棒高跳を長年続けてきて

「陸上やってます」「え、種目は?」「何か当ててみてください」

この流れで絶対に当てられることのない競技、棒高跳。その棒高跳を中学から大学まで続けてみて、記録と周りの環境と自分の意識や感じたことやその他諸々について書きます。駄文になりそうですがまとめたいです。


中学

自分の中学は県内トップクラスの強豪校で、秋の県大会では通算20回以上も総合優勝をしている。そんな陸上部に入部した(させられた?)中学1年生の僕はめちゃくちゃ足が遅かった。小学校から陸上クラブに入っていたものの、「強くなりたい」という気持ちもなく、部活内では下から2番目3番目くらいの遅さだった。体の大きい同級生に長距離は勝てたので、長距離をやってみたが、別にそこまで早いわけでもない。さあ中学ではどうしようとなった時に、友達の兄貴がやっていた棒高跳が面白そうに見えた。それがきっかけで棒高跳を始めた。一緒に始めた同期は僕を入れて4人。多いなあ、試合出れるかな、、、

1年生のうちはひたすら砂場に穴を掘ってボックスにして練習。マットはなかなか使わせてもらえない。競技場練習でも、準備だけやらされて、跳ばさせてもらえない。結構ムカついた。兄貴がいる同期だけ跳ばさせてもらっていたのも腹が立った。周りの友達が試合に出てるのを見て、うらやましいなと思う反面、自分が出ても弱すぎて話にならないなとも思った。でも、競技場練習で保育園の友達に再会し、お互い棒高跳をやると知って、負けたくないなとも感じた。シーズンラストの記録会に初めて出場、2m20を跳んでなんとか記録を残せた。

2年生になってからはになってからは出られる試合も増えたものの、県はおろか地区でもまだまだ弱い選手のまま。かといって自分の意識は変わらず、毎日惰性で部活をこなすだけ。学校生活はめちゃくちゃ楽しかった。

棒高やってきた同期が1人ケガしてその後中距離に転向。

たしか2年生のベストは2m80。まだまだ弱い。

そして3年生、ここが棒高を続けてきた中で1番の転機だと思う。顧問が代わり、棒高の専門の先生になった。初対面で言われたのが、「東海大会に行くぞ」という、当時の自分にとっては夢物語。東海大会へは、夏の県通信陸上で6位に入らなくてはならない。例年、3m70くらいが目安だった。本当に東海大会なんか行けるのか?と半信半疑になりながらもその先生から技術の指導を受ける。

棒高跳びの動作は主に、ポールをボックスに突っ込んでポールを曲げる段階までの「下の動き」とそれ以降の「空中動作」に分けられる。先生はその中で「下の動き」をきちんと組み立てられれば自ずと「空中動作」もついてくる、という考えだった。夏まで時間もなく、下の動きを作り上げようという指導だった。

ゴールデンウィーク頃に、近くの中学の練習に参加。手応えあり。顧問からも、東海大会に小指がかかったな、と言われる。その後の記録会で3m60の自己ベスト。

まてよ、これ本当に東海大会行けるんじゃないか??
そう考えながら迎えた通信陸上。


無効試技数差で7位。めちゃくちゃ悔しかった。
夢物語だった東海大会が少し手を伸ばせば届くところまで近づいていたからこそ、余計に。秋の県大会ではもっと強くなりたいと思った。

夏休み

ベストが3m70になった。でもほかの学校のライバルには負ける。くやしい。

さて、県大会の地区予選。ポールを折るハプニングもあったものの、同期3人で突破出来たのが1番嬉しかった。オープン100mもベスト更新。スプリントに関しては、顧問に棒高の専門練習を長い時間見てもらい、他の種目に比べて延長しがちということによって、練習締めの快調走を1人で走るようになった結果、足が早くなった。それまで友達とダラダラ走っていたものが、1人だからある程度飛ばさないと怒られるという、今までのやる気のなさが垣間見える理由だが、まあ速くなれたのでよしとしましょう、、。

ポールを折ったのはこの時が初めてで、その瞬間は何が起きたのか分からなかった。すぐに幅跳びの審判をしていたはずの顧問が駆け寄って来てくれた。僕ではなく折れたポールに、、。今考えると、よく折った直後の試技で跳躍できたなと。この時は同期に、もう一本折ってしまえ!と言われて気が楽になったのを覚えている。試合後、顧問から新しいポールを予約したと言われた。「もう一本折ったら、スポーツ店が雇ってくれるらしいぞ、ただ俺は半殺しにする」と、顧問から煽られる。まあ何にせよ、新しいポールが無ければ県大会は入賞出来なかったので、感謝しかない。

