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#4 先輩の修論

武満の対談でもう一つ思い出したのは、先輩の修論の話だった。

聞けば、その先輩はソシュールの言語観が恣意性を唱えているのに対し、

アラビア語、特にクルアーンは神の言葉であってそこに恣意性はない、というようなことを発表したらしい。

(なんだって?)

おそらく事前の論文構想を、何人かの教授の前で発表したのだと思われるが

「そんなものは研究ではない」と総スカンを喰らったらしい。

(うーん、想像に難くない)

しかしだ。この話は武満の苦悩に通ずるところがある気がする。

あらかじめ「準備」された言葉。

そこに必然性はなく、あるのは恣意的な差異だけ。

そんな言葉を積み上げて、人間は「音の河」のような場所に辿りつけるのだろうか。

神の言葉とは言わないまでも、言葉が本当に意味を持つ瞬間を待ち焦がれたっていいんじゃないか?

そう、「完璧な瞬間」。

Triggered and Inspired by
『木村敏対談集1 臨床哲学対話 いのちの臨床』、青土社、2017年。
丸山圭三郎『丸山圭三郎著作集Ⅰ ソシュールの思想』、岩波書店、2014年。
JP・サルトル『嘔吐』、人文書院、2010年。
『聖クルアーン』、日本ムスリム協会、2009年。
小杉泰『イスラームを読む クルアーンと生きるムスリムたち』、大修館書店、2016年。

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