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【往復書簡】石に齧り付いてでも生きる。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!芋の分際で、スイートポテト気取りの俺です!!最近は映画の沼にどっぷりと浸かってまして、毎晩ソファーで眠りながら延々と引き籠っていました。これまで自宅と呼べる場所がなかったので「引き籠る」という行為自体が不可能だったのですが、齢三十六にして栖を与えられ、毎日意気揚々と映画を見たりギターを弾いたり料理をしています。一丁前に毎晩ワインを飲んでいるのですが、ワインを飲んでいると「誰かと飲みたいな」という気持ちが発動します。しかしながら、孤高のポテトキングは誰かに声をかける勇気がなく、本日も孤独をたしなんでおります。

現在地は東京の港区なのですが、港区は面白いです。外車がバンバン走っており、ベンツやポルシェが普通です。郊外なら目立つベンツも、港区だと埋もれます。しかし、この「埋もれる」というのが良いのだと思います。地方都市で高級車に乗ると「いいわねえ、あの人はお金持ちで」などと嫌味を言われます。逆に、平日の昼間に散歩なんかしていると「あの人、仕事はしてないのかしら」などと井戸端会議のネタになります。しかし、港区にはお金持ち(何をしているのかよくわからない人たち)が大量にいるため、一般的とはかけ離れていたとしても、みんなほっといてくれます。小説家のカミュは、異邦人の中で「世界の優しい無関心」という表現を使いましたが、港区には受け皿の大きさを感じます。私はしょーもない人間なので、これまで外車を見ても「けっ」としか思いませんでした。鼻につく連中だなと、斜に構えた見方をしていたのです。しかし、実際にベンツに乗って痛感しました。これは、単純に車としての機能に優れているのだと。ベンツは頑丈で、乗っている時の安心感が段違いでした。ロードサービスなどのサポートも充実しており、座り心地もファーストクラスで、自分を大切に扱えている感覚になります。他人の目がどうのこうのとかではなく、端的に「運転が楽しい」のです。彼らは、ひけらかすためではなく、自分がベンツを好きだからベンツに乗っているだけだということを、今更ながら思い知りました。金持ちを馬鹿にしていた自分が一番の大馬鹿者だった、ということを思い知りました。

一々言わなくていいことを言うと、ベンツのオーナーは安全運転の人が多いのですが、B○Wに乗っている人は粗野な人が多いです。彼らの運転は荒く、気品がゼロで、カッコつけているつもりなのかもしれないけれどまったくカッコよくなく、成金の虚栄を感じます。もちろんそうじゃない人もいます。しかし、そういう人が多い印象を受けます。車にもそれぞれのバイブスがあって、何に乗るかがその人の人格を決める部分はあるのかもしれない、と思いました。服も同じだと思います。一々言わなくていいことを言うと、私はファストファッションを絶対に着たくありません。下着だとしても嫌です。ファストファッションを身につけると、自分がファストヒューマンになりそうな気がして嫌なのです。壇珠さんには、そういう感覚ってありますか??これは現時点の感覚なので、かく言う私も別のタイムラインでは「B○Wサイコー!!」とか言いながら、ファストファッションに塗れている可能性も大いにあります。ただ、現時点ではこういう感覚と共に生きている俺です!!

南イタリアの方ではマフィアが山火事を起こして焼け野原をつくり、その土地をお金にするという錬金術を使うのだそうですが、このところそのマフィア山火事が頻発しており、それで熱された大気が北イタリアにまで届いているのがこの猛暑の原因だといううわさがあるようです。もしもそうなら、ここはゴッドファーザー的な理由による猛暑に見舞われております!!ドン・コルレオーネに焼かれております!!

