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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(4)

第三章(一)

 俺が〝金輝星<キムヒソン>〟という女優に会ったのは、この地に来てから二、三年経った頃であろうか。その頃、俺はこの国の芸術界をリードすると云われている中央芸術団に所属していた。
 彼女は、文字通り突然、現われた。
 ある日の朝会の時、団長が一人の少女を連れてきた。
「諸君、新入団員の金輝星同志だ」
 こう紹介されると彼女は
「よろしくお願いします」
と言いながら頭を下げた。特に目立った特徴もない娘だった。高い位置で纏めて垂らす髪型がこの国の女性たちとは異なっていた。
――この娘も日本帰りだろう……。
 日本から来た人間はやはりこの国の住人とどこか違うのである。
 周知の通り、かつて日本が朝鮮を統治していた時、内地と呼ばれていた日本本土に多くの朝鮮人がやって来た。遊学、職探し、或いは戦時動員等々、その経緯や動機、目的は様々だった。
 日本の敗戦により朝鮮は独立し、日本にいた朝鮮人たちは故郷に戻っていった。だが、中にはそのまま日本に残った人々もいた。数年後、朝鮮戦争が起こると戦渦を避けて日本にやって来る人々が現われた。こうして、日本には数十万人の朝鮮人が暮らすようになったのである。
 戦争が一段落して数年経った頃、“帰国運動”が起こり十万人近くの朝鮮出身者及びその家族が北朝鮮へ渡っていった。初期には数万人単位で行った帰国者も、かの国の実情が伝わると共にその数は激減した。それでも、“帰国事業”その後約20年間続いた。
 こうした事情でこの国には日本で生まれ育った人間が結構いるのである。
「さて、今回の演目だが、林同志…」
 団長に呼び掛けられて俺は我に返った。
「はい、今回は偉大な将軍の満州での抗日の闘いを描いたものです…」
 俺は昨夜書き上げた新作のストーリーを発表した。すると
「輝星同志にも出てもらおうと思うのだが、林〈リム〉同志どうかね」
 団長は思い付いたようにこう提案した。
「では、将軍を出迎える村娘の一人ということで如何でしょうか?」
 俺は慌てることなく答えた。
「うん、よかろう。輝星同志、そういうことだ」
 団長が輝星に向かっていうと
「わかりました」
という返事が聞こえた。
 その後、それぞれの配役が発表され、台本が配られてその日は解散となった。練習は翌日からであった。
 団員は稽古場から出て行った。輝星もそれに続いた。
 団員たちが出払ったのを確認した後、俺は団長に訊ねた。
「彼女は何者です?」
「さあ、私も知らない。昨夜、いきなり連れて来られたんだ。親愛なる指導者同志が地方視察中に見つけ出されたということだ」
“親愛なる指導者同志”が出て来ると、それ以上は何も言えない。この国は、彼を中心に成り立っているのだから。

 翌日から稽古が始まった。俳優たちは、ノルマをこなすように台詞を読み、裏方も決められたことを淡々とこなす、いつもの光景だった。
 この国の演劇、いや音楽、文学、その他全ての活動は、偉大なる将軍と親愛なる指導者同志を讃えるために存在する。それゆえ、毎回、同じネタをまさに手を変え品を変えて上演する、やる方も見る方もうんざりしていた。だが、それを表に出すことはしない。そのようなことをしたら自身はもちろんのこと、親兄弟、友人知人たちまでも収容所送りになってしまうからだ。
 さて、台本の読み合わせは、新入りの金輝星の番になった。彼女は立ち上がり、
「将軍、お待ちしていました」
と言った。瞬間、その場の風景が変わった。満州の貧しい村の広場に一人の娘が立っている。彼女は伝説の将軍を待っていた。彼こそが自分たちをこの境遇から救い出してくれる。その方が今、目の前にいらっしゃるのだ…。輝星はたった一言でこれだけのことを描き出したのである。
 その場にいた人々は、輝星を注視していた。将軍役のこの国の最高クラスの俳優はこの後の台詞が出てこなかった。しばしの沈黙の後、手をたたく音がした。拍手は稽古場にあふれるほどになった。団員たちは観客の一人になってしまったのであった。これをきっかけに稽古場はかつてないほど熱気を帯びてきた。
 ここにいる連中は自分を含め、皆、日本からの帰国者であり、日本にいた頃から演劇関係の活動していた。そのため、当然、芝居を愛している。彼女の名演を目にして、この地に来てから忘れてしまったかつての演劇にかける情熱を思い出したようである。
「団長、彼女の台詞を増やしましょう」
 俺は横で共に練習を見ていた団長に向かって思わず言ってしまった。
「そうだな」
 彼は即座にOKを出した。
 結局、彼女は将軍を迎えた時、喜びのあまりうたを歌い、花束を渡すという役になり、公演当日は舞台の中央に一人立つことになった。
 公演初日がやってきた。幕が開き、芝居は始まった。団員たちは、いつになく気合が入っていた。それは客席にも伝わったようである。物語が中ほどにさしかかった頃、輝星が舞台に現われた。継ぎ接ぎだらけの朝鮮服に髪を一本の三つ編みにして背中にたらす典型的な昔の貧しい朝鮮の娘姿をした輝星は、将軍を迎えて喜びの歌をまず歌い、「将軍、お待ちしていました」と言いながら将軍に山で手ずから摘んで作った粗末な花束を渡した。客席からは、感嘆の声が上った。純粋な村娘に見とれてしまったのである。

