疑問への疑問

私は何者なのか、そんな問いに答えはない。あるいは答えなんて分かりきっているとも言える。人間社会においては1998年に生まれた今は大学院生の男性で、就活もろくにせず他に何かしているというほどでもない生活をしている人間だ、と言えるし、科学っぽい言い方をすれば有機物の分子の集合体が膜の中に入ったり出たりしながらも形を保って24年間ウヨウヨしてきたものでもあるし、あるいは私という自意識にとって私だと思える唯一の意識だ、という説明もできるだろう。

でもそんな答えだったらあってもなくても同じようなものだ。
でも人間の頭が、あるいは少なくとも自分の頭が導き出せるような答えなんていうのは、その程度のものでしか有り得ないのかもしれないとも考えられる。

自分の外のものが、様々に多様に現れてくるのも不思議なことだ。それは完全にランダムだったりするわけではなく、人間の科学という営みによって、ある範囲で様々な規則に従っているということがわかってきている。とはいえ、世の中がある規則に従ってそれなりに安定に存在しており、さっきあったものが大体次もその辺りにあり、私は次の瞬間も私である、とほぼほぼ信じられることも、決して自明ではなく、不思議なことだと思う。こんなことも、結局ある程度安定した環境がなければ意識を持った生物が進化してこれないから、私という観測者の生物がいる時点で安定した環境に決まっているという人間原理的な説明ができるかもしれないが、こんな答えもあってもなくても同じようなものだ。

そもそも私の頭で分かるということ、納得できるということが、何かを保証すると考えていいのだろうか。結局僕たちは、自分の頭に分かる形でしか分からないはずで、その理解は世の中をそのまま映し取ったものではあるべくもなく、なんらかの捨象が行われた残りの部分であるはずだと思う。そんな中で何かを分ろうとする行為が、学問をずっと続けていくということが、自分の心の奥底で白々しいものに感じられているのは確かなことだ。学問というのもやりたい人がいればやればいいという話で、適性がある人にとっての、この与えられてしまった生をやり過ごす手段でしかないと、言って言えないこともないような気がする。これは別に役に立つ立たないの次元で思っているのではないけれど。

人間の役に立つならそれでいいと、素直に思えるのならこんなような疑問には全く触れずに過ごしていけるのだろう。だが、人間が生きていければそれで良いとも、人間社会がそんなに良いものだとも大して思えないながらも、自分が楽しければ良い、という風にも思い切れない自分のような人間にとっては、どちらを向くにしてもこれらのようなモヤモヤの壁が立ち塞がっている。どちらにいくにしてもこの壁をそれとなくやり過ごして、立ち尽くすことしか今のところ出来ていないのである。

それではこの壁、という自然と、自分という矮小な制限という自然、これらを所与のものとして対象にし、戦っていくあるいはとりあえず生きていくという方向も考えられるけれど。でもこの時戦う主体は何であるのだろうか。

人からみれば自分にやる気がない、と映るだけなのだろうけれど。

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