ゴッドファーザー的な理由による猛暑に爆笑しました!!ドン・コルレオーネという音の響きに誘われて、先日、ゴッドファーザー三部作を全部見直しました。最高の映画でした。彼ら(登場人物や映画制作陣)と同じ人間であることを誇りに思いました。極悪と極善はセットなのだと思いました。私には、良い映画を見ると登場人物を自分にダウンロードして「あの人だったらどう動くか」を想像して動く趣味があります。先日、公園で踊る機会に恵まれたのですが、アル・パチーノを自らにインストールして「アルパチ音頭」を踊りました。これがまた傑作でした。文面だけだと説明することが難しいのですが、みんなも一回自分をアル・パチーノだと思ってごらん!!楽しいから!!と熱くリコメンドしたくなりました。アル・パチーノに正解はありません。自分は、ただ、自分が思うアル・パチーノを生きればいいのです。

ちょっとした同調圧力などに押しつぶされずにいるためには、その狭いコミュニティがすべてだという感覚に陥らないことが大事なのだと思います。そのコミュニティの常識だけを信じてしまうと、他に選択肢がないように見えて、つい嫌々ながらにもそれに負けてしまうのだと思います。そういうときは我らが天体の上に存在していることを思い出すとよいのだと思います。日本が暑いときにも寒いところがあり、わたしがマフィア熱に焼かれている間にそろそろ長袖を着はじめる人もいます。世の中にはいろんな状態の人がいることを知るのは良いことだと思います。さまざまな価値観を持った人、自分には考えられないような判断をする人、まったく違う常識にいる人、自分の思いも寄らないような選択肢を持った人たちが今日も生きていることをいつも視野に入れていると、ものを見る目が広がります。いろんな人がいるからな、いろんな考え方があるしな、自分の判断以外にもいい考えがたくさんあるだろうな、地球人は個体の数だけ別の知恵を持ってるんだぜと思えると、柔軟になって肝が据わってきます。自分の考えを尊大で絶対だと思うよりも、そんなものはちっぽけだと知るほうが心強い。わたしは自分の判断なんてクソみたいなことがしょっちゅうあると知っているのが好きです。実際間違いだらけです。だからやり直すことが前提になっていて、失敗してもショックを受けなくて、他者を頼るべきだとわかっている方が心強いです。

しょっぱなから、大事なことがすべて詰まっている名文をありがとうございます!!本当にその通りだと思います!!本当にその通りだと思うだけで元気になるから不思議です!!先ほどB○Wを罵倒した俺ですが、近い将来、自分の狭い了見を深く恥じ入る瞬間がやって来る気がしています。そして「ああ、俺は間違っていた!!」と膝から崩れ落ち、雨に打たれ、びしょ濡れになりながらまた一皮剥けていくのだと思います。自分は正しいと思っている時より、自分は間違っていた、自分は思いあがっていただけだったと思った時の方が、大きく変わっていける気がします。壇珠さんがおっしゃる通り「やり直すことが前提になっている」世界は、安心して失敗することができるから好きです。失敗しないためにやるというよりは、失敗をするためにやる。反省するためにやる。後悔するためにやる。それによってまた一皮剥けて行くためにやる。そう思えている時は生きることに大胆になれる気がします。正解を求めると窮屈になりますが、失敗を許せると大胆になれます。

これはわたしの個人的な感覚なのですが、男性はものを愛し、愛でて可愛がり、手入れをして大切にするのに向いた性だと思います。対する女性は、コロコロ気を変えて飽きたものに見向きもしないのに向いた性だと思います。男性は一度愛したものを生涯愛するようなところがあると思います。初恋の人、好きだった恋人との思い出、子どものころに好きだったアニメ、大事にしていた野球ボール、ギター、大切に乗った車。そんな男性が好きです。

でもわたしにはそういうところがあまり備わっていなくて、一度どうでも良くなったり飽きたりしたものはもう霧の彼方に忘れ去りがちです。ああ、そういえばそんなのあったね。という感じです。大事だったものが嫌いになったわけではなく、ただ熱だけが冷めます。女心の変わりようときたら、秋の空よりもつるべ落としです。自分のこの性(さが)を昔は悩みましたが、今はこれぞ女性の良さだと思うようになりました。子どもはなにかに夢中になっていても、他に気になるものを見かけるとそれまで触っていたものをぽんと放り出して新しいものにパッと飛びつきます。そんなところが無邪気で可愛いのだと思いますが、ここで子どもが遠慮して我慢したり、今まで触っていたものがあるんだからそれを手放すのもどうかと思うし…と思慮深くやり始めたら、輝きとうるおいがどこかに行ってしまいます。わたしは女性にも同じようなことが言えるのだと思います。