 翌日、朝鮮中の職場、学校、農場、漁場等々では、輝星の話題で持ちきりだったそうだ。娯楽のあまりないこの国で、TVの演劇中継は数少ない楽しみ(といえるのだろうか)の一つだった。
「ねえ、見た? 昨日のお芝居の中継」
「うん。将軍に花束を渡した娘、可愛かったね」
「何ていう名前なんだろう」
 人々のこうした会話の末に、新聞社や放送局、芸術団への問い合わせが殺到した。かつて無かったことだ。そして、生で輝星を見たいという声が多く寄せられ、当初2週間の公演を1ヶ月に延長するほどだった。そして、最初のTV中継には、その他大勢の扱いでクレジットされた輝星の名前は、2回目からは「村娘1」として独立して記載された。
 輝星の“人気”を認めた芸術団は、次の作品では、物語の展開上要となる人物の役を与えた。そして、この作品が上演、放映されると、観客及び視聴者は、輝星に注目した。彼女の一挙手一投足に人々は一喜一憂し、彼女が言った台詞は流行語になるほどだった。
 人々のこのような反響を見て、劇団側は公演を重ねるごとに輝星の出番を増やしていき、遂に主役級の俳優と肩を並べるほどの人気者になった。
 この状況は、お偉方も知ることとなり、次の公演では金輝星を主役にせよとのお達しがあった。ついでに演目も指定された。「金剛山のこだま」という親愛なる指導者同志自らが作ったとされている作品である。自身の生母の半生を描いたこの作品を指導者同志は輝星という女優で見たかったのかも知れない。
 芸術団メンバーにとっては何度も演じてきた演目だが、新入りの輝星にとっては初めての作品である。彼女が演じるのは射撃の得意な女性兵士である。
 戦後の日本に生まれ、軍隊とは無縁の生活をしてきた輝星にとって、この役は難しいようである。彼女は、時間さえあれば劇団内の資料室に籠もって関連書籍やビデオテープを見ていた。この国最高の芸術団だけあり所蔵されている資料は豊富である。ここに無いものを見たい場合は取り寄せも出来るが、輝星は外部の資料も参考にしていたようである。また、演技指導に来た現役の女性兵士について射撃も習った。毎日、彼女について練習を繰り返した輝星は一人前の射撃手を演じられるようになった。
 こうした彼女の努力の成果により「金剛山のこだま」はかつて無いほどの好評を得た。人々は、この物語がこれほど感動的な内容だったのかと感心したが、それは輝星の演技力によるところが大きかった。
 輝星は一応台本通りには演じるが、そこに書かれていないものまで表現してしまう。これまでの主人公は単に勇敢なだけだったが、彼女はその奥にある不安や弱さも演じきった。この女兵士は普通の女性たちと変わらない存在なのだ、ただ少し勇気を出したために立派な兵士になれた。彼女はそれを伝えたのである。結果、人々に主人公に対して親近感を抱くようになった。劇の内容を人々に近付けたといえるだろう。
 考えてみれば、輝星によってこの作品の作者である親愛なる指導者同志の究極的な目的が果たせたのではないだろうか。演劇等、芸術作品を通じて国民の心を掌握する。無意識のうちに輝星は体制に協力したことになってしまったのだった。
 続いて輝星は映画にも出るようになった。初出演作品は朝鮮で超有名な古典文学「春香伝」である。主役である春香は輝星が演じ、相手役の夢龍は日本帰りの二枚目俳優・鄭光男が担当した。鄭は国家一級俳優の称号を持つ若手俳優だが、そんな彼を相手に輝星は堂々たる演技を見せた。
 映画は舞台演劇と異なり、演者の細部までカメラを通じて観衆の前に晒される。画面いっぱいに映し出された輝星の表情は見る者の眼を離さなかった。特に春香が獄に繋がれているシーンでは、恋人・夢龍が必ず助けに来るという確信と、もしかするともう自分のことなど忘れているのだろうという疑心の入り混じった感情を表情と微妙な仕草で演じたのである。人々の心は春香と一体になった。こうした春香はこれまでなかったものである。

 毎日、オフの時間まで資料室に閉じこもって書物や関連資料を紐解きながら役作りをしている輝星は、他の団員たちとの個人的な付き合いはあまりなかったようだ。
 また彼女は、始業前の朝会から夕方の総括等々、日常の些事まで演技の参考にしているように見えた。ただ、その姿は女優・金輝星を演じているようにも思えた。もしかすると彼女の本当の姿は別にあるのかも知れない。このことに関しては、自分を含めたこの芸術団の団員、いやこの国の全ての人々に程度の差はあるにしろ言えるだろう。全てが統制されているこの国で本心を明かすのは危険なことなのだから。

 輝星の映画出演はその後も続いた。
 古典物語を題材にした活劇「洪吉童」では主人公の少年・吉童を演じ、現代ものの「我が家の事情」では新妻役を、「学校の英雄」では女学生役等、多様な役柄を演じ続けた。
 そして、共演者は毎回、鄭光男やかつて日本の劇団でも活躍していたベテラン俳優で国宝俳優の称号を持つ宋彗星等の実力派ばかりだったが、輝星の演技力は彼らに引けを取ることは決してなかった。





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