さてさて県大会。結果から言うと、ベストを20cm更新した3m90cmで3位。とんでもない順位をとってしまった、今まで入賞しても5位とかだったので、有終の美を飾られたかなと思った。ただ、限界を超えてしまったのか、次の日の観戦中に体がだるくなり、食欲もなく、家に帰って熱を測ったら38度!!結構ほんとに死ぬかと思いながら試合を見ていた。

次の週、これで引退となる記録会。記録はたしか3m40。なんじゃこんな記録!!まあ体調崩してたし、これがほんとの実力か、と思った。これにて中学陸上引退!!


高校入学

高校は、地区の進学校に入学。中3の年明けくらいに、高校でも棒高続けようと思っていたので迷わず陸上部に入部。中学の時から知っていたそこそこ強いメンバーも陸上部に入り、進学校の割に強そうだなぁと思いながら高校の陸上スタート。1年生の間は受験のブランクを取り戻すのに精いっぱい。ベストタイの3m90を跳んでシーズンは終了。同期は4m40まで記録を伸ばしていて焦る。

2年生は陸上部も学生生活もめちゃくちゃ楽しかったものの、記録はいまいち伸び悩み、総体では4m、夏ごろに4m10を跳び、一応ベストは更新しているものの、物足りない。顧問に怒られまくる。修学旅行から帰ってきた次の日に記録会に出て、ベストタイを跳んだのもいい思い出。きつすぎて死ぬかと思ったけど。

しかし2年生の時には、棒高跳選手が恐れる「踏み切れない病」を発症。踏み切れない病とは、跳躍の際に踏み切り動作ができなくなる一種のイップスのこと。練習で全く跳躍練習ができなくなり、ぶっつけ本番で試合に挑むことになる。当然、記録も伸びにくい。練習ではひたすら全助走では踏み切れず、中助走でのポール曲げと跳躍練習をするのみ。なんでできないんだという思いに駆られながら毎日を過ごす。これが完治したのは春休み、大阪の高校の練習に参加した時だった。わざわざ遠くまで来て、これで何も跳べないなんてなれば顧問に殺されるな、という強迫観念もあったのかもしれない。この日はそれまで跳べなかった分を取り返すように跳びまくった。

3年の5月はじめ、高校春季大会でマットに着地する際に腰を痛めてしまい、まともに歩けない状況になったものの、その後の試技で自己ベストの4m20をクリアするスーパープレー。月末の県総体までに治さなくてはならない。さあどうしよう、間に合うのか。とりあえず絶対安静として、ちょうど定期テストもあったので勉強に集中することに。約一週間後、塾から友達とコンビニへ行く途中、お?走れるんじゃないのか?となり、実際軽く走ってみると腰の痛みもなく、その時はめちゃくちゃうれしかったのを覚えている。

県総体1週間前、もう一度大阪の高校の練習に参加させてもらえることに。その高校の先生にも指導してもらい、跳躍も絶好調だった。県総体前最終練習でも、学校でその時のベストの4m20をクリアし、これはいけるぞ!と感じながら県総体を迎えることに。

県総体1日目は絶対に東海に行くであろうハードルの同期が7位となり負け、それを見て、やばい、自分も負けたらどうしよう…と思いながら歩いていると、別の高校のコーチに「どうした、顔が暗いぞ、前向いて歩け」とハッパをかけられた。そして2日目の男子棒高跳び、結果は4m40で6位、中学のころから念願の東海大会出場を決めることができた。試合内容的にも、4m、4m10、4m20まで一発クリア、4m30は2回目のクリアとなったものの、4m40を一発クリアという、かなりよい展開だった。しかし4m30の一回の失敗が響き、別の高校に行った中学の同期に負けてしまったが、まあ東海大会には行けるのでよしとしよう。自分の高校は出場3人全員が2位6位8位に入賞し、同期と一緒に東海大会に行けるというのもうれしかった。8位に入った後輩は2年後、全国インターハイで2位になるのであった。

楽しみにしていた東海大会、前日練習のために木曜~日曜まで名古屋に滞在することに、公欠最高!!!(月曜に学校に行ったら、机に数学のプリントが引くほど入っていた)前日練習では絶好調で、さらなるベスト更新も狙えそうだったが、試合当日は体が重く、結局は記録なしに終わってしまった。顧問の母親(地元陸上界の重鎮)にもらった卵焼きとおにぎりをほおばりながら、悔しくてちょっと泣いた気がする。悔いがないといえば嘘になるが、まあ高校陸上も楽しかったなと思えたので良かった。

