教育を考える <国語、数学、理科>

教育を変革すべきだ、というようなことは、よく言われる。そして非常にゆっくりではあるが、日本の学校教育も変わってきているようである。最近でもセンター試験が廃止されたことが記憶に新しい。だが現存の教育のシステムを援用していくという前提があるから、カリキュラムなんかも本当にゆっくりとしか変えられないのが、社会システムの性である。こういうことを見ていると生物の進化のようだと思う。あまりに突然変異の割合が大きいともし適応できなかった時にすぐ絶滅してしまうので、変化をなるべく少なくしようという圧力がかかっているかのようだ。

だから、今の教育をどう変えていくか、という観点から考えていっても、すぐに現実的には無理という結論になってしまって、面白くない。ここでは自分だったらどんな教育が受けたかっただろうか、ということをそういった現実的な制限をとっぱらって考えていってみたいと思う。

まず科目についてである。現状日本でメインとなっている科目は、国語、数学、理科、社会、英語の五科目ということになっている。がしかし、なんと理解しがたい科目割りだろうか。僕は最初この科目割りを聞いたときどういう理由でこんな科目割りになっているのか想像もつかなかった。

科目の名前からは内容のテリトリー分けがよく分からないので、それぞれの科目に対して自分が受けた内容の実情を思い出していく。そして自分だったら改善したいと思う点を適宜挙げていこう。

国語で習ったのは、文学作品の解釈の仕方だった。古今の文学作品の内容を、どのように対応付け、どのように説明するのか、という内容が九割を占めていた気がする。最近「ゆる言語学ラジオ」が流行っていたりして聞いているが、言語学のような観点から日本語を見たり、そもそもなんで言語があるのか、どのような言語があるのか、どのように言語が使われているのか、といった疑問を提起することをすっとばし、偏った文学作品に対してつまらない内容の対応付けをさせていたのではなかっただろうか。

つまり、内容が偏りすぎている。いきなり文学作品を読ませるのがそもそもおかしくはないか。実用的にも、とっかかりを作る意味でも、日常的に用いるような日本語を取り扱ってから、適宜文学作品を読むことも同時並行で行うべきじゃないだろうか。まず我々に必要なのは、自分が思っていることを人に話したり、人とある議題について話し合ったり、話し合いの中から結論までこぎつけたり、そういったことのための技術だ。そしてその中から人に伝えたいことが出てくれば文章を書く技術が必要だし、何かの感慨を覚えたり、さらなる探求がしたいと思えば、文学作品に向かう欲求も自然と出てくるはずではないだろうか。僕だったら国語で扱いたいと思うのは、まずどうして言語なんてものがあり、有効に用いられているんだろう、ということだ。そのためにはまず、文字が何かの内容を表象している、という「記号」のコンセプトを説明するべきである。そして記号の運用のルールとしての「論理」があり、また記号を人に伝えるための「文法」、世界の出来事を表象するための記号の組である「単語」、これらを合わせたものとしての「言語」として言語を説明したい。そしてそれらが「情報」を圧縮して伝えられるということ、「情報」を圧縮するための媒体の一種として言語が生まれてきたこと、などなど。こうして考えていくと、「言語」、「論理」、「情報」のあたりはつながっていて、ここから情報技術の基礎へと話を持っていくことさえできるのではないだろうか。言語を習うべき本筋はこっちの方であって、「文学作品鑑賞」はまた別のもののはずなのに、言語を論理的に運用する練習のために、文学作品を切り取って死ぬほどつまらない読み方をする、ということを延々としていたと言っては言い過ぎだろうか。「文学作品鑑賞」のようなものは別の文脈で、美術なんかと一緒に「表現」として学んだらどうだろう。我々の持っている固有の感覚による「非意味的な意味」が、世の中を異なる切り取り方をさせ固有の環世界を作り、それを「文章」のメディアで表現することもできれば、「絵画」や「音楽」などに表現されることもある、など。こうすれば「表現」というパラダイムの中で、多様な媒体がある、という「メディアアート的観点」が扱えるし、あるいは感じることと、作ることの関係性について考える、ということを含めて「表現と創作」という科目名にしてもよいかもしれない。「論理、言語、情報」と「表現と創作」の二つ。そして「表現と創作」の中では、「マイノリティとしての芸術家」の観点もしっかり扱うべきだと思う。社会を効率化していくという方針、例えば「最大多数の最大幸福」というような考え方は、「標準から外れた人の甚だしい不利益」を喜んで許容する。そういった中で「外れ値である個人」を救う一つの手段として「表現」を評価する分野があるのではないか、という観点である。

