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「国ってなんだろう?」早尾貴紀氏著を読んで

「国って何だろう?」は中学生向けの本である。私は予てよりまさしく「国って何だろう?」という疑問を持ってきていたので、ちょうど良い本に巡り合えた。著者は紛争国の内情に詳しく、世界中の例を取って説明がなされるのだが、西側の与えられた情報とは少し異なる実情が明らかになる。例えば、イスラム国とはすでに国家の体裁を整えている(国家の条件は「国土、国民、主権」なので)

国民国家とはフランス革命から生成し、国民と国民でない人を分ける制度であるということが判り、国民国家の中にいる私は分けられた人たち(在日朝鮮人、難民、移民)のことを考え胸が痛くなった。先日「やさしい猫」を読んだこともあり、日本の入管の厳しさが恥ずかしくなっていた時に、この言葉「国民とそうでない人を分ける制度」というのが国家だとしたら・・・国家なんてなくなってしまえ!とは言えないのは、内側にいてその恩恵を享受しているからなのだ。そしてその道具が国語だというのである。

著者は最後に国家が無くなればいいというわけではないが、垣根を低くして、人の往来を活発にすることが真の豊かさを作り出すのではないかと言っている。冷徹な現実を見つめる目と揺るがない理想が同居した不思議だけれど魅力的な著者である。

そして、ユダヤ人への迫害が15世紀スペインのレコンキスタという宗教的な排除から始まり、国民国家が民族主義的な要素を伴った時、それは宗教から民族主義的国民国家という政治の差別へと変容していったその極限的な表れがホロコーストであった。

しかし、ユダヤ人たちはヨーロッパで差別を受けないためには自分たちの国民国家を打ち建てればよいと考え、聖地エルサレムのあるパレスチナを選んで入植し建国したが、それがヨーロッパの民族主義的国民国家のコピーだったために徹底的にパレスチナ人を排除していった。この行き着く先が、現在のガザの虐殺である。ヨーロッパは、ユダヤ人に国を与えたいという希望もあり、これまでのユダヤ人差別への贖罪の意味もあり、イスラエルに対して強く諌めることができない。

一方、日本国の成立は1872年の壬申戸籍で日本国民が規定されたときから始まる(日本人が自らを日本人と認識するきっかけとなる)。そうして、日本とアイヌ、琉球、台湾、韓国との関係を紐解き、「国境線は動いている」と結論づける。さらに「中央」と「周縁」の関係に踏み込み、それを「搾取の構造」という。

著者は「首相が靖国神社に公式参拝することの意味は、国家が国民に犠牲を求める本質を現わしていることだ」という。そういうメッセージなのだ。国家が国民に犠牲を求め制約しているかわりにベネフィット(年金や健康保険等)も与える。しかし、このベネフィットも起源を遡れば健民健兵という軍国主義と結びつくのだから手放しでは喜べない。(「近代日本150年」山本義隆)

3.11の政府の対応によって、日本国は被災者全員に補償する能力がないことが明らかになり、法的に1ミリシーベルト未満と規定されているにもかかわらず、それ以上の環境で国民を住まわせているということは法治国家として国が機能していない事実が露わとなったといえる。

「国民国家の時代は終わろうとしているのか?」についての具体例(イギリスのスコットランド、スペインのカタルーニャ)を挙げての考察がある。これは、資本主義が終わろうとしているのか?(「ポスト・キャピタリズム」ポール・メイソン)という問いとともに私にとって興味深い考察である。資本主義が溶解し、国境が溶解していく現代という時代に生きる私たちはどう行動していけばよいのだろうか。しかし、この軍拡競争の中で国家は国家であり続けられるのか、溶解し続け地域ごとの紛争になっていくのか。

「ポスト・キャピタリズム」では地域主義とともにある種の中央集権的な(私はそれをエコ・ファシズムの一種と捉えたのであるが)仕組みが必要であると言っている。なぜなら無駄を極力少なくし、ある程度個人の放縦を制限しなければならないとしたら今までの自由主義ではありえないということであろう。

著者は「移民や難民、或いはそういう分類も難しいような国境を越える人の移動、それにともなう経済や文化の変容。この流れを押しとどめることはできません」と言っている。これは、ポール・メイソンも気候難民、戦争難民の増加を予言している。

地球市民的な視点から考えると、所謂グローバル・サウスから西側諸国に移住し、地球人口が平均すれば、人口減少により過疎化に苦しむ西側諸国のインフラの維持などもできるし、気候難民などの行先としてもよいのではないかと思うのであるが、人間はものと違うので、簡単に当てはめられない。気候難民は単なる労働力ではなく人生を生きている人間なのだ。また、二百年以上も民族主義的国民国家の国民として排他的に生きてきた西側の人間が本当に対等な人間として気候難民を受け入れられるかという問題もある。(日本はまた違う問題も抱えている。日本語と低賃金だ)

「イスラーム国ってどんな国?」の章では、――『イスラーム国』が国民国家の枠を突き破る?――という副題がついている。

ただし、イスラーム国は「国土・国民・主権」を持っているが、もう一つの国家の条件、「他国家からの承認」がまったく得られていないという状況である。それでも、シリア、イラクをまたがる地域に国家宣言をしたことに対して、アラブ民族は喝采を送るのである。それは欧米の都合で勝手に国境線を決められてきた屈辱の裏返しなのである。
また、ヨーロッパでのアラブ系移民や難民は数多くいるが、必ずしも安定した生活を送っていず、不満が溜まっている。そんな若者をリクルートし、イスラーム国は兵士として訓練して仲間を増やしている。

