飛ばされた戦友の面影が消えることはないが、確かにあの時感じた「神の光」としか言えないようななにかがある限り、自分は生きていけると思った。それを伝道する道を生きよう。

やがて、彼は牧師となり小さな教会を築いた。私は、その教会に遊びに行った。男性は、私のことをけーちゃんと呼んだ。けーちゃん、聖書の中には禁断の果実の話があって、これを食べたら楽園を追放されてしまうっていう話があるよね。だけど、どうして神様はそんなことをしたんだと思う?食べるなって言うなら最初からそれを作らなければいいし、人間がそれを食べないように設計して作ればよかったのに、神様はそういうことをしなかった。それは、神様が人間に何かを与えたいと思ったからだと思うんだよ。けーちゃん、神様は禁断の果実を作ることを通じて、僕たちに何を与えたかったんだと思う?彼は、そういうことを私に話した。何かを教えてやるという態度ではなく、「あなたと一緒に考えたい」と言うスタイルをとった。私は、しばらく考えた後に「失敗する自由、かな」と答えた。彼は微笑んだ。うん。それはいいね。僕は、この物語は、神様が人間に選択の自由を与えていると思ったんだ。選択する自由が人間にはあって、神様はそれを優しく見守っている。それを食べたら死んでしまうよ、だからそれを食べない方がいいよと、そういうことを教えてくれたりはするんだけど、決して強制はしない。いつだって僕たち人間を見守ったまま、選択の自由を残しておいてくれるんだ。

この話を聞いた時、宗教に対する私の印象は変容した。それまでは、宗教とは人間を操り人形のようにコントロールするものだと感じていた。しかし、そんな糸ははじめからなかったのだ。神様はただ見守っているだけで、何ひとつ強制しない。辛い出来事が起きたとき、私たちは「神も仏もありはしない」という思いに襲われる。しかし、神様は私たちに選択の自由を残している。解釈の自由を残している。悲しみに押し潰されてダメになる自由があると同時に、悲しみから一筋の光を掬い取る自由もある。命とは、まだ、自分に使うことが許されている時間のことだ。神や仏に救いを求めて、神や仏に許しを求めて乞い願うこともあるが、違う。私たちは、最初から許されていたのだ。生きていると言うことは、まだ、自分に使える時間があることだ。

彼の教会で、私はひとりの貴婦人と出会った。50歳近い年齢にも関わらず、彼女が保っていた美しさは常軌を逸していた。少女のように可憐で、彼女の周囲だけ光が舞い散っているような印象を受けた。私たちは仲良くなり、彼女の身の上話を聞かせてもらった時に衝撃を受けた。若い頃はアイドルとして活動をしていた彼女はレコードを出しテレビ出演なども経験しており、名前を聞けば誰でもわかるような有名人の友達も無数にいた。彼女は、住宅情報誌を見ることを趣味としていた。小さな頃からリカちゃん人形が好きで、自分だったらこういう家がいいとか、自分だったらこういう部屋に暮らしたいとか、そういうことを考えながら家やマンションの間取りを見ている時間が最高に楽しいのだと話した。そして、彼女はアイドルの仕事を続けながら不動産を購買した。生まれてはじめて購買した物件は、小さなマンションの一室だった。そこを徹底的に愛し抜き、大事に使っていた時に「買いたい」と申し出る人があらわれた。自分がいいと思うものを買い、そこを整えて、自分と同じようにその場所をいいと思ってくださる方々に使っていただく。その繰り返しにより、気づいた頃には彼女は莫大な資産を築いていた。私が、生まれてはじめて目にした成功者だった。これまでの私は、成功者とは豊かな財産を持っている人間のことだと思っていた。だが、違った。本当の成功者とは、一緒にいる人間まで豊かな気持ちにさせる人間のことだ。彼女といると、取るに足りない自分という人間にも何かができそうだと思えた。

順風満帆に見える彼女は、若かりし頃、最愛の夫を病気で亡くしている。愛する者を失い、彼女はいつ終わるとも知れない深い悲しみに襲われた。真っ暗な闇の中をたった一人で生きるような、何処にも光を見出すことのできない日々を過ごしたが、一人息子の存在が「私まで死ぬわけにはいない」と、ギリギリのところで思い止まらせた。そういった心境の時、彼女はキリスト教と出会った。ヨハネの手紙の中に「神は愛です」という聖句がある。この言葉に、彼女は貫かれた。言葉は、それを受け取る側の人間のタイミングによって、胸にストンと落ちることもあれば強い反発を抱かせることもある。この瞬間、彼女が目にした「神は愛です」という言葉に、彼女は生きる希望を見出した。慰めと希望、生き抜く力、知恵、勇気、優しさの根源を見た。

彼女は、私をけーちゃんと呼んだ。けーちゃん、私ね、人間ってきっと誰もが翼を持っているものだと思うの。だけど、その翼はね、自分が崖から突き落とされた時にしか開かないようになっていて、もうダメだ、自分にはもう生きていく力がないって心の底から強く強く思ったときに、開くようになっていると思うの。自分の弱さを知ると言うこと。きっとね、全部、そこからはじまるのだと思う。そういうことを彼女は話し、私は、彼女の言葉だけではなくその口調に含まれている優しさに感銘を受けていた。彼女は続けた。けーちゃんには言葉の力があるから、そのまま書き続けていたら、きっと素晴らしい編集者の方と出会うと思う。もうダメだって思うこともあるかもしれないけれど、それでも書き続けていたら、その先に素晴らしい出会いが待っていると思うよ、と。当時、私は、強い苦しみの中を生きていた。世のすべてから捨てられた侘しさ、自分が言葉を紡いだところで誰一人振り向くことはないだろう、そんな、確信にも似た諦めの思いを抱いていた。しかし、彼女の言葉が、自分の命を繋ぎ止める御守りのようになり、10年以上その言葉を胸に抱き続けた。その後、私は素晴らしい編集者と出会い、自分が書き続けてきた言葉が一冊の本にまとめられることになった。99人から褒められても、たった一人からけなされたら、人間は深く傷つくものだ。だが、99人からけなされても、たった一人から「あなたは特別な存在だ」と認めてもらえたら、人間は、生きていくことができる。人間の弱さは、人間の希望だ。

バッチ来い人類!うおおおおお〜!