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[小説] 愛しき名前 ~ある特定失踪者少女の運命(1)

Epilogue
 大韓民国ソウル市。
 中心部からかなり離れた場所にその建物はある。“国家安全院別館”、一見ごくありふれたオフィスビルだが、ここの地下倉庫に彼女に関する資料が保管されている――。


 日本・東京近郊の某市。
 新学期を迎えた朝、駅はごった返ししていた。近辺に学校が三校もあるせいで、通りは学生でごった返していた。そうしたなか、同じ制服を着たグループの脇を一人の女性が通り過ぎた。
「ヒャンちゃん?」
 髪を後ろで一つに束ね、さっそうと歩く後姿にグループの女子高生の一人が呼びかけながら後を追った。残りの男女学生たちも続いた。
 行く手を遮るように現われた高校生たちに女性は微笑みながら問いかけた。
「何か……?」
 知性的な、いかにも仕事の出来そうな女性だった。
「……ごめんなさい、人違いでした」
 女子高生はばつの悪そうに頭を下げる
「どういたしまして」
 女性は優しげな口調で応え、歩みを進めた。
 高校生グループは、少しの間、その後姿を見送った。
 
 〝ヒャンちゃん〟こと朴水香〈パクスヒャン〉は、昨年の一時期この高校生たちのクラスメートだった。
 二学期の始まりと共に転校して来た水香は、父親が韓国人、母親が日本人のハーフで、昨今のK‐Pop女性アイドルのようにすらりとした足のスタイルの良い、ロングヘアーが似合う美少女だった。
 商社マンの父親の仕事の関係で日本に来たという彼女は、母親の生まれた日本について関心がとても深く、出来れば日本の学校で高校生活を送ることを希望していた。父親が日本勤務になったのを機に、かねてからの望みだった日本の高校への入学を果たしたのだった。
 そうした経緯もあり、また日本語が堪能で明るく気さくな性格の彼女は、すぐにクラスに溶け込んだ。
 勉強も良くでき、体育や芸術関係の科目も優秀だったので、二学期の中間試験では上位の成績を得ていた。こうしたことを鼻にかけることも無く、何事にも積極的に取り組む彼女はクラスの人気者になった。
 “韓流”もあって韓国に関心を持つ生徒は多く、そうした人々は韓国スターやドラマ、その他様々なことを水香に訊ねた。彼女は、それらに一つ一つ丁寧に答えた。
 ある日、たまたま水香が教室で一人になった時、担任の先生が話しかけてきた。
「水香さんはすっかりクラスに馴染みましたね」
「はい、皆、韓国にこんなに関心を持っているなんて本当にびっくりしました」
「私もよ」
 担任は笑顔で応じた。
「それで考えたのですが、韓国文化クラブを作って皆で一緒に学び合えればいいのではないかと」
「名案だわ。私が顧問になるのでさっそく作りましょう」
 女性教員は教壇の引出しから書類を出すとさっそく記入した。
「これを明日、生徒会室に提出すればいいわ」 
 翌日、水香はクラスメートたちにこのことを告げると、多くの生徒が即入部し、部員募集活動を手伝ってくれた。
