落合陽一 東浩紀の対談を聞いて(Weekly Ochiai)

Newspicksで唯一ほとんどの回を観ているWeekly Ochiaiで、東浩紀との対談の回が少し前にアップされていた。なんとなくいかにも観たくなりそうな感じだったので、一旦観ないでおいたのだが、結局観た。そして結局一番面白かったような気がする。

東浩紀が落合陽一のデジタルネイチャーを批判したみたいなこともあったらしいが、対談を聞いているとほとんど二人は同じようなことを思っているように感じた。東さんは落合さんがVenture Capital型の先進的な分野を担う少数の人々とBasic Income型の同じ生活を繰り返す多くの大衆に分かれるという予測を、肯定していたと言っていたが、実際僕が読んだ範囲では肯定も否定もしておらず、こうなるだろう、ということを言っていただけだったような気がする。

それはさておき、実際そういった二極化が進んでいるのは事実だろう。僕の同世代の日本の若者なんて、男子は筋トレだのサウナだのといって古典的な男性像を地でいき、女子はスタバだのディズニーだの韓国だのといって表層的な快楽を消費し続けているだけの人間がおそらく多数派だ。彼らの多くにとってはChat GPTを開発するような人のことなどなんの関心もないのではないだろうか。自分の写真でも加工できれば興味を持つかもしれないが。

話している中でだんだん見えてきた二人の違いは、結局かなり「世代」というものに依存していたような気がする。落合さんが最近よく言っている「喜びを共有しよう」は、AI等が発達してきて研究者がやることもどんどんなくなっていくんじゃないか、という研究者ならではの問題意識と関連しているのであろう、コンピュータが生成するものも含めて人々にとって自律的に進化していく「新しい自然」のようになる、という「デジタルネイチャー」のコンセプトの中で、人間には楽しむことぐらいしかやることがないのではないか、という話だとは思う。そのうえでどうして人と共有したいのか、という話もあるが、共有したいのはなぜなんだろうか。

まあそれはもちろんもし全く他人と喜びを共有できないのであれば、つまり他人の心など全く分からない、というようなことになって、対話の可能性が失われてしまうだろう。だから、もし人間たちが互いに話し合って、互いのためによりよい社会にしよう、みたいなことがしたいとすれば、人々の行動原理となりうる「喜び」のようなものを、共有できる可能性が残されていなければいけない。だが、実際にそれができるのかどうか、というのは別の問題である。

そして、おそらく「喜びを共有する」ということは、ほとんどの人とできないのではないだろうか。それこそVC型の人々とBI型の人々では喜びの形が全然違うのではないかと思う。この喜びの形、というものが、東さんが最後にブラックボード?に書いていた「欲望」だろう。彼は「動物化するポストモダン」を書いた人だし、人間がどんどん動物化しているというのは今まさに起きていることじゃないだろうか。結局共有しやすい欲望というのは、より動物的な欲望なんだろう。

デジタルネイチャーは、従来の自然とコンピュータによる自然を合わせたもので植物的だ。一部のVC型の人間たちが、庭師のようにしてこの新しい自然に手を加え、より良い庭を造り続ける。そしてその中で、動物化したBI型の人間たちが、その果実をむさぼりながら、少しずつ滅びていくのではないだろうか。

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