わたしについて

わたしはいつも悲しかった。



大企業の社員である父と、専業主婦の母という平均から見れば恵まれた家庭、そして一つのマンションの部屋の中に妹と四人で閉じ込められて。
息の詰まるような平凡さ。サランラップで呼吸を止められてしまっているような窒息感に、慣れていた。そしてそれに慣れてしまっている自分の平凡さにも、嫌気が差していた。

父は自分の言う事を聞かないと、平気でわたしを殴った。左耳に平手打ちをされて鼓膜に穴が空いた事もある。言う事を聞かないというだけでなく、もっと些細な、そして理不尽な事でも暴力を振るった。

覚えているのは、夕食の時、たまたまクワガタムシの名前の由来が話題になった時、わたしは鍬形虫と漢字で書くことを知っていたので、鍬の形という所から来ているんじゃないかと話したら、母親はなぜか頑なに反対した。それで少しの間議論のようになっていた。すると父は、なんなんだというような事を言って、わたしに近づき、わたしを殴り出した。

家族で旅行に行く時、フライトの前の待ち時間でしばらく立って待っていたので、わたしは自分の荷物のエナメルバッグを床に置いていた。すると父は、「床にカバンを置くな」といった。わたしは「これは部活で使っている床に置いてもいいようなカバンだから、いいでしょ」と言っていた。すると父は、「口答えをするな」と言って、他人もいる空港のロビーでわたしを蹴り、殴った。

彼はこれらのような事で誰からも制裁を受けていない。わたしを頭がおかしいと罵ったことも何度もあったし、まともな会話などしたこともなかった。だけれども、今でもわたしに平気な顔で連絡をしてくる。わたしも平気なような態度で返信し、彼の給料から仕送りをもらって、生活をしている。おそらくわたしは彼が死んだとしても少しも悲しくないだろうし、お金がなくなるのは大変だが、むしろ呪縛から解放されたような気がして嬉しいのかもしれない。そしてわたしは、そうして憎んでいる父から平気で仕送りをもらっている自分も、父親が死んだとしても到底悲しまないだろうと感じている自分も、嫌いで、信頼できないものだと感じている。家族が一番大切なものだ、となんの臆面もなく言える人のことが、いつもとても眩しく、恨めしく思えた。

こうした経験からか、他人に対して普通に接するように心がけてはいても、わたしにとって人間というのは信頼できないもので、外面が普通に装われていれば、何をしても許されるようなものが社会だと思うようになっている。


母は、わたしが父に殴られていても、本当に止めてくれることはなかった。頭を殴られている時だけ、頭はやめてと言った。頭でなければいいと思っているのだな、と思った。彼女が頭はやめて、と言ったのは、わたしが勉強ができたため、偏差値の高い大学に入って欲しいと思っていたからである。母は名大以上には入らなきゃね、と常々言っていた。名古屋大学か、京都大学か、東京大学という意味だった。

そしてわたしは高校でもそれなりには勉強していたが、現役時は東大だけを受験して、落ちてしまった。合格者の受験番号のリストをネットで見るとき、わたしが先に見て、「ない」と母に伝えた。「ほんとにないの」と母は震えた声で言った。母は悲しんでいた。わたしは感情が凍りつくのを感じた。その時のわたしの感情が悲しみなのか、自分でも分からなかった。

浪人していたとき、大手予備校に通って、わたしはかなり真面目に勉強していて、予備校からの奨学金のようなものも貰った。現役の時の事を反省して、勉強を継続し、家族に対しても今までとっていたような横柄な態度を取らない、と言い、実際そのように努力していた。そのために浪人していた時に家族の仲は比較的円満な状態に近づいていた。そして二度目の受験で、東京大学の理科一類に合格した。家族は喜んでいた。父はその時出張していたが、涙を流していたようだ。わたしにはどうして父が泣くのか分からなかった。わたしは合格していた事を知った時、不思議と自分はほとんど何も思わなかった。母が喜んでいるので、良かったんだなと思った。

今思えば、中学を卒業するときも、高校を卒業するときも、わたしには素直に悲しんだり、別れを惜しむということが、上手くできなかった。分からなかった。でもそういうものだということは知っていたから、何となく引け目を感じるため、早く終わって欲しいような気がしていた。高校の時の部活で全国大会に出られることが決まった時も、わたしはどう感じていいのか分からなかった。周りの同期達が喜んでいるので、良かったなと思った。素直に結果発表の時に全国に行けることを祈り、その結果に素直に喜べるということが、わたしにはやはり眩しかった。


実家ではいつもテレビがついていて、高校ぐらいまでは毎日何か見ていた。そのためにわたしもお笑いやバラエティも好きだった。笑いというものについて考えていくと、しばしばユーモアというものが人々が無反省に認めてしまっている権威のようなものを揶揄して、暗に告発しているような場合が多いことに気づく。だから自分は好きなのかもしれないなと思った。いつからかどこかアナーキーな状態や思想、窮屈な社会の体制から何とか逃れるようなことに、行動できないながらも憧れるようになっていった。たまたま日本という土地に生まれただけで、物心もつかないうちから日本国民の一員になり、規則まで守ることが強制されるということにさえ、違和感を感じていたし、今も感じている。結局は誰しもが様々なものに無意識にせよ支配され、その代償としてそれなりの生活が得られるようになっているのだな、と、あるいはむしろ支配を見えなくさせ、認めさせるために、それなりの生活をさせる必要が出てきたのだな、と、市民革命の歴史などを聞きながら思っていた。