 部活初日、数十名の生徒が集まった。そして具体的な活動としては、K-popを通じて韓国語を学んだり、韓国の伝統舞踊や伝統音楽を学ぶことにした。
 舞踊の衣裳や民族楽器は水香が持ってきたが、美しい衣裳に女生徒たちは歓声を上げた。
 K-popsや韓国民謡を歌ったり、民族楽器の演奏や民族舞を踊ったりしながら、楽しげに過ごす生徒たちを顧問の教師は感慨深げに眺めた。自分たちの高校時代には考えられないことだった。時代は変わったのだと実感したのだった。
 秋も深まり、中高生たちにとっては体育祭、文化祭の季節になった。
 水香が属している韓国文化クラブでも何かしようということになった。いろいろ話し合った末、その間、学んだ韓国民謡と舞踊を披露することにした。水香が舞い、他のメンバーが伴奏と歌を披露することにした。この時、水香は意外な提案をした。
 彼女たちの学校の近くに在日コリアンの民族学校の高等部があるのだが、彼女は、この学校の民族舞踊部との合同で文化祭に参加したいというのである。顧問の先生を含め、この学校にはリベラルな考え方をする人が多かった。民族学校との交流も以前から考えていたのだが、なかなか果たせないでいた。
 そのような状況だったので、水香の提案はよい切掛けとなったようだ。民族学校側も同様に考えていたようで、この案はすぐに実現した。
 公演の練習は、水香たちの学校で行なわれた。放課後にやって来た民族学校の生徒たちは最初は緊張してぎこちなかったが、同じ高校生同士だということですぐに打ち解け仲良くなった。
 出し物の内容は、両校の生徒が話し合った結果、水香がメインとなり、民族学校の生徒たちは彼女の周りで舞うというスタイルの舞踊にした。歌は水香の学校の部員の一部が担当し、演奏は残りの部員と水香の学校の吹奏楽部そして民族学校の民族音楽部員たちが行なうことにした。両校初の合同公演が実現することになったのである。
 民族舞踊なので伴奏も韓国の民謡になるのだが、民族楽器と西洋楽器の合奏は予想以上によいものとなった。両校の生徒ともこの公演は絶対成功すると確信した。
 文化祭当日となった。入場の制限がないため、様々な人々がやって来た。民族学校の生徒やその保護者たちも観覧のために訪れた。
 舞台公演は体育館で行なわれた。韓国文化クラブの出し物は前評判も高く、出演時間になると多くの人々が体育館に押し寄せた。
 幕が上がると、伽耶琴や長鼓等の民族楽器とピアノやクラリネット等の洋楽器で演奏された韓国の民謡が流れた。舞台中央には白い韓服を身に纏った水香が優雅に舞い、その周囲を民族学校舞踊部の生徒と韓国文化クラブ部員が取り巻いていた。客席はその美しさに見入っていた。そうしたなか、自身も民族舞踊をしている在日の年配女性は内心で動揺していた。
―あれは共和国の昔の…。
 かつて北で最高峰と評された女性舞踊家の作品を彷彿させたのである。政変に巻き込まれて粛清された彼女の作品は現在の北では封印されている。北の舞踊家の作品が韓国で上演されることはなく、在日社会でも忘れられている。韓国人の高校生が何故…。
「あの娘は何者なんだろう?」
 
