【試し読み】『ブリュメール18日──革命家たちの恐怖と欲望』
1799年、ナポレオンが総裁政府から実権を奪ったクーデタ、「ブリュメール18日」。これによってフランス革命は終わりを告げたとされています。4月に刊行した『ブリューメル18日 ──革命家たちの恐怖と欲望』では、権力欲に取り憑かれたナポレオンの断行として描かれていたこれまでの歴史観から、むしろフランス革命の成果を守るために、改憲派の革命家たちがナポレオンを権力の座に引き上げた事件として理解し、革命家たちの視点に立って考察。今回はそのイントロダクションとして、本文中より「はじめに」を公開します。ぜひご一読下さい。
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「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と」。カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』のあまりにも有名な冒頭の1句であるが、マルクスはここで、フランス大統領ルイ= ナポレオン・ボナパルトによる1851年12月2日のクーデタを、その伯父ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日(1799年11月9日)のクーデタと対比させながら、伯父を模倣しただけの「小物」が起こしたこの事件を戯画化して、痛烈に批判している。
ところで、著名なフランス革命史家パトリス・ゲニフェイによれば、この二つのクーデタの具体的な展開に限って言えば、マルクスは評価を逆にするべきであるという。1851年12月2日のクーデタでは、各地で激しい抵抗がみられ、それを弾圧するために展開した軍事活動の結果、首都の路上には300以上の死体が転がり、3万人が逮捕され、250人にカイエンヌへの流刑、1万人にアルジェリアへの流刑が命じられた。
それに対して、1799年のブリュメール18日では、当初の計画どおり進まなかったとはいえ、パリでは一滴も血が流れず、地方も比較的平穏にその事件を受け入れたのである。ナポレオン・ボナパルトがエジプトから帰国してからわずか1ヶ月後の出来事であった。こうした歴史的事実に照らしてみれば、むしろ悲劇は12月2日に起きたのであり、ブリュメール18日に起きたことは笑劇でしかなかった。
マルクスがこの二つの事件を同じ次元で論じたように、12月2日のクーデタはブリュメール18日に対する歴史家たちの評価にも大きな影響を与えることになった。そもそも当時の人々は、ブリュメール18日の事件を指すのに「クーデタ」という言葉を用いてはおらず、「革命」と呼ぶのが一般的であった。「革命」という言葉は、我々からすると、あまりにもラディカルな変化を指すように思われるが、当時の人々にとってこの事件は、1789年以来、フランスが経験した一連の激しい動揺のなかでみられた政治的変化の一つであり、少なくとも、1795年憲法(共和暦3年憲法)を破棄し、体制の変化を導いたという意味で「革命」にほかならなかった。そこに否定的な意味合いはなく、危機に瀕した共和国を救うために不可欠な出来事として捉えられていたのである。
確かに、19世紀になると「革命」という言葉はあまり用いられなくなるが、ブリュメール18日に対する肯定的な評価は歴史家たちに引き継がれていった。たとえば政治家でフランス革命史家でもあるルイ・アドルフ・ティエールは、ブリュメール18〜19日の一連の事件とそれ以降を分けて、事件それ自体については共和国を救う有益な企てとして評価しつつ、それ以降、ナポレオンが権力を簒奪していく過程と明確に区別している。要するに、19世紀前半には、ブリュメール18日は、リベラルな歴史家からも共和国に対する裏切りとはみなされていなかったのである。ところが、1851年12月2日のクーデタはそうした評価を一変させた。この事件に強い衝撃を受けた共和派は、12月2日とブリュメール18日を同一の次元で論じ、後者に革命の否定とナポレオン独裁の樹立をみようとした。文豪ヴィクトル・ユゴーによれば、12月2日は人々にブリュメール18日が「非合法」であったことを思い出させ、ナポレオン体制に残された好意的なイメージは完膚なきまでに破壊されたという。以降、とりわけ第3共和政下において、ブリュメール18日と12月2日は同じく否定的な性質を持つ事件としてひとまとめに理解され、違法性、暴力性、独裁志向といった意味を込めてついに「クーデタ」と呼ばれるようになった。ゲニフェイの言葉を用いれば、「伯父は甥の犠牲になった」のである。
こうして、ブリュメール18日のお馴染みの歴史観が作り上げられていった。ブリュメール18日は権力欲に取り憑かれたナポレオンの野心が引き起こした企てであり、それによる独裁体制の樹立は革命に対する裏切りとして理解された。近年では、さすがにナポレオン体制とフランス革命を真っ向から対立するものとして論じることはほとんどなくなったが、ブリュメール18日については、相変わらずナポレオンの視点からしか語られていないのが実情である。
実際、この出来事はいつもナポレオンの伝記で論じられているのであるから、当然と言えば当然である。しかし、ブリュメール18日をナポレオンの独裁志向の観点からのみ論じることは、やはり公平ではないだろう。事実、ナポレオンが帰国してからわずか1ヶ月で、しかも無血で体制の転覆に成功したこと自体、この事件がナポレオンの野心だけでは決して説明できないことをよく示している。ブリュメール18日は、当時の政治的・社会的状況や歴史的背景を踏まえて、多角的に捉えていかなければならない出来事なのである。
本書は、そうした従来の歴史観から距離をとり、別の角度からブリュメール18日に光を当てようとするものである。すなわち、ブリュメール18日をナポレオンが個人権力を確立する過程としてアプリオリに想定するのではなく、むしろフランス革命の成果を守るために、改憲派の革命家たち(以下、ブリュメール派)がナポレオンを担いで、権力の座に引き上げた事件として理解することに意義をみいだそうとするものである。これは言い換えると、できるだけ革命家たちの視点に立って、この事件を考察することを意味している。むろん、ナポレオンに権力への野心がなかったと言いたいのではない。ナポレオンが政局の流れを見極める力を備えていたことにも異論の余地はないだろう。
しかし、実際のところ、この企てはそもそもナポレオンによる権力の掌握を目的に計画されたものではなかった。近年の研究はむしろ、ナポレオンと彼の協力者たちの共同的な側面を強調している。たとえば、イサー・ウォロックはそれを「共同事業(joint venture)」と呼んでいるし、ティエリ・レンツは、ブリュメール18日以後に創設された近代的諸制度の成果は、ナポレオンを取り巻く「統領政策集団(équipe consulaire)」に負うべきものであったとしている。ハワード・ブラウンもまた、ブリュメール18日ののちに作られた新たなシステムは、幅広い政治エリートの合意の産物であったと主張しているのである。
このような視座は、ナポレオン体制とフランス革命の関係についても再考を促すはずである。従来、ブリュメール18日はいわば、フランス革命にとって「断絶」を画する事件として理解されてきた。しかし、ブリュメール18日が革命家たちによって革命の成果を守るために主導された事件であるならば、そして実際、新体制の設立において革命家たちの果たした役割が大きいとすれば、ナポレオン体制とフランス革命の関係はより一層複雑なものであった可能性があるだろう。ナポレオン時代に創設された諸制度にナポレオンの独裁の意思のみを読み取るのではなく、むしろブリュメール派の政治的な思惑を明らかにしなければならないのである。当時の政治的・社会的状況を踏まえて、できるだけブリュメール派の視点からこの事件をより現実に即して理解することが、本書の目的である。それはすなわち、革命期に生み出された民主主義を思いどおりに制御できなかった革命家たちが、まさにその民主主義のなかから権威主義体制を形成していく具体的な過程を明らかにすることなのである。
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