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プロローグ

 ママの尖った声が、ぼくの鼓膜をつついた。 
 寝ぼけまなこで、暗闇に視線を泳がせる。
 そうしているうちに、ようやく気がついた。ぼくは眠っていて、ママの声で目が覚めたのだ。
 右側にある襖が少し開き、そこから入ってくる四角くて細長い光が、ぼくの布団を照らしていた。
「子どもたちは、どうするんだ?」
 荒々しいパパの声が聞こえてくる。
 ママとパパは、またケンカをしているようだった。
 ぼくは音を立てないようにゆっくりと布団から起き上がり、襖の隙間にそっと右目を押し当ててみた。何が起きているのか、気になったのだ。
 眩しい光の先に、ママとパパは居た。
 パパは、ごにょごにょと何かを言いながら、居間から出て行こうとするママの左腕を引っ張っている。ママは、その腕を前後に大きく動かして、パパの手を振りほどこうとしていた。
 二人とも、鬼の顔だった。

 どうして、ママとパパはケンカをするのだろう。その理由を、ぼくは知らない。ひとつだけわかっていることは、ママが怒りながらどこかに行こうとしていることだ。
 ぼくは、あれこれ考えながら、ケンカをしている二人をぼんやりと眺めていた。そうしているうちに、ある疑問が湧いてきた。
 ぼくが妹とケンカをすると、ママとパパは「ケンカはダメ! なかよくしなさい!」ってすごく怒る。それでもケンカをやめないと、ぼくを叩くこともあった。

 なのに、どうして二人は鬼の顔をしながら、こんなふうにケンカをしているのだろう。子どもだけじゃなくて、大人だってケンカはダメなはずだ。
 大人だけ、ケンカをしてもいいだなんておかしい。あ、そうだ。ママとパパも怒られたらいい。
 ママとパパより大人の人から、怒られたらいいのだ。
 そうしたら二人とも「ごめんね」をすることになるし、ケンカは終わるはずだから。

「ガタン」と、何かが何かにぶつかる大きな音が聞こえてきた。ふと我に返り、ぼくはもう一度、襖の隙間に右目を強く押し当ててみる。
 左右に目を動かすと、左側に、怒ったキツネみたいな目をしたママを見つけた。
 さっきよりも、もっと怖い鬼の顔で、パパを睨みつけている。


ママが小さな声で「ぼそり」とパパに何かを言った。アリさんのヒソヒソ話みたいな声だから、何を言っているのかぜんぜん聞こえない。
 ぼくは目を閉じて、じっと耳を澄ませてみた。
 ママの声は、泣いていた。
「もう、ムリだから」と泣いていた。
 どうしてママは、泣いているのだろう。
 泣いているママを見たのは、はじめてだ。
 ぼくは、だんだんと腹が立ってきた。
 パパがママを泣かせたからだ。
 ぼくのパパとはいえ、ぜったいに許せない。いますぐ、ママを助けに行かなくちゃ! 襖を開けようとして、手を伸ばしたそのときだった。

「いまここで、ぼくが襖を開けて出ていったら、きっとパパに怒られる」
そう思ったのだ。
 だって、子どもはもう寝ている時間なのに、ぼくが起きていたことがわかれば、きっとパパはすごく怒る。
 ぼくは、パパに怒られたくない。怒るとライオンみたいに、とっても怖いからだ。でも、ママを助けたい。どうしよう、どうしよう、どうしよう……。作戦を立てるため、いったん布団に戻ることにした。ママを助けるには、作戦が必要だと思ったのだ。

 ほんの少し時間が経ったころ、居間からカチンと音が聞こえてきた。この音は部屋の電気を消す音で、「もう寝るよ」の合図でもある。
 ぼくが作戦を練っているうちに、ママとパパは仲直りをしたらしい。二人はもうすぐ、この部屋にやってくるだろう。
 ぼくは急いで、寝たふりをすることにした。
 いい子は、夜7時から、朝、ママが起きるまで、寝ていなければならないからだ。それができない子どもは、わるい子だ。
 ぼくは、ママとパパがほめてくれるような、いい子でいなければならない。いますぐ、寝なくちゃダメなのだ。

 でも今日は、すぐに眠れそうになかった。
 ママとパパが仲直りしたのは、ほんとうによかったけれど、いつかママがどこか遠くへ行ってしまうような気がしたからだ。そう思うと、なんだか急に悲しくなってきた。
 さっきママは、どこに行こうとしていたのだろう。お願いだから、ぼくを置いてどこにも行かないでほしい。
 ぼくは頭まで布団をかぶり、うつ伏せになって枕に顔を押しつけた。
 早く涙が止まるように、強く、強く、押しつけた。

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五歳の亮子が、十三歳になるまでの成長過程を描いた家族小説。突然、現れた親父ギャグ好きな「ゾウさん(ハイアーセルフ)」とともに、自身の性的違…

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