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青天の霹靂

こんばんは!
行動を促すFP*いしはらけいこです。

「”使う”が大事」がモットーの、ファイナンシャル・プランナーです。

今日の話は、お米の銘柄ではなく、映画のタイトルでもなく、私の身に起こった、突然の出来事についてです。

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1997年11月3日

その日は、数週間後に控えていたフルマラソンに出場するため、午後ずっと走っていました。実家の近くにある、広い大学の構内のイチョウ並木やその周辺の田園風景が、今でも目に焼き付いています。

帰宅して夕飯前に、ビールをプシュッ。

そのとき、夜7時のNHKニュースを見ていた父が
「お~い、何か言ってるぞ」

青天の霹靂

自分の勤めていた三洋証券が、「会社更生法の申請をした」と報じられていたのです。祝日の夜でしたが、男性社員は支店に集められているとのこと。

女子の営業職で年長だった私は、5~6時間ランニングしてすきっ腹にビールを飲んだだけだったけれど、一応、会社に行ってみることにしました。

集められた男性社員が会議室で説明を聞いている間、支店の電話は鳴りっぱなし。ニュースを見たお客さんからの電話です。私はずっと、電話対応に追われていました。

翌朝は、シャッター前にお客様の列

証券会社の朝は早いのですが、いつもよりも早く出勤してみると、閉まったシャッターの外に、すでにお客様の列ができていました。

お客様はもちろん、社員の誰もが経験をしたことのない、証券会社の破たんです。営業開始時刻近くになると、支店はお客様であふれていました。1日では対応しきれないと判断して、ある程度の人数以降の方には整理券を渡すことにしました。翌日以降に接客する予約の整理券です。

事情の説明、解約、株券の引き出し。1日中、店頭での接客と電話の応対が休みなしです。10日ほどは、休憩も取れませんでした。トイレも行けず(お茶を飲む暇もなかったのでトイレに行く必要もなかったのが幸い)、お昼ご飯も食べる時間がなかったと記憶しています。

1ヵ月ぐらいは、「超」がつくほどの忙しさでした。

それから数ヵ月が経ち

会社の再建が難しいと判断されて、業務は破たん処理になり、社員は交代で再就職活動をし、徐々に同僚が去っていきました。

私は、支店の上司や同僚数人と、別の証券会社に移りました。その後、5年ほど営業職を続けていました。ITバブルに向かって上り詰め、転げ落ちる場面も経験しました。

その5年間の私は、三洋証券の「一女子社員」だった頃と違って、激動の「証券マン」でした。充実もしていましたが、「何か違う」とも思っていました。

この時期、会社の後押しもあり、ファイナンシャル・プランナーの資格を取りました。「人生に関わるお金の知識を身につけたら、仕事の幅が広がるかな」「名刺に”ファイナンシャル・プランナー”と記載できるんだって」などという程度で、軽い気持ちで取った資格です。

年俸制の「証券マン」をやっていたら、いろいろありますよね。充実していて楽しかった時期でもありますが、やっぱり「何か違う」と。

そうだ、会社辞めちゃおう!

突然ですが、そう思っちゃったんですよね。思いついたら、辞めるまでが早かった。思いたって3ヵ月ぐらいで退職しました。

ファイナンシャル・プランナーの資格を持っていたことと、自分でいうのもなんですが、お客様から「説明がわかりやすい」などと言われていたので、何とかなるかな、なんて思って、無計画でしたが、あっさり退職してしまいました。

あれから24年

今朝、日付を見たら「11月3日」。毎年思い出すわけではありません。11月3日を忘れてしまう年もあります。いつの間にか24年も経っていました。

今思えば、破たんまでいて、あの経験ができて良かったなあって思っています。人間模様も、たくさん見せていただきました。営業の苦労も、心底味わいました。

破綻がなかったら、私は、年代的に普通の主婦になっていたかもしれません。フリーランスになるなんて、思ってもいませんでした。ましてや、トライ&エラーこそが面白いなんて、感じることもなかったでしょうね。

「あれもやってみたい、これもやってみたい」とワクワクしながら仕事ができているのは、「11・3」があったからだと思っています。


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「”使う”が大事」がモットーの、ファイナンシャル・プランナー
行動を促すFP*いしはらけいこ
ライフプラン→マネープラン研究所
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