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小説「ぼくと ぱく しらいし」3

3  ぱくとぼくとまゆみ

 ある日それは夕方の時刻でそろそろバイトを終えようとしていた頃だった。いつものように文庫本からコミックや専門書コーナーなどひととおり本の整理を終えたぼくは最後に「学習参考書コーナー」に入っていた。そこは文房具コーナーと隣接していた。一人の女子高生の姿が目に入っていた。彼女はほとんど場所を変えていなかった。世界史の関連本を扱う棚の前にいて、それも一冊の本に特別興味を覚えている風だった。そのコーナーは、Z―KAIの速読英単語や英語の本が棚に集められた右端から数学とかの理系に移り、世界史や日本史のある社会、その並びに古文や国語の棚で終わる。彼女はちょうど棚の中央の前にいた。身長は165を少し超えた背丈で厚底でもない普通のパンプスを穿いていたから高く見えた。髪は黒髪で肩まであった。どこかの学校の制服姿で両足の間に使い古した緑色の学校鞄、左足の横に布製の少し大きめの茶色のトートバッグを置いていた。トートバッグの持ち手のところに以前ぼくが付き合っていた彼女からもらったものと同じNIKIの白い犬がぶら下がっていたから特に気になって時々見ていた。そのトートバッグを時々胸の辺りまで持ってきては中身を見る仕草をしたり、世界史の関連本である「イチから鍛える世界史」シリーズのうちの一冊を丹念に見たり、また下においたり、また取ったりを繰り返している。その本は虫食いになった設問の空欄に正解を入れて完成させる問題集になったやつだった。それをそろそろ三十分やっていたと思う、ぼくは何かそう言う時に勘がはたらくようだ。その証拠に本を見ている間にトートバッグを胸の中央にまた持ち上げたりしている。ぼくは何かまずいものを直感的に感じて彼女のそばに寄って行った。そして殊更に丁寧に彼女の周りの乱れた本を片付けていく。それを大袈裟なほど得心いくまで続けた。手だけが自分の感情とは違うように動いていたから、それは彼女に取ってみれば唖然というか次の行動が取りにくい行為であったろうと思う。つまりぼくは彼女の邪魔をしていたのだった。彼女の真横で本の整理が突然行われたのだから。そして彼女の目線は、自分の横でさっきから本の片付けをしている男性に注がれ、次に自分が欲しいその「イチから鍛える世界史」という本をその人も裏返したり、中身を確認したりしているところだった。一通り片付けが終わるとぼくは彼女の居場所から離れた。ただ視界からは消えないようにした。自分の欲求が人には理解不能に思えたとしても実行できる自分がいたのは少し自分でも怖かったと彼女は内心思っていた。しかし一瞬の行為が自分がやろうとした行為を挫き、目覚めたかのようにその一冊を手にとってレジに行く自分がいたのだから不思議だった。彼女が真っ直ぐにレジに行き、並ぶまで見届けるとぼくは今日一日の仕事を終えて一旦事務所に戻り総務の方に挨拶してから書店を後にした。

 それから一週間ほどが経っていた。最近ぼくが困っていることは、他の店に入った時に手が自然に本を治す仕草をするようになってしまったことだった。思わないでも手が勝手に動く。言ってみれば職業病というやつかも知れない。白石さんが知れば引かれるかも知れない。そしてある夕方の時刻、あの女子高生がぼくの前に突然現れた。一度見た女性は大体わかる。入り口に現れたその人は、教科書関連コーナーに行くでもなく、ぼくが今いる単行本のコーナーに真っ直ぐに向かって来た。ぼくは手を休めて彼女の動きに奪われてしまっていた。まるで立ちすくんだようになっていた。ぼくの視界の中に往年の名著である柴田翔の「立ち盡す明日」という本があった。そしてその視界の中に彼女が飛び込んで来た。ぼくと正対した感じで彼女は何も言えずに立っていた。そのうち彼女は口を開いた。「片桐麻由美です。先日はあの、すみませんでした。」そう言ってお辞儀をした。ぼくは「いやあ、何もしてませんよ」と答えた。「それでは気が済まないので、ここまで来ました、私分かってるんです、自分のしようとした事、あなたも分かってたはずです、だから。」彼女は息せき切って言葉を吐き出した感じだった。「分かりましたよ。頭を上げて下さい、仕事ができなくなるんで」とぼくは注文した。ゆっくりと頭を上げてぼくを真っ直ぐ見つめた目はとても綺麗で驚くほど澄んでいた。何だか吸い込まれそうだった。彼女は継いだ。「あのこれ。」と言って何か包みのような物を手渡した。「え、何これ?」と聞くと「大学生でしょ、だったら、使うだろうと。お礼です。」包みの中身は少し高めのボールペンとシャープペンシルがセットになって箱に入った物だった。いきさつ上受け取っていいかと迷ったけど、受け取らないと彼女も困るだろうと思い受け取ることにした。クリスマスでも誕生日でもバレンタインデーでもないのに気が引けたけれど「ありがとう」とぼくは素直に礼を言った。彼女はにこりと笑った。笑顔が素敵だった。「世界史、勉強してる?」と聞くと「はい。でも、あのそれで、あなたに家庭教師やってもらえないかとお願いしに来たんです実は。」と言う。都会の子ははっきり言うもんだなと呆れるような羨むような思いがした。ぼくは頭を掻きながら、どう対応していいものかわからずにいた。遠くのレジから店員がこちらをチラッと見ていた。セルフレジの後ろに控えている係の人もこちらをずっと窺っている感じがした。そんな空気に押されてかぼくは、その場を切り抜けるつもりで「別にいいけど」と言うと、更に彼女は喜んだ笑顔をぼくに向けた。彼女はあらかじめ用意してきたんだろう、一枚の紙切れをぼくに手渡して逃げるように去って行った。彼女もいくつかの視線を感じ取ったのだろうと思う。或いはその時どこかに急いでいたのかも知れない。その紙切れにはサインペンの小さな丸文字みたいな字で丁寧に自分の名前と携帯番号が記されていた。

