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#2「音の河」武満徹

つまるところ、ヨーロッパの人間が「準備」してくれた音というのは、自分の外にあるような音なのだ。

まるで白いテーブルクロスの上に銀製のフォークとナイフが並んでいるように、自分の目の前にドレミファソラシドが置かれている。

(さあどうぞ!ボナプティ!音符で遊びたまえ!)

今やっている西洋音楽というものは、かなり大雑把に言うと、騒音的なものを極力排除して、あらかじめ準備された音というものを媒体として表現行為を行う。(中略)そういうふうにセルフィッシュに自分を表現するのではなくて、どちらかといえば自分の音楽行為というのは、自分もその中にあり、自分をとりまいている「音の河」に対してどういうふうに手を触れていくかという・・・・・・。

木村敏対談集1 臨床哲学対話 いのちの臨床、青土社、2017、p.130

武満には、仮に「あらかじめ準備された音」をどれだけ壮大に組み上げられたとしても、自分もその中にいるような「音の河」へは届かないという予感があるのだろう。

(まるで、砂浜で壮大な城を立てても、そこには入れないように)

純度100%の音符をどれだけ組み上げても

テーブルに置かれた、人工の、きれいな、妄想の、理念的な、作品にしかならない。

そして、そこに僕らは住んでいない。

(ヨーロッパの人間は、最初の秩序を「準備」して、それを組み上げることによって神的秩序を顕現させようとする、変な性癖がある。)

(その性癖に付き合わされてきた日本人が、自分たちの性癖を取り戻そうとしている。)

(しかし、俺たちの性癖とはなんだ?性癖を言語化したことはないし、そもそも言語化ということ自体が、ヨーロッパの性癖なのだ。)

(性癖と性癖の争い、まぐわい、すれ違い。)

Triggered and Inspired by
『木村敏対談集1 臨床哲学対話 いのちの臨床』、青土社、2017年。

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