#6 人間と言葉の位置関係
武満が「あらかじめ準備された音」で表現することを「セルフィッシュ」と言っていた。
ここには、楽音とそれを扱う自分という、空間的位置関係が存在する。
はたしてソシュールの言語観において、人間と言葉の位置関係はどうなっているのだろうか。
言葉は我々の手元にあるのか、それとも「音の河」のように我々自身をも包み込むものなのか。
おそらく、言語の恣意性という時の恣意性が、人間による恣意性なのであれば、我々の手元にあるのであろう。
ただもし、この恣意性が自然的な、あるがままとかおのずからといったようなものであるなら、我々は、その大きな言葉の世界の中で暮らしているということなのだろう。
ソシュールの手稿において感じられるのは、言葉は人間の「視点」ということである。
つまり、言葉が人間の「視点」である限り、我々を包みこむものではなさそうである。
(我々人間は、視られる側ではない。視る側なのだ。)
言葉は我々の手元にあって、いや手元どころか目そのものであって、我々を包み込んでくれるものではない。
言葉とは誰のものか。
ヨハネの福音書が聞こえてくる。
※追記
丸山が引用したソシュールの手稿については、丸山の読み違えがあると指摘されており(丸山圭三郎著作集Ⅰ 解題)、よって本投稿の論理的整合性については保留となった。
Triggered and Inspired by
『木村敏対談集1 臨床哲学対話 いのちの臨床』、青土社、2017年。
『丸山圭三郎著作集Ⅰ ソシュールの思想』、岩波書店、2014年。
『聖書 新改訳 2017』、いのちのことば社、2017年。
加藤隆『『新約聖書』の誕生』、講談社学術文庫、2016年。
加藤隆『キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか』、NHK出版新書、2023年。
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