 変なきっかけでぼくはその片桐真由美という女性と知り合いになった。そしてそれから一週間後に成城に住んでいる彼女の家に行くことになった。成城といえば、関西では「成城石井」しか知らない。成城学園もあまり聞こえてこない。ぼくの小学校の同級生で中学と同時に東京に移り住んだ女性がいるけど、ちょうど世田谷区立深沢中学校に通っていた。自宅は多分南烏山だったのを覚えている。

 そのセルフレジの係の女性が後であの子は誰?と聞いてきた。万引きしそうになった女の子という分けにもいかずその場は単に知り合いですと答えたが、一部始終を見られた気がして、そんな訳ないですよねという胸の内が聞こえた気がした。そこにちょうど田中さんという女性万引きGメンの人が通りかかった。そして耳元に囁くように「騙されちゃあダメよ」とひと言忠告するのだった。田中さんはこの書店にはなくてはならないベテランの女性で、歳の頃はおそらく50代半ばだと思う。何度もこの書店では犯人を捕まえては警察に突き出している。厳密にいえば、突き出しているというよりも、田中さんがレジを通過した人を田中さん流のやり方でやんわりと観念させて、事務室に連れて行き、書店の総務の人が警察に通報するのだ。それから管轄署の警察官が来て犯人が提出した書籍や文房具やらの商品を店員の方から押収していく。最終的には返還(還付)されるのだけれど、汚したり破ったりすれば犯人に弁償させるのだそうだ。そういう仕組みになっている。ぼくは法学部で、刑法や刑訴法といわれる分野の判例を研究している。それは一度医学を志望している白石さんから聞かれてそう答えたことがある。警察が事件を送致してから地方検察庁の検事が起訴する、或いは不起訴にするといったことを実例を交えて解説したのだった。

 世の中には詐欺師も多いけど盗人も多い。ぼくは何らかの要因が彼や彼女らの人生に影響を及ぼして罪深い人生を送ることになってしまっているのだと思ったことがある。先天的に罪を犯してしまう人と、何らかの要因で後天的に罪を犯してしまう人に分けられる。例えば半グレのような人は親がヤクザだったり、生まれた家庭が低所得者層だったり、日本国籍じゃなかったりすると抑圧された環境下で普通の人が進む道とは異なる方向性を持つことがある。友人関係がさらにそれを助長する。出発点は誰もお金が欲しいという欲求で、人を騙す、或いは窃取するという行為によって自己の「資産」を増やし、幾らかの満足を得るがそれにより必ず損を被る人が出てくるから、いつまでもそれが許されない場合には、天の采配というものがあるんだろうなぁと想像してみる。つまりそのうちの誰かがスポーツカーを手に入れて得意になっているとする。その車がスピードオーバーで事故を起こし大破する。或いは警察に捕まりそうになって逃げた挙句に拳銃で撃たれる。これは実際に大阪であった話だ。誰かは大麻に走る。覚醒剤に手を出す。HUBLOTの時計を身につけたり、箔をつけたがる。大金を持て余している絶頂期には他人から羨ましく思われることが一時的にはあっても、直ぐに行き詰まってしまう。まるで被害に遭った人の怨念が足元を掬うように。以前ゲームであった積み木を駆け上るが、ほんの少し足を踏み外してしまうと奈落の底に落ちてしまう羊のように。


