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#6 人間と言葉の位置関係

武満が「あらかじめ準備された音」で表現することを「セルフィッシュ」と言っていた。

ここには、楽音とそれを扱う自分という、空間的位置関係が存在する。

はたしてソシュールの言語観において、人間と言葉の位置関係はどうなっているのだろうか。

言葉は我々の手元にあるのか、それとも「音の河」のように我々自身をも包み込むものなのか。

おそらく、言語の恣意性という時の恣意性が、人間による恣意性なのであれば、我々の手元にあるのであろう。

ただもし、この恣意性が自然的な、あるがままとかおのずからといったようなものであるなら、我々は、その大きな言葉の世界の中で暮らしているということなのだろう。

まず在るものは視点だけであって、人間はこの視点によって二次的に事物を創造する。・・・・・・いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即自的には与えられていない。

『丸山圭三郎著作集Ⅰ ソシュールの思想』、岩波書店、2014年、p211-212。』

ソシュールの手稿において感じられるのは、言葉は人間の「視点」ということである。

つまり、言葉が人間の「視点」である限り、我々を包みこむものではなさそうである。

(我々人間は、視られる側ではない。視る側なのだ。)

言葉は我々の手元にあって、いや手元どころか目そのものであって、我々を包み込んでくれるものではない。

言葉とは誰のものか。

ヨハネの福音書が聞こえてくる。

※追記
丸山が引用したソシュールの手稿については、丸山の読み違えがあると指摘されており(丸山圭三郎著作集Ⅰ 解題)、よって本投稿の論理的整合性については保留となった。

Triggered and Inspired by
『木村敏対談集1 臨床哲学対話 いのちの臨床』、青土社、2017年。
『丸山圭三郎著作集Ⅰ ソシュールの思想』、岩波書店、2014年。
『聖書 新改訳 2017』、いのちのことば社、2017年。
加藤隆『『新約聖書』の誕生』、講談社学術文庫、2016年。
加藤隆『キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか』、NHK出版新書、2023年。

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