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ハイデガー理論における「概念の実体化の錯誤」~古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』に関するいくつかのコメント、およびヒューム理論との比較


ハイデガー理論における「概念の実体化の錯誤」
~古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』に関するいくつかのコメント、およびヒューム理論との比較


http://miya.aki.gs/miya/miya_report44.pdf

できました。
古東氏の本は以前読んでいたので、今回はその分析としました。
『存在と時間』批判はゆっくりやっていきます。

うまくダウンロードできない方は下のページからどうぞ。

経験論研究所:レポート一覧 

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(はじめに)


 ハイデガーは、”言葉”とは何か、”言葉の意味”とは何か、そこを曲解し言葉そのものを一つの”概念”として実体化させて議論しようとしている。言葉にはそれに対応するなにがしかの具体的事象(出来事でも物でも良い)があって初めて”意味がある”と言えるのである。それは「存在」「生」という抽象概念においても同様なのである。
 ハイデガーの”形而上学”は、言葉の対象となる事物を無視し言葉のみを一つの概念として実体化させ議論しようとする誤謬に陥っているのである。ここではそれを「概念の実体化の錯誤」と呼ぶことにする。
 本稿では、古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書、2002年)における重要なポイントをいくつか挙げた上で分析を行っている。ただし第5章「惑星帝国の歩き方」(古東、153~272ページ)は分析対象から除外している。
 そして形而上学の対極にあると考えられる経験論の代表、ヒュームの主張と比較した上でヒュームの方がより正確に事実を説明できていることを示している。

 たとえば「本来的自己」という考え方は、日々の生活に疲れている人、つらい気持ちを持っている人たちが逃避するための恰好の理屈(あくまで空想上の理屈でしかないが)となりうるかもしれない。「存在と無は同一」「滅びの中の生成」「闇は光、光は闇」など、虚構であるにもかかわらず(おそらく)小説家や芸術家たちのインスピレーションになりそうな美味しそうなフレーズに富んでいる。
 一方、ヒュームの経験に基づく説明は、あまりに当たり前で示唆に富むものではない。深遠な見解でもない。ただ淡々と経験の事実を述べるだけである。芸術的インスピレーションを導くものでも、日々の生活が苦しい人を助けるものでもない。
 しかし事実・真理というものは、そういうものとは関係なく成立するものである。時に感動を呼ぶこともあればそうでない場合もある。人を助けることもあればそれほど助けにならないこともある。驚嘆を起こすこと=真理では決してないのである。
 なお、「概念の実体化の錯誤」に関しては、以下のレポート

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・でも詳細に論じているので、参考にしていただければ幸いである。

<目次>

()内はページ
1.「存在論的区別」という幻想:「存在」という“言葉”を一つの概念として実体化しようとしている(2)
2.「存在と無は同一」テーゼの詭弁(5)
3.「形而上学的主体」がないことは、コギトを超えた生(現存在)の根拠にはならない(6)
4.「本来的時刻性」は過去・現在・未来という客観的時間認識の焼き直しにすぎない(8)
5.理由や目的、存在の“必然性”とは後付けの解釈にすぎない(10)
<引用文献> (11)




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