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代々受け継がれた“天然の仕込み部屋”でつくる、極上の「さばずし」

<はじめに>

「なりわいノート」特集第三弾は『井波の魚文化』です!

掲載6社目は、北陸の郷土料理「さばずし」をつくる「脇本鮮魚店」さんです。
井波では7月に開催される『太子伝会』の際に「さばずし」が振る舞われる習慣がありますが、脇本さんがつくる「さばずし」は、瑞泉寺のものと比べるとさっぱりとした味わいが特徴で、隠れファンが多いことで知られています。
今回は4代目 脇本泰夫さんと奥さまの琴代さんに、「さばずし」づくりのこだわりと脇本家の歴史についてお伺いしました。ぜひご一読ください!

<脇本鮮魚店とは>

創業1882年(明治15年)。
塩や肥料の小売業を営んでいた初代が、井波は北川に移り住み魚屋を始めたことを起源とする。現代表のお父さまである、3代目 脇本甚一さんは天皇陛下を補佐する近衛騎兵としての役務を全うし、退役後は町会議員を務め議長を任されるほど人望のある人物であった。
脇本鮮魚店には現在後継者はおらず魚屋も既に閉めているが、年に一度の「さばずし」だけは少しだけでも夫婦で頑張って作りたいと語る。

南砺市に300年続く『さばずし文化』

「さばずし」と聞くと、鯖街道でおなじみの京都名物を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、ここ南砺市のさばずしはいわゆる『なれずし』で、塩や麹、米などにさばを漬け込んで熟成させる発酵食品です。市内では7月に開催される井波瑞泉寺の『太子伝会』、城端善徳寺の『虫干法会』の際、参加者にお斎(おとき)としてさばずしが振る舞われます。この習慣は300年前から続く地域の伝統行事であり、さばずしの漬け込み作業が行われると県内のニュースで報道されるなど、初夏の風物詩のひとつとなっています。

太子伝会が行われている瑞泉寺

脇本鮮魚店がさばずしを作り始めた時期については正確にはわかっていませんが、遅くとも2代目の頃だろうということです。さばずしはつくり手によって絶妙に味が異なりますので、井波の人はどこのさばずしが好きか、それぞれ贔屓のお店を決めています。なかでも脇本鮮魚店のさばずしには熱心なファンが多く、いつでも食べられるようにと大量に購入して冷凍保存をしている方もいらっしゃるそう。
ちなみにさばずしは7月の暑い時期に提供されるため、高温多湿な環境でも日持ちするようにと、瑞泉寺のものは特に濃いめの味付けになっています。

瑞泉寺で振る舞われるお斎:右下がさばずし

井波の外にも知られる「脇本家」の家柄

現代人にとって「家柄」や「家格」といった言葉はあまり耳になじみがありませんが、お見合い結婚が主流であった昭和期には、この「家格」が非常に重要なポイントでした。脇本鮮魚店の奥さまである琴代さんも、この「家格」こそがお見合いを受けた一つのきっかけだったと言います。
脇本家は二代目に大商人の三男を婿養子として迎えたことで家格を上げ、さらに三代目が近衛騎兵という立派な役職に就かれたこと、退役後には町議会議員としての活動に励んだことで、その家名は井波の外へもよく知られていました。
ちなみに、三代目の甚一は近衛騎兵の訓練中に怪我をして右腕の肘から下はありませんでした。国に届け出れば傷痍軍人として認められて恩給が出たのですが、「国の世話にはなりたくない」と手続きはしなかったそうです。三代目のお人柄がよくわかるエピソードです。

この頃、福光出身の琴代さんの元へお見合い話が舞い込みました。琴代さんのお母さまは「魚屋なんて大変なところに娘はやれん!」と大反対。それは、お母さまのご兄弟が魚屋を営んでおり、朝が早くて苦労している姿を見ていてのことでした。反対にお祖母さまは戦時中の食糧難を経験していたことから「魚屋ならば食べることに困らなくて良い」と言い、二人で言い争っていたそうです。一方、ご本人はというと「脇本は格式のある家だし良いんじゃない」と前向きに考えており、無事に脇本家へ嫁入りすることとなりました。

魚屋の仕事は、毎朝高岡の市場に魚を仕入れに行くところから始まります。琴代さんのお母さまが言っていた通り本当に朝が早いのです。魚は一日に売れる量だけを仕入れますが、どうしても余ることはありますので、その際は加工をして提供します。料理屋さんから注文が入ることもありますので、そうした状況にあわせて日々仕入れる量を調整していきます。
脇本鮮魚店では、4年ほど前まで毎日市場へ行き店頭へ魚を並べていましたが、体調や年齢のこともあり現在は魚屋としての商売は辞めています。

脇本家のさばずしが美味しいのは、なぜ? 