いつも潤っていたい女性は、「忘れない」だとか「ずっと待ってる」だとか「今もあの頃のように」だとかいう嘘を言わないほうがいいのだと思います。嘘は女を枯れさせます。女性の不変を美化するカルチャーをなにも考えないで信望すると、女性が男性化してしまいます。女性は飽きたものは飽きた、冷めたものは冷めた、忘れたものは忘れたと認めないと、潤いを失うような気がします。潤いとは水です。水はずっと溜めておくと腐るし蒸発してなくなります。趣味やモノや人間関係や思い出に対する思いが本当に変わらないのならいいですが、自分に嘘をついていつまでも変わらない一途な女のふりをしていると、なにかが濁って乾くような気がします。一途一徹なのは男性のほうで、女性が一徹でいなくていいように思います。蝶はひらひらと無計画に気ままに飛ぶから蝶らしくて素敵なのであって、蝶が慎重になって最短距離で移動するように直線的に飛んでいたら、蛾に見えると思います。

どこを削ればいいのかさっぱり分からず、怒涛の長文引用になってしまいました!!きっと本当にその通りなのだろうなあと、私の第六感が「壇珠さんが言っていることは真実だから、よく胸に刻んでおけよ」と囁いています。私は男ですが、男は女への愛を忘れちゃならねえのだと思います。私は、正直、頻繁に忘れます。女を邪魔だと思ったり、女をうるさいと思ったり、女を下品だなと思うことが頻繁にあります。しかし、女なんてクソだと決定づけている時の自分は、紛れもなくクソです。逆に、うまく説明できないのですが「女性の集合意識に寄り添う言葉」を紡ぎ出すことができている時は、男性として救われている感覚があります。嬉しいという漢字は女が喜ぶと書きますが、すげえ言葉だなと思います。極論、男は女を笑わせるために生きればいいのだと思います。女は、自分の喜びのためにどんどん男を利用すればいいのだと思います。女性の喜びには、全部が詰まっていると思います。

最近、この集合意識について考えることがあります。私は結構頻繁に闇落ちするのですが、この闇が果たして本当に自分自身の闇なのか、それとも「集合意識として、あるとされている闇」なのかが、わからなくなるのです。油断をしていると人間には闇があると判断してしまいそうになるのですが、ちょっとだけ客観的になったり、ちょっとでも嬉しいことがあると、途端に闇は姿を消します。私は、自分のことを自意識過剰な人間だと思っていました。しかし、実際は「自意識過剰なのではなく、集合意識過剰な人間」なのかもしれないと思い直しました。何かを思い悩む時、誰かの分まで一緒に思い悩んでいる感覚があるのです。それが良い方向に働けば、良い作品を生む力になります。しかし、悪い方向に働くと、身勝手で一方的な感受性に殺されます。集合意識の沼にはまると、世界から自分だけが切り離された感覚になり、自分はいてもいなくてもいい存在だ、自分は誰にも必要とされていない、自分は無能だ、自分は無力だ、自分は無価値だ、誰の役にも立たない自分には生きている値打ちがない、などと言った感覚に陥ります。しかし、その沼から這い出ることができた時、「そんなことはないぜ」と囁く本当の声を見つけます。闇があるのが本当なのか、闇はないのが本当なのか、真偽のほどは不明ですが、私は、言葉とは本来あたたかいものであると思います。

「普通」や「同じ」を目指してもくそ面白くもありません。みんなに合わせる。ひとりだけ飛び抜けない。こうした抑圧を努力とは言わないのだと思います。努力とは目標や結果や能力を伸ばすためにつとめることであって、単なる我慢とは異質なものです。普通ごっこはただの我慢の強要です。だから、早々に普通ごっこを抜けたものは強いです。抑圧の下から抜けて自分を伸ばした人はデキる。わたしも突き抜けた努力やギリギリの賭けに出ることで得たものを身に着けた、出る杭に敬意を払いたいと思っています。

わたしは、頑張れない人もいる、弱い人もいる、努力の嫌いな人もいる、だから頑張れる人や強い人や努力できる人を評価するなという考えかたが好きではありません。強者は弱者の劣等感を刺激し傷つける存在だ、だから強者が弱者のフリをしろ、というのは嫌いです。誰にも楽しみや達成感や喜びをもたらさない、なんともさみしく救いのない話だと思うのです。

