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エゴサの本当の恐ろしさ

前置き


以下の内容はとある雑誌に頼まれたエッセイがもとになっているのですが、そのエッセイが9月出版予定で、編集者さんが「もっと早く世に出した方が良いと思います……」とおっしゃってくださったので、noteに投稿することにいたしました。

本編


私は、二月の半ばから得体の知れない不安感とそれに伴う倦怠感に襲われるようになりました。体調が悪かったのは明らかで、学生に心配されるほどでした。そんな中、三月の始め、四月上旬に実施予定の大きな仕事の依頼が来たのです。その依頼は、全力で向き合あいたい仕事でしたので、与えられた一ヶ月で不安の正体を突き止め、解消する必要がありました。
 
幸いなことに、答えはすぐに見つかりました。一月下旬、私はゴスペラーズの北山陽一さんと絵本を出版したのです。歌う体の中で何が起こっているかを漫画形式で伝える試み。我々の想いを落とし込んでくれた漫画家さんの力量も素晴らしく、北山さんは楽曲も制作してくれ、前例のない達成感を感じた仕事でした。
 
そして出版後は、お祭り状態。多くの方々がネット上に好意的な感想を投稿してくれれました。いつの間にか、私は毎日数回、Xで絵本のタイトルを検索し、アマゾンのレビューを読んでいました。エゴサに溺れる自分を恥ずかしいと感じる羞恥心は保ちつつ、「こんな機会は滅多にない」と自分に言い訳を続ける毎日が続きました。
 
ここまで読んでくださった方は:

「なるほど、不安の原因は、エゴサで見つけた否定的な感想なのですね!! それは嫌ですよねー。」

と思うかもしれません。いや、そうではないのです。否定的な感想などありませんでした。そう、私に不安をもたらしていたものは——非常に逆説的に聞こえますが——好意的なコメントだったのです。
 
ここに現代社会におけるパラドックスが体現されていると思います。以下では、『ドーパミン中毒(新潮選書)』から学んだことをもとに議論を展開します(現代社会に生きる人として、非常にお勧めの一冊です)。人間の脳内では「快楽」と「苦痛」はシーソーの関係になっていて、シーソーが快楽側に傾けば、平衡状態に戻るために、苦痛を感じる。人間は、その苦痛から逃れるために新しい快楽を求める。その新しい快楽はさらなる苦痛を生み……という悪循環に陥る。快楽を得るのが難しかった過去に比べ、快楽がそこら中に存在する現代では、アルコールや薬物だけでなく、すべてが「薬物化」してしまう可能性がある、と著者は警告を鳴らしています。
 
あの時の私にとって、ネット上の好意的な感想が薬物となっていたのです。自分の作品を褒められることで快楽を感じ、その反動で苦痛を感じる。その苦痛から逃げるために、さらに好意的な感想をさがす。しかし、好意的な感想が毎日更新されるわけではなく、快楽の欠乏状態に陥り、それが不安と倦怠感につながっていたのでしょう。つまり離脱症状に苦しんでいたのですね、私は。
 
事実、エゴサを一切禁止して、Xとアマゾンから離れたところ、三週間ほどで体調はかなり良くなりました。
 
恐ろしいのは、私は昨年末に『ドーパミン中毒』を読んでいて、その内容に感銘を受けていたにも関わらず、「褒められたい中毒」に陥っていたことです。しかも、自分が中毒症状に陥っているという自覚すらありませんでした。
 
幸いなことに、私には「4月にある大きな仕事」というきっかけと、『ドーパミン中毒』を読んで得た知識があったため、褒められたい中毒から脱出することができました。私が本当に心配なのは、現代に生きる子どもたちです。生まれた時から当たり前のものとしてスマホが存在し、SNSを通して24時間、快楽を浴びられる環境で育っています。私と同じように、中毒に陥ってしまう子どもたちが増えてしまわないのか。いや、もうそういう子どもたちもいるのではないか。この問題を自覚して、何か動くべきじゃないか。

「SNSを禁止しろ」などど非現実的な主張をするつもりはありません。しかし、少なくても私の中では、この問題は真実でした。どのような形が適切なのかわかりませんが、自分の経験をふまえて、これからできることをしていきたいと思います。

補足

  • 誤解のないように追記しますが、絵本や他の著作にに関して好意的なコメントをネットに書いてくださるのはとってもウェルカムです。私がエゴサしなければいい話です。

  • 私自身はSNSとの付き合い方を考えなおしています。Xでの活動が控え目なのは上記の理由によります。

  • SNSの子どもたちへの影響について真剣に勉強しています。


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