脇本家では、2月からさばずしの仕込み作業が始まります。それから3月、4月と順々に漬けていき、早めに仕込んだものを5月からまた順々に取り出していきます。さばずしの味は温度に大きく影響されるため、2月の寒い時期に仕込んだものは低温で熟成されて、甘くてとろりとした食感になり、漬け込んだ時期が遅くなる(暖かくなる)ほど酸味がでてきます。好き嫌いは人それぞれで、甘くてとろりとしたものが好きだという人もいれば、酸味が出てからが好きだという人もいるそう。脇本家の仕込み部屋には空調設備等はなく、温度調節なしで自然にお任せしているところがその美味しさの秘訣のひとつでしょう。

さばずしのお話をお伺いする中で、お二人は「漬物ほど難しいものはない」と口をそろえました。さばずしは仕込み作業をしてから5月に取り出すまで、どのような出来上がりかはわかりません。その年の気候によっても味は変わりますので、初めて仕込み部屋から出して味見をするときは毎年ものすごくドキドキするとのこと。一口食べてみて、いつも通り美味しい味わいを確認できた時にやっと「美味しく出来てよかった」とホッとするのです。2月からの頑張りが報われる瞬間です。

ちなみに、脇本家の仕込み部屋には「目に見えない麹菌がたくさんある」と琴代さんは考えています。一度、同業者に「脇本家のさばずしが美味しいから作り方を教えてほしい」と言われてレシピを教えましたが、実際に出来上がったさばずしは全く味が異なりました。初めは「真面目に聞いてなかったんじゃないの?」と相手を責めましたが、よくよく考えると「この仕込み部屋でこしらえるからこそ、まろやかな味になるのではないか」と考えるようになりました。
脇本家の仕込み部屋は昔ながらの味噌部屋で、味噌をつけこんでいた頃からの麹菌がずっとそこにいるのかもしれません。そのため、仕込み部屋にあるすべてが旨味成分だと思うと下手に部屋を掃除することもできない、と琴代さんは言います。
脇本家のさばずしが美味しい理由には、一世一代では再現できない様々な環境要因があるのでしょう。レシピを伝授しただけでは真似できない、その家でなんとなく続けてきた習慣こそが、その美味しさの本質なのかもしれません。

閉店後、ゆっくりとした生活を。

4代目はもうじき90歳を迎えるというのに大変お元気で、毎日万歩計を片手にお散歩をしています。一方、奥さまは詩吟に熱中しており、その影響か大変に勉強熱心で、様々な偉人の格言をノートに記しては辞典で調べて内容をメモしてと、学生さながらのびっしりと書き込まれたノートを「これは5冊目だ」と見せてくれました。これまで働き詰めだったお二人ですが、4年ほど前に魚屋としての商売を一旦止めて、やっと一息ついたゆっくりした生活を送っています。

スーパーや複合施設での買い物が主流となった現代、「町の魚屋はどこも苦しい状況だろう」と4代目は言います。脇本家のある北川通りも以前は軒並み商売人で、八百屋さん、肉屋さん、魚屋さん、お菓子屋さん、米屋さん、酒屋さん、呉服屋さん、金物屋さん、美容院、燃料店、古物商、治療院まであって、大変に栄えた通りだったそうです。それがいつしか人口が減っていき、跡継ぎもいないという現状。これも時代の流れでしょうか。こうして脇本鮮魚店が4年前まで続いていたことが、お二人の努力の賜物なのだと思います。

おわりに

7月の太子伝会では多くの方が「さばずし」を買い求めます。その姿を見ると『300年続く「さばずし」の文化はこれからも続いていくのだろう』と確信することができます。
その一端を支えた脇本鮮魚店の、特別な環境要因からできあがる美味しいさばずしが食べられるのはあと何年でしょうか。ぜひ、瑞泉寺のものとは少し異なるそのさばずしの味わいを体験し心にとどめてほしいと、ささやかに願います。

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