 様々な行事のあった2学期も終わり冬休みとなった。正月は故郷で過ごす水香は家族と共に韓国に帰った。終業式の日、クラスメートたちに3学期に会いましょうと言い残して。
 だが、3学期が始まっても彼女の姿は無かった。父親が韓国の本社勤務になったためだそうだ。
「このまま、日本の大学に進学して日本文学を研究したい。」と言っていたので、卒業まで一緒に学校生活を出来ると思っていたクラスメートたちはとても残念がった。
 一人の生徒が、彼女の家に手紙を送ってメールアドレスを教えてもらおうと言った。メールで互いの消息を伝え合おうということである。
 さっそく担任の先生に水香の韓国の住所を聞いたが、学校に提出した書類には日本での居住地しか記載がなく本国のものは分からなかった。先生は彼女の父親の日本での勤務先に問い合わせようとしたが、そこは既に閉鎖されていて、結局、水香の居住地は分からず仕舞いだった。

 高校生グループに見送られた髪を束ねた女性は、有名な機械メーカーのオフィスのある駅近くのビルに入っていった。彼女は、数日前からこの機械メーカーで派遣社員として働いていた。
 勤務を始めたから何日も経っていないのに、その仕事ぶりは好評を得ていた。
「今度来た派遣さん、ええと名前は何て言ったっけ…」
 一息入れようと飲料の自販機の前に来た男性社員が側にいた女性社員に話しかけた。
「新井かおりさん?」
「そうそう、新井さん。仕事の手際がいいよね」
「うん、資料作りなんて、すぐやっちゃうし」
 勤務初日、かおりの机の上には山のような書類が運ばれた。集計担当の社員が急病で休んでしまい、その仕事を彼女がすることになったのである。
 簡単に説明を受けた後、かおりはさっそく書類を分類し、パソコンに入力を始めた。タイピングの速度はとても早く、まもなくプリントしたものをクリップで綴じて部長に提出した。それは正確でとても見やすく仕上がっていた。いつもだめだしする部長も今回は
「うん、完璧だ」
と一発でOKを出した。
「いい人が来たって部長も大喜びしていたよ。」
 二人は自販機の前を立ち去りながら話を続けた。
「それにしても、似ているよな……」
 男性社員がしみじみとした口調で呟いた。
「って誰に?」
 女性社員は興味深そうに問い返す。
「沖縄のママに」
「沖縄営業所にいた時、通っていたスナックの?」
「うん。初日に紹介された時はびっくりしたよ」
「でも、沖縄のママさんは……」
「もっと年取っていた、っていっても三十代後半くらいだけどね。噂によるとかなりの女傑らしいよ」
 彼はママの武勇伝を語り始めた。
 土地柄、その店には米兵もよく来ていた。ある日やって来た若い米兵は店の女の子にやたらとからんできた。仕事が仕事だけに始めのうちは笑顔で応じていた彼女も度を越えた態度に困惑し始めた。そんな時、ママがやって来て強い口調の英語で注意した。それでも態度を改めない米兵をタクシーに乗せ、自身も同乗して基地に行き抗議をしたらしい。数日後、ママの店に軍のお偉いさんがやって来て謝罪したと言われている。
「自分で直接見たわけでも無いし、伝聞なので誇張もあるだろう。でも米軍を謝らせたということで話題になっていたよ」
 男性社員が話し終えると
「すごい人ね。でも新井さんとは性格が正反対ね。彼女は物静かでおとなしいから」
「そうだね。似ているのは外見だけだ」
 話が一段落すると二人はそれぞれの席に戻って行った。
 二人が言ったように、新井かおりは物静かな女性だった。話す時は穏やかで、仕事中は余計なことは言わなかった。ただ人付き合いは苦手なようで、昼休みに同僚たちが昼食に誘っても“お弁当を持ってきたので”と言って断り、勤務終了後の飲み会に誘っても“家に用事があって”とそそくさと帰っていった。
 ある日、男性社員の一人が昼休みの時間に外回りから戻ってきたことがあった。室内には新井かおりしかいなかった。彼女は読書をしているようだった。男性社員は彼女の読んでいる本が気になり、席を立った隙に机上を見ると簿記の参考書が置かれていた。
「資格試験の勉強をしているのか」
 だから昼休みにも勉強し、夕方も学校に行くために定刻になるとすぐに退勤するのだろうと推測した。
 4ヵ月後、契約期間の終了と共にかおりは会社を去っていった。
「残念だわ、彼女のおかげでどれだけ助かったか」
「部長も課長も彼女のいる間は、仕事が捗るといって機嫌が良かったけれど、これからは大変だな」
 かおりが辞めた後、社員たちは暫くの間、毎日ぼやいていた。
 会社側も彼女の能力を高く評価していて、契約期間の延長、いや正社員として雇いたいとまでいったのだが、かおりは丁重に断った。
「あれだけ有能な人だから、条件のいい仕事を見つけたのよ」
「いや、何か資格をとって独立するのかも知れないな」
 かおりについての様々な推測・憶測も暫くの間囁かれたのだった。

 十数年後、白髪混じりのショートカットの中年女性がビル近くに立っていた。ディパックを背にスラックスに流行遅れのコートを纏った彼女は感慨深げな表情で上層階を見上げていた。
「そう言えば、例の機械メーカーのオフィス、ここにあったんだな」
 女性の脇を通り過ぎた二人組のビジネスマンの一人が言った。
 昨年、かつて新井かおりが働いていた会社がハッキングに遭うという事件があった。幸い、すぐに犯人は見つかり逮捕された。ただ、これがきっかけとなり、社内の不正が次々と発覚し、景気の後退も重なり、業績が悪化していった。日本国内はもとより海外にも多数あった支店、営業所の大半が閉鎖され、遂にここにあった東京本社もなくなり創業の地である大阪本社に統合されてしまった。
「栄枯盛衰というが、日本有数の会社もなぁ…。明日は我が身、他人事じゃないね」
「まったく!」
 ビジネスマンたちの会話は女性の耳にも入ってきた。
「そういえば、ハッキングをした奴はおもしろいことを言っていたな」
「うん、ここのパソコンには以前にもデータを盗られた形跡があったとか」「会社側はこれについて何も言わなかったけど、どうだったのだろう?」
「さあな、ま、いろいろあったんだろう」
 彼らの会話が一段落したところで、女性もその場から去っていった。