大学に入り、しばらくは前期教養という事で様々な講義を選択してとっていた。元々数学や物理がどちらかというと得意で、数学は好きな方だった。また、国語も少し得意で、現代文は文章を読むことが好きだった。中学まではサッカー部に入っていて毎日サッカーばかりしていた。後宇宙論の本を読むことが好きだったので高校に入る時は面接の際に宇宙物理学者になりたいと言った覚えがある。高校に入って合唱部に入り、亀井勝一郎の青春論、坂口安吾の堕落論を読んでから、小説を読むことを覚え、風呂に入っている時などもいつも本を読んでいた。その時読んでいた本は風呂の蒸気で表紙が大分よれてしまっている。この時あたりから、自分の中には理系的な、即物的な世界観と、人文的な心の中の世界観が同居しつつあったのだと思う。段々と即物的な世界観だけでは結局人間は生きていけないのではないかと思い始めた。そのため、教養の授業では文理ともに様々な科目を取ったが、進学振り分けの際には文系の学部に進むことも含めてそれなりに悩んだ。


そして進学する学科には最終的に建築学科を選んだ。自分としてはかなり吟味した結果選んだのだけれど、今思えばもう少し人に相談するなどするべきだったのかもしれない。その時は理系的な工学の分野と、芸術や、社会に関連するという意味で文系的な分野の両方に関わることが自分の関心に合うのではないかと思った。また、今まで言葉の世界に浸りがちだった自分が、実際にものを作るということでより直接的に世界に触れることができるのではないかと考えていた。入ってみると建築というのは自分にとっては様々な観点が錯綜していて、芸術ともつかず、工学ともつかないため、色々な考えの人が色々と好きな事を言っているものに思えて来てしまった。また、実際にはハウスメーカーやゼネコンの作った建物ばかりが大量に建てられていく中で、建築家が一部の金持ち向けの住宅や、国がつくる公共建築などで自己主張をしていくことの虚しさも感じていた。一方で、貧しい人々のための簡易な住宅を安価により良いものをつくるといったことにも、あまりリアルな関心が持てなかった。こういったことは自分の行動力のなさに起因しているのかもしれないけれど。自分が実際に設計課題をする、という時には、コンピュータをずっと触って設計をし、建てられもしないものを考えて講評を受ける、ということが意味あるものに思えず途中で受けるのをやめてしまった。


人生の中には恋愛という出来事もある。不本意ながらわたしにとって恋愛とはいかに自分が相手にとって望ましく、普通の幸せが手に入れられそうな人間だと思わせるか、いかにそのように自分を装うか、という問題になってしまいがちである。たまに自分の考えていることを伝えてみたところで、それは虚しく響くだけで、伝わることは少ない。むしろ何か変なことを言う人だということになって、警戒されてしまうのではないかとさえ思っていた。それはもちろん男女の間に限らないのだけれど。肌と肌が触れ合う時でさえ、その間には無限の距離が空いているかのように感じる。彼女のすべすべとした肌の質感が、とても遠くのもののように感じるのだ。肌というのは、水平線のようなものなのだろう。決して同化することのない二人の間の、無限の距離があることによってできた境界。


わたしはこれからどうしていけばいいのだろうか。建築にはリアルな関心が持てないままだ。社会のためを考えることは、もちろん社会にとっては受け入れられやすいけれど、この人間社会が有無を言わさず存続させていくべきもののようにも思われない。いくら例えば貧困問題が解決したとしても、人間の中の暗い、暗い部分というものは無くならないのではないだろうか。一方で、わたし個人の小さな欲求のために、ちまちまと生きていく必要というのもあまり感じられない。わたしが今消えて無くなってしまったところで、特に思い残すこともないような気がする。このまま抜け殻のように仕方なく生きていくのだろうか。

社会のために行動する、というのでもなく、私自身だけのために生きていく、というのでもない生き方。それはどういったものだろう。それはきっと、世界に向けて、自分の中から湧き上がる祈りを捧げるような生き方だろう。自分がリアルに感じられる、自分の中から沸々と浮かんでくる何かを、世の中のまだ見ぬ誰かに向かって送り出すような生き方。そんなものを探していきたい。

わたしが今までずっとどこか悲しい、虚しい感覚が抜けなかったのは、何故だろうか。外の世界と、透明な膜一枚で、それも徹底的に隔てられているような感覚。自らが世界に触れられていないような、そんな気持ち。寂しさ。それは、きっと自分如きが世界に働きかけていくことはできない、という一種の諦めにより、もたらされてきていたのではないだろうか。全てが自分の力ではコントロールできないものばかりだ、という無力感。これは部分的には最初に書いた自分の生育環境にもよるだろうし、自身の性質にも、その後の生き方にもよるものだろう。わたしにまず必要なのは、自らありのままの世界を見、触れて、考えて、世界の手触りを取り戻す事ではないか。自分で世界を触れ、何かを作り、変えていく。そんな過程の中では、自らを内側から作り替えていけるような気がしている。そして確かな手触りを得ていくことができれば、恐れることも無くなっていくに違いない。


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