そして、正式な国家としての承認はないとはいえ、イスラーム国は独自の通貨発行、税の徴収、国家職員や戦闘員への給与の支払い、電気・水道等のインフラ提供に学校、裁判所、銀行を運営している。これは、旧フセイン政権時代に政権を担って来た政治家や官僚たちが入っているので、統治の知識、人脈、ノウハウがあるからである。

イスラーム国の成り立ちを歴史的に追えば、東西冷戦時にソ連のアフガニスタン侵攻を阻止しようとアメリカがイスラーム勢力と手を結び軍事訓練をしソ連を撤退させた。そこからアルカイーダが生まれ、冷戦終結後にアメリカは次の敵としてイスラーム、アラブを敵対視したことにより、アルカイーダの一部が旧フセイン政権幹部と合流し「イスラーム国」を作った。

このほかにも、私達には分かりにくいユダヤ教とキリスト教とイスラーム教の関係を簡潔に、しかし余すところなく説明している。そしてエルサレムがそれぞれの聖地となっているのは、ユダヤ教徒の嘆きの壁、キリスト教の聖墳墓協会、イスラーム教のアルアクサ―・モスクがあるからなのだ。

『どうして今「ディアスポラ」なの?』

国民国家に無理があちこちで出てきている今、とても大事な考え方だから。

「ディアスポラ」とは、もともとは「ユダヤ人の離散」を指す言葉です。

ユダヤ人の離散が起こったのは、紀元前6世紀の「バビロン捕囚」と紀元1〜2世紀のローマ帝国への反乱失敗で追放された時の二度でしたが、多くは改宗してパレスチナの地に留まった。

ユダヤ教のラビたちは、離散も含めて苦難の意味を問い、神の意思を問い、解釈を重ねて、「タルムード」を執筆編纂し、ようやく6世紀頃に形となったのが、離散の地で編まれた「バビロニア・タルムード」である。

ディアスポラの民は、自分たちの国がなくても、異教徒の支配のもとで、ユダヤの宗教、文化、伝統は連綿と守られていった。

ディアスポラの思想が教えてくれるのは、土地を支配しなくても、ましてや他の民族を支配せず、彼らから土地を奪わなくても、独自の文化を保持することは可能であるということ。

戦わない、権力を持たない、というディアスポラのあり方を提示している。国のために命を捧げて闘うことが美徳とされる国民国家に対して、ディアスポラの思想においては、闘って死ぬよりも逃げて生き延びることこそに伝統的価値が見出されてきた。

国民国家というあり方が崩れかけている今、国と距離を置くディアスポラの思想には学ぶべきことが大きい。

〈これからの国とわたしたちのあり方〉

国民国家の時代は大きな転換期に入り、終わろうとさえしているのかもしれない。
とはいえ、日本という国とか日本人という意識を即座に否定しようと言いたいのではない。日本の住民としてのあり方が、単一で固定的な国民ということではなくなってゆき、またそうでない存在を異質なものとして排除するのではなくなってゆき、いろいろな存在のしかたの幅が出てくるといいと思う。

日本の国籍条項はすごく高い、がんじがらめの壁を築いている。…その壁をどんどん低く、すかすかにして出入りを自由にすればいい。

重国籍を認め、日本国籍の離脱と取得をもっと容易にすれば、国籍自体が大きな意味を持たなくなる。…なんのゆかりもない人がただたんにやってきて気に入ったから定住する、そういう場所として日本があればいいと思う。

国境線問題についても、無理やり確定する必要はなく、曖昧なままでいい。…壁にたとえるなら高さをまたぎ越せるくらいに下げるとか、出入り口をたくさん作って自由に行き来できるようにすればいい。

要塞のように武力で閉ざした国家が長く繁栄したという歴史はない。そして、ユダヤ人のディアスポラが示すように、移住や交流は文化的にも相互に刺激や豊かさをもたらすものであったはず。その多様性を否定したのは、むしろ近代の国民国家のほうだった。

〈おわりに〉
一冊の本を読み通すという経験や、本の多読からしか得られないものがあります。危機の時代を乗り切るために、流されずに思考する土台と習慣を身につけてください。

<感想文>
ウクライナ戦争が始まってから、私はロシア・中国・北朝鮮という軍国主義国家と隣接することを少なからず恐怖に感じていた。そして、軍事力に頼ることも必要ではないかと考えたり、でも戦争になったら戦地は日本である。日本を戦場にしてはいけないのではないか(ほかの国なら良いということではない)、と考えたり、本当に色々なことを考えた。その到達点は、日本国民が全員国外に避難するまで持ちこたえる軍備を持ち、日本人は世界に散らばって生き延びていくということで、まさにディアスポラを体現するようなことを考えた。それ以外には、憲法九条を守り不戦で外交交渉のみで対峙し、できる限り良い条件で相手国との条約を結び、相手国の傘下に入るということであるが、これは米国が認めるかどうか、また国民からも反発が多いと思う。ただ、避けたいのは、勇ましいことを言って、日本国中が廃墟となって国民が逃げまどい、その廃墟の中で敗戦を味わうという経験は二度としたくないのである。
早尾氏の国境の壁を低くすることは、そのほうが良いことは良いと思うが、これは世界同時革命のような構想が必要かと思う。隣に領土的野心を持った国があると成立しない「イマジン オール ザ ピープル」の世界なのである。

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