 「あなたはなぜあそこにいたんですか?」と片桐さんは聞いてきた。成城と言えばぼくには高級住宅街のイメージが定着しているけれど、まだまだ他にも千代田区や荒川区、世田谷区にも目黒や文京区の目白台など挙げればきりがない。ぼくは家庭教師のアルバイト初日の11月の土曜日の朝彼女の家の2階の部屋にいた。周りをコンクリートの塀で囲まれ、その中に植物が生えていて、その内側に木の温もりがするような二階建ての木造住宅が建っていた。先代から続く大きな邸宅を改造したような真新しさがあった。二世帯にしているがいくつかの部屋がそれぞれ上手くデザインされていて、どの部屋も気持ちの良い工夫があった。一階の離れは彼女のお婆さんが住み、ダイニングはお母さんが気にいるように流しの前にタイルがあり、テーブルにいる人たちを向いて調理ができるようになっている。中二階には会社員のご主人の、つまり彼女の父親の仕事場を設えてあり、2階には彼女と弟の勉強部屋が独立してある。

 ぼくは答えた。「つまり歩道に落ち葉がいっぱい落ちていると誰かが来て綺麗に履き清めたりするでしょ。あれに似てなくもないかな。それが無駄だという人もいるけど、一時的にせよ必要だと思う人もいる。ただぼくがやっている行為には対価が支払われる。落ち葉を集める人は大体ボランティアじゃないかな?そこが違いかな」彼女は自分のことを片桐ではなく真由美と呼んで欲しいと希望したので、まゆちゃんにしたらどうかと提案し了承された。

 ぼくは彼女に世界史と英語を教えることになった。ここだけの話だけど、あの時まゆちゃんが書店に入ってきた時に既にGメンの田中さんは彼女に目を付けていたそうだ。どこか危なっかそうだ、というのがその理由だった。ぼくも知らなかったが、ぼくは彼女の行為を阻止するとともに、田中さんの仕事の実績も奪ったことにもなる。世界史の本一冊でうら若い女性の人生が変えられてしまっては堪らない。ぼくは世界史や英語も大事だけどもっと大事なことがあるとまゆみちゃんには話をした。こんな裕福な家庭環境にありながら、世界のどこかで貧困にあえでいる子供がたくさんいることを彼女は知らなかった。英語については日本人の学校教育は文法や書くことにはまめだけど、どうしても頭で翻訳するように躾けられてしまっている。つまり英会話を聞いても日本語にまず翻訳してからでないと頭に入ってこなくなってしまっている。まずそこから変えなければ進めない、だからYouTubeの英語のニュースを聴かせて、翻訳せずにそのまま聴き流して慣れるようにすることを奨めた。それがまず英語学習の第一歩だからだ。

 不思議なことだけれど、彼女が既に才能があるからなのか、一週間もすれば彼女の頭には英語脳と言えるようなものが身についてきていた。そして彼女が喜んでぼくにそのことを報告したのだった。世界史については、まず自分が一番興味を持つ時代の出来事から始めるように言った。ほとんどが年代表や丸暗記的な問題集に頼ってしまいがちになる。どの分野もそうだけれど、基本は問題を解くよりも参考書重視だと思っている。彼女は時代ではまず中世が知りたいと言った。授業で習った十字軍の頃、そしてフェルメールが生きた時代が知りたいとも言った。きっとオランダのことについてはぼくも一緒に勉強しなくちゃ完成しないだろうと思った。高々ぼくの偏差値は50から60の間に過ぎない。彼女はかなり上位だろうと思う、特に数学は秀でていた。このままいけば共通一次は難なくクリアしてしまうだろう。人がこれまで覚えこんだことが正しいかどうかは直ぐにはわからないものだ。短期決戦にこうして臨んでいった。

 年末が近づきぱくが盛んにと言うか執拗にぼくに連絡を取りたがっていた。白石さんの差金ではないだろうけれど(そう信じている)。片桐さんもぼくの友人関係について聞いてきたから大学のこととか、最近知り合ったぱくのこととかを話すと会いたがっていた。ただ何故だか彼女には白石さんのことは言わずにいた。学習に一所懸命になっている彼女には言えなかったし、詮索されるのも好きじゃなかった。片桐さんは受験が迫っていたし、ぼくはぼくでぱくがまだ持っていない資格、ビジネス実務法務検定(2級)を受けようと少しずつ勉強していた。ぱくにはまだぼくが家庭教師のバイトをしていることを言っていない。大学の吉田にも言っていない。それぞれに秘密を持って、時は少しずつ未来へと進んでいた。



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