強い人と弱い人とがいるとき、強い人は弱い人のおかげで存在できて、弱い人は強い人のおかげで存在できるということを忘れないでいれば、そんな意味のない冷たい優しさを強要する必要なんてなくなるのだと思います。この世はどんなものもバランスだから、頑張れる人は頑張れない人がいなければ存在し得ないし、頑張れない人も頑張る人がいることではじめて存在し得るので、そこには優劣もへったくれもないと思います。だから、くだらねえ優劣思想なんか捨てちまって、互いに強いまま弱いままでリスペクトし合えばいい気がします。強さを平均化して見せる必要なんてないと思います。

自分の中にある燃え続ける何かを維持している人を、素敵だなと思います。それは生命力と言えるのかもしれません。強要された我慢には、人間の中にある神聖な炎を絶やしてしまう恐れがあります。「くだらねえ優劣思想なんか捨てちまって、互いに強いまま弱いままでリスペクトし合えばいい」というのは、本当にその通りですね・・・!!私たちは、誰かの上に立つ必要もないし、誰かの下に立つ必要もないのだと思います。嫌な言い方になりますが、誰かの上に立とうとする人は、誰かの下に立とうとする人と同じくらい、悲しい存在なのだと思います。自分自身、誰かに認められるために何かをやってしまいそうになることがたくさんあります。しかし、そのモチベーションはそうそう長くは続かず、必ず、自分自身を疲弊させていきます。しかし、優劣などの相対的な価値観ではなく、絶対的な部分、自分の中にある絶対的な炎を燃やして「どうしようもなく、俺は俺なんだ」と矛盾や葛藤を抱えた自分をまるごとそのまま差し出した時、ひとつの筋を感じます。矛盾の中に、葛藤の中に、一貫した自分(生命力)を感じ取ることができます。

私たちは、学校教育などを通じて「しっかりまとめてから話しなさい」と叩き込まれます。理路整然としているものが良くて、整合性が取れていないものはダメだと教わります。しかし、本来、人間の前提は混沌【カオス】だと思います。天気のように移り変わり、昨日まで右だと思っていたものが明日には左になり、気分次第で別人になり、自分が絶対にしないだろうと思っていたことを咄嗟にしてしまうことがある生命体が、人間なのだと思います。色々なことをわかっている前提で話を進めますが、実際は、自分がなぜ生まれてきたのかを私たちは知らない。どう生きるのかを考える前に「そもそもで、生きているとはどういうことか」を知らない。生前を知らないし、死後を知らない。知らないまま、そんなことはわかり切っていることだとして、未知を土台に既知を築く。混沌を引き連れて生きる私たちにとって、わからないことは恥ではなく、わからないことこそが面白さなのだと思います。昨日まで極悪人だった人間が、今日、川で溺れているこどもを助けるために命を差し出すことがあります。それくらい、人間には未知な部分があるのだと思います。自分にはわからないことがある。そう思えている時、生きることが楽しみになります。地球という惑星に、冒険に来ている感覚になります。

今自分に不平不満を持っている人は、ああなったら、こうなったら、この人みたいだったら不平不満がなくなるだろう、と思っているのかも知れませんが、誰になったとしても同じです。今不満がある人は、未来でも不満を持ちます。今に不満がある人は、過去にも不満があります。自分に不満がある人は、どんな自分になっても不満があります。自分に満足している人は、どんな自分になったとしても満足します。今が幸せな人は、どんな環境に置かれても幸せを見い出します。幸福は相対的なものではなく絶対的なものだから、たら、れば、が通用しません。ああなったら幸せ、こうなれば幸せ、が通用しません。

