無理をした。

この数年、私は無理をしていた気がする。
自立していた足元が、ばらばらと崩れるくらいには、心がすり減ってしまった。

はき違えた優しさを抱えて、
自分の足で立っていると、
時々、変な人間が寄ってくる。

その最たる例に、
この数年間悩まされてきたのだが、
やっと、つい最近、そのもろもろから解放された気持ちでいっぱいだ。

私はよく、転移をされる。
昔はそういった人たちに恨みつらみを抱えていたが、
今となっては、もはやどうでもいい出来事のような気がする。

最近、大きな別れが続いたが、
真に縋るつもりはない(無理をして縋っていた)のは、
私の心が本当は、充足しているからだと思う。

そして、私の周りは、自立している人間ばかりになったため、
そういった、転移体質に気づいていない人間と、
別れが来ただけに過ぎないと、
心の奥底で思っている。

理不尽な目にあうことがある。
ただ、理不尽な目に合わせる人は、
「 自分が過去合った理不尽 」 を、
相手に重ね合わせているだけに過ぎないような気がする。

そうして、十分に、搾取したうえで、
人間として中途半端な感覚を充当だと勘違いしているのだろう。

最近、他人に、毒親だとさげすまれた、私の母親を、こういったとき、とくと思い出す。

私の母も、どちらかというと、転移をされやすい性質を持っていたように感じる。

「 お母さんはこういうところがあるから 」

そうやって、私などは、自分の理不尽を彼女に重ねていなかっただろうか。
彼女も、彼女の過去故に、逆転移をしていたかもしれない。

母の遺書で、心に残っている一文がある。

  • 身を張って辛いことをいうことは、とてもつらかったですが、あなたのためにならないと思ったので。 -

年を取るたびに、心に来る言葉である。
言われたほうは、「 余計なお世話 」 「 頼んでいない 」 と思うかもしれないが、
私は、ここには、根本的な、人としての苦悩や強さ、無償の愛があると思う。

時々、見返りを求めてしまうかもしれないが、
それは、人間味というものではないだろうか。

「 いつか気付いてくれますように 」
「 相手に何を残すことができるだろう 」

年を取るたびに、そういったことを
受け取ったり発したりするエネルギーが減っていく中、
彼女は死ぬまでそれを実践してくれた。
最後は - エネルギーが尽きた - と記していたが、
人から嫌われるかもしれない、嫌われる実践を、
身体を砕いて行っていてくれたと解釈するのは、
別に都合のいいことではないだろう。

多様性という言葉で支配されている昨今である。
東京には人が多い。
私のいる業界も然り。

環境が変わって、
私の周りはどちらかというと、
自立している人間ばかりになったように思う。

自分の境界線をもって、
その一線を越えてこない人で固められて、
私は、大変安堵をしている。

私は、新しい世界で生き続けたい。

過去にとらわれるのはもう嫌だ。

残ってくれた人たちは、
私が一番大変な時に支えてくれた人ばかりだから、
きっとそういうことなのだろう。

愚かな人間を信じてしまった自分の愚かさに嫌気はさすが、
未練も後悔もない。

本音を言うと、多分ずっと辛かった。
私の境界線を越えてずかずかと入ってこられることも
境界線を越えて来いと命令されることも、
一方的に、人形のように振り回されることも、
ずっと最初から辞めたかった。

私は、その人に支配され続けていた。
吐き気がするくらい、思い出したくもないし、
でもきっと、どこかで合ってしまったら、
恐怖と洗脳の記憶で、立ちすくんで一生懸命顔色を窺ってしまうのだろう。

そういうことを、していた人間なのだ。
ずっと、とても怖かった。

変わる自分と環境を第一に、
私の世界は変わっていくのだ。

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