数学で習ったのは、計算の仕方である。そしてほとんどそれだけだ。どのように数値を演算するか、どのように方程式のxを計算するか、どのように面積や体積を計算するか、ただそれだけ。自分は数学は得意な方ではあったが、自分の興味が数学の授業で動かされたことはほぼ皆無だった。
なぜ数というものを人間が考えたのか、なぜ数を使うと良いことがあるのか、数を用いて展開される数学が、実験をベースにする自然科学に適用できたのは、あるいは今まで適用できているのは、なぜなのか。そんなことに授業でふれられたことは、自分の記憶では一度もない。むしろ不思議なくらいである。

私たちは誰も数というものを見たことがない。そしてこれからも誰一人として見ることはないだろう。その見たことがない数というものを文字でくるんで運用することで数学という体系ができている、そう考えるとこれはとても不思議なことだ。そんな訳の分からないものを人間の脳が生み出し、それを扱う術をずっと伝承して、培ってきたのである。そしてそれを用いることで自然を説明することができる。どうして人間の頭の中で生まれたであろうものが身の回りの世界を説明することができるのか。そんな問いを少しでも数学の授業が扱っていたなら、授業を聞く気力が少しは湧いたかもしれない。問題が解けるか解けないかで優劣を決めるなんていうのは、おそらくほぼ記憶力と数学的能力の遺伝によるもので、不利な遺伝子を持った人にとっては余分な労力がかかる、という非常にアンフェアな設定だと思う。だし、おそらくほとんどの人にとって四則演算以外の話は後の人生でなんの役にも立たない。
数学が苦手だという人の話を聞いていて思うのは、数学が扱っているのは本当に数だけなのだ、ということが分かっていないのではないか、ということだ。例えば「林檎が一個」というとき、数学の問題では数以外の林檎の要素、例えば「色艶」や「肌ざわり」や「美味しさ」なんかはすべて捨象している。こうすることで「一個」の「1」という数を数の世界で処理することができ、個数を足したり掛けたり、ということができる。そしてその数の世界で得られた結果を現実世界に戻すとそれなりに役に立つ、という寸法なのだ。つまり、色々なものを捨てまくって、数として表せるものだけを数学では扱っている。そういった「具体的なものの情報を捨象して抽象化することで、より一般的に成り立つ法則を演繹することができる」という考え方がないと何もわからないまま計算だけすることになってしまうのではなかろうか。逆にそれが分かれば、「集合」と言ってみたり、「位相」と言ってみたり、「群」と言ってみたりして、あまりにも適用範囲の広い抽象的な階層の概念を数学が作り出すことも、コンセプトとしては理解できるようになるのではないだろうか。

理科で習ったのは、各種の実験から得られた方程式と、その方程式の使い方で、9割以上の時間が方程式の使い方の練習に費やされた。実験をする時間は、1割以下である。また、不思議なことに、内容を授業で教えられてからその内容についての実験をするのである。なぜなんだろう。最後まで丁寧につまらない語り口でネタバレをされてから、ドラマや映画を無理やり見せられているかのごときだ。また一方で、扱っている話がめちゃくちゃ昔の話であり、現在の科学技術とはかけ離れているということにもほとんど触れない。これではどこぞの異世界の自分とは関係のない話のようになってしまう。

まず一番やばいと感じるのは、全部習った後で実験をすることである。本当になんでなんだろう。順番が逆ではないだろうか。僕たちが理科で最も習わなけらばいけないのは、「何かを知りたいとき、適切に実験をすればそれを知ることができる」という自然科学の得てきた経験則だと思う。理科の教科書の最初に出てくるべきなのは、「人間は自然科学が出てくるまで神の力や魔術や占星術などといった方法で、確かめることもなく世界を知った気になっていたが、自然科学のコンセプトが出てきたことで実験をして誰もが確かめられることだけを確実な知識として蓄えていき、そぐわない結果が出てくれば知識を修正し続ける、という手法を手に入れた。」ということと、「そのことによって科学技術が発展し、工業や情報産業が可能になって、現在の社会が形成されてきた」ということではないだろうか。つまり、「方法的懐疑」のコンセプトと、その方法がこれまで功を奏してきた、ということを伝えるべきだ。それを教えた後で、生徒と実験をしまくって、いろいろな疑問を得た後でその理論について考え、学び、教えるのが良いんじゃないだろうか。今の教育ではおいしいところが全部先に食べられてしまっている感じがしてならない。だから、まずは「自然科学のコンセプト」の単元があり、「自然科学と人間社会の発展」の単元があり、その後に各単元が続く、という構成である。その上で各単元の最初に様々な実験をするパートがあり、そこで各生徒が疑問を書き出したり、推論をしたりする、という時間を設ける。その疑問や推論を確かめていくという形で、授業を行うのである。
このようにすれば、「分かっていることをひたすら覚えて正しく運用する」ではなく「分かってないことがあるからとりあえず実験をして確かめてみる」という感覚が湧くのではないか。この感覚があれば、工学のような分野でも「仕組みがよくわからないから一旦あるものを分解してみる」とか、「とりあえずありあわせの知識と材料で作れそうなものから作ってみる」といった発想にも繋がりそうに思える。


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