ちなみに、他の試合でも公欠しまくっていたため、おそらく皆勤賞をもらった人の中で一番実出席日数が少ない気がする。

その後、同期はインターハイで決勝に進出するも、惜しくも入賞ならず。その後国体で2位入賞。すごい同期をもったものだ。



大学入学

高校卒業後は、東京の国公立大学に進学。陸上を続けるとは考えていなかったので、陸上部の状況や環境について全く気にしていなかった。とりあえず陸上部を見に行ってみるかと、グラウンドに行き、最低限のポールとマットがあることは確認し、やれないこともないな、と思ってなんだかんだ棒高を続けることに。

1年目から関カレ(2部)には出たものの、記録無し。秋の記録会で4m30を跳び、復活の兆しが見える。公式練習ではゴムバーながらベストタイの4m40を跳ぶ。

2年生最初の試合は近所の競技場にポールを担いで行って、中学生だらけの試合に参加。中学生の試技が終わって4mくらいから跳び始めるも、絶好調過ぎて持っているポールでは柔らかすぎるという事態に。結局ノーマークに終わる。観客も多く、失敗した試技でさえも「おおぉーー」と声があがって楽しかったのに残念。

関東インカレも、ポールが柔らか過ぎて撃沈。めっちゃ悔しい。

東京地区国公立戦では何度か練習に参加していた大学にポールを借り、小雨の中で4m30。またもや40は跳べず。しかし(参加者がそもそも少ないので)、陸上人生初の優勝を経験する。100mのオープンでも自己ベストを更新、以降の試合に期待が持てる。記録も上向きで楽しい。7月の地元の県選手権でようやく4m40を跳ぶ。この2試合は両方雨ながら記録が出せた。

しかし夏にあまり練習を積めなかったこともあり、秋シーズンは惨敗、来年度の復調を目指して冬季へ。

そこにコロナが直撃し、3年生春シーズンは試合なし、グラウンドも使えず課外活動も禁止、すなわち練習ができない。本格的に再開したのは6月になってから。就活のことも考えながら練習に行く。人が足りなくて四継に出たら、まさかの決勝に行き、1日に2本も走ったせい?で翌日の棒高は上手くいかず、不完全燃焼でシーズンを終える。ここから就活も本格化してゆく。

4年生シーズンも就活と研究室を並行しながら部活に行く生活。コロナで試合も少なかったこともあり、もう陸上はいいかなと思いながら惰性で練習に行く日々。就活はほとんどがオンラインで説明会や面接が行われるため、午前中は部活に行き、午後から家で説明会に参加するといった生活を続けた。

この年の関東インカレは後輩に譲り、自分はスタンドから観戦。練習跳躍を見て、これはベスト跳ぶだろうなと思っていたら、やはりベストを更新、大舞台でよくやれたと思う。後輩のベスト更新は嬉しかったが、自分を越されてしまった事でちょっと落ち込み、このまま終わりたくないなと思い、気合いを入れ直す。

しかしなかなか思うように行かないものである。夏の記録会も何も収穫のない記録無しという最悪の結果。県選手権は4m20。何度か出た100mもベストには遠い。挙句には秋の記録会直前に練習中に軽い肉離れのような筋膜炎を起こし、記録会は欠場。どうしょうもない幕切れとなってしまった。年明け3月の記録会に出るという手もあったのだが、卒論や引越しなどのバタバタがあり、さすがに厳しいだろうなと思いつつ部活からはフェードアウト。

こんなに長く続けてきたのに、終わりはキッパリいかずにズルズル引きずってしまった、そういうものなのかな、もっと綺麗に終わりたかったのにな、大学でベスト跳びたかったのにな、もっと本気で取り組むべきだったな、中学高校は本当に周りの環境に恵まれていたんだな、、、

ズルズルと後を引きずる幕切れになってしまった。

大学の先輩の中には、陸上第一で生活し、研究の合間に1人でもきちんと練習していた人もいる。
結局自分はそこまでの事が出来ていない、甘い人間だったのだろう。ズルズルと惰性で続けるのはよくない、自分がどうなりたいのか、そのためには何をすれば良いのか、それを1人で考えられる人間に成長したい。

部活で成長したのではなく、足りないものを思い知らされたのかもしれない。

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