だからもう、いきなり今の自分を幸せ者としてしまう。とりあえずそういうことにする。仮免許でいいので公道に出る。幸せ者として行動する。こんなんで幸せと決めちゃう。こんなんだけどこれで図々しくOKにしちゃおう。不満バリバリだから改善しながら、そんな活動ごと幸せとしちゃおう。人生を良くしようという努力をしつつ、努力自体を幸せとしちゃおう。自分に嫌なところがいっぱいあっても嫌なやつがいっぱいいても、それで幸せとしちゃおう。この不幸な感じごと幸せとしちゃおう。辛くたって幸せとしちゃおう。なんだとしても幸せということにしちゃおう。いいこともあるんだから不幸と決めるのはやめよう。自分は幸せだと決めたら、誰がなんと言おうと幸せだ。ええい幸せだっつってんだろう!!でいいと思います。幸せの基準は人それぞれだ、だから正解はないと言われますが、あえて正解を言うならそれは「今の自分」です。いつだって今の自分がそのまま幸せの基準です。

とてもじゃないがそう思うのは無理です!!という人は自分に負けている。今の自分を幸せの基準にしてみてこそ、ひっくり返るものがあります。そこを変態的にやっちゃうのがコツです。幸せだと思えない~~じゃなくて、今を幸せと仮定した場合、ならばどこが幸せなのかを挙げてみること。そこに変態的にしつこく思いを巡らせ反復すること。歩ける、手が動く、目が見える、今日も起きた、一応飯食えた、なんでもいいから無理くり「自分は幸せだ(仮)」を真実ということにしてしまうこと。幸せの状況証拠を挙げまくること。白を黒にしてまで、己の中の幸せ裁判で勝訴を目指すこと。幸福の無期懲役を勝ち取ろうとすること。するとやがて、バチンと何かが弾けたようにすべての点と点がつながって、これまで見えていなかった一枚絵がバラリと目の前に展開します。これまでもずっと目の前にあったのに、見えていなかった、見ようとしていなかった、見るすべを知らなかった絵が。その絵のタイトルは「幸福」で、そこには今の自分の現実がそのまま写実してあります。それが見えた人の幸福は、もう揺らぐことがないのだと思います!!

長文引用の連続を大変失礼いたします!!削れないっす!!全然どこも削れないっす!!「とてもじゃないがそう思うのは無理です!!という人は自分に負けている」とか、もう、最高です!!ブラボー!!負けることがあるにしても、負けっぷりって大事だと思います。負けるにしても、ロッキー・バルボアくらい感動的に負けてみろと自分に思いました。最終ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分がただのゴロツキではないことが証明できる・・・勝つことよりも立ち続けることに重きを置いてみろと、自分に思いました。そして、最後に「エイドリアーン!!!!!!」と叫べばいいのだと思いました。一昔前、号泣する準備はできていたという短編集が直木賞を受賞しましたが、男が主人公の場合は「エイドリアンと叫ぶ準備はできていた」になるのかもしれません。勝つことだけが価値じゃない。何度でも立ち上がることにも、勝ちに負けるとも劣らない価値があるのだと思います。絶対に諦めない。不屈の闘志。自分を信じる。夢を信じる。仲間を信じる。愛。勇気。信頼。ベタ中のベタですが、ベタこそ最強なのだと思います!!

忘れてしまうたびに思い出したいのですが、自分が大好きなあの人は自分を幸せにすることはできない。自分が大嫌いなあの人は自分を不幸にすることはできない。自分の幸せを決めているのはいつだって自分。泣く道を選ぶのか。笑う道を選ぶのか。どのような状態に置かれたとしても、笑う道を選ぶ自由は残されている。自分を否定しても誰も幸せにならない。自分に同情をしている場合ではない。被害者面をしている場合ではない。いましかない。やるしかない。混沌を引き連れて「デタラメな俺を見ろ」と、弱いなら弱いまま、ダメならダメなまま自分を前面に押し出して生きる。命を燃やす。心を燃やす。命は、この瞬間も生きたがっている。混沌こそ我が命。矛盾の中に、葛藤の中に一貫した自分がいる。自分を出す。世界に出す。神の愛を歌うより、神の作品である自分自身が声高に歌う。聞いてくれ、これが俺のラブソングだと言わんばかりに全身のオルガン(臓器)を震わせる。その歌声こそが祝福であり、その歌声こそが福音になる。壇珠さんの存在のおかげで、今日も新しく引っ張り出された自分がいます!!自分は自分の歌を歌うのみ・・・声の限り・・・力の限り・・・命ある限り・・・ヴェネツィアまで、私の魂の声よ、届けーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!うおおおおおおおおおおおりゃあああああああああああああ!!!!!!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!