 静かな住宅街にキャリーバックの車輪の音が響き渡る。引きずるのはショートカットに古めかしいグレイのスーツをまとった中年女性だった。
 数件並んだマンションの一つに入った彼女はエレベータに乗ると②のボタンを押した。2階で降りると216号室と書かれた部屋に向かう。部屋の前に来ると、インターホンも押さずノックもせずにドアを開けて室内に入っていった。
 奥の部屋の前でようやく
「失礼します」
と言いながら扉を開けた。
 正面には大机があり、そこで書き物をしていた中年男が顔を上げた。これといって特徴のない顔立ちだが眼つきに鋭さがあった。
「今回もご苦労だった。立て続けで申し訳ないが、次の任務はこれだ」
 朝鮮語で応えた男は、女性に書類と航空券、中国のパスポートを渡した。「ハワイに飛んでもらいたい。空港で担当の者が出迎えている」
「分かりました。」
 女性も朝鮮語で応え、部屋を出て行った。
 それを確認した後、別の若い男が部屋に入ってきた。
「部長同志、彼女は何者ですか?」
 彼も朝鮮語だった。
「37号室の人間だ。」
「37号室というと……」
「ああ、日本や南朝鮮でいう悦楽組さ。」
 〝悦楽組〟と呼ばれるこの組織は、親愛なる指導者同志の側に仕える女性たちで構成され、文字通り楽しみを提供する役割を担っている。
「だが、日本や南の連中が言うように単なる肉体的な快楽のための組織ではない。演劇や音楽、文芸等、精神的な愉しみのための活動もしているのさ。指導者同志はどちらかというとこれらを楽しみにしてらっしゃる。彼女は、ここの女優だった」
「女優?」
「ああ。金輝星〈キムヒソン〉という名前を聞いたことがあるか?」
「あの名優の」
「そう、彼女が金輝星だ」
 かれこれ、もう十数年前のことである。平壌で「朝鮮の夜明け」という劇が上演されたのだが、そのなかで歌の得意な少女として登場したのが金輝星だった。たった一シーンに登場し、朝鮮民謡の一節を口ずさんだだけなのに、その姿と歌声は人々の心をしっかりと捉えたのだった。その後、彼女を主役とした演劇、映画が何作か創られたが、活動期間は1年にも満たなかった。
 忽然と人々の前から姿を消した彼女について、様々な憶測が飛んだ。重大な過ちを犯したのではないか、親族が不正を行なったか友人が脱北を企てて、それらに連座した等々……。真相は分からなかった。
「彼女は指導者同志に抜擢され37号室入りし、その後、その演技力やその他の能力が認められて、この部署に来たわけさ。」
「……なるほど。」
 伝説の名女優ならば、女子高生からキャリアウーマン、外国人まで演じられるのであろう……。
「もともと地方の農場だかの演劇サークル員だったのを視察中だった指導者同志が見い出し、自ら中央に連れてきたとかいう話だ。金輝星という名前も指導者同志が付けたとか言われている……。」
 部長同志は、ここで言葉を切った。
「彼女、金輝星が本当は何者なのか実は俺もよく知らないのだ。上から伝えられたのは金輝星という名の女優ということだけで、本名はもとより生年月日や出身地、両親の名前、出身校すら知らされていない……。」

「今度の名前は〝江木蓮〟 中国人か……」
 キャリーバックを引き摺る中年女性は、駅前のファストフード店で、部長から渡された書類をめくりながら呟いた。
 これまで、彼女は様々な名前を名乗った。女子高生・朴水香、派遣社員・新井かおり、女優の金輝星……。
 そして、さまざまなところにも行った。平壌、ソウル、沖縄、ブラジル、北海道、上海、モスクワ、ヨーロッパ諸国…。確か中東へも行ったな。
 語学、パソコン、会計、薬学、看護学、家政学、各種料理等から、水商売のノウハウまで、様々な技能技術も身につけた。護身術に銃の扱いも出来る。気が付いたら、何でも出来るスーパーウーマンになっていた。
 だが、これは彼女が望んだことではなかった。すべて〝上〟の意思によるものだった。女子高生となり、日本の高校内に韓国文化サークルを作って民族学校と友好関係を築いたのも、派遣社員となって機械メーカーに入り込み各種データーを持ち出したのも、沖縄でクラブを経営しながら米軍の動向を探ったのも〝上〟からの指示によるものだった。ブラジルでもヨーロッパでもソ連や中国でも〝上〟の命じるままに動いた。これらの行動が正しいのか間違っているのかなどは考えなかった。彼女の思考の中には〝判断〟というものが無かった。
 彼女は既に自分自身を失くしてしまった。それゆえ、今の彼女には自分が何者なのか、などということは興味がなかった。
 ファストフード店を出た木蓮は、電車に乗ろうと駅舎に入った。何気なく壁を眺めると「特定失踪者の方々」と書かれたポスターが目に入った。これまで何度とも無く目にしていたがいつも見過ごしていた。だが、今回は立ち止まって注視した。何とそこには、胸の奥底に埋めた名前があったのである。耳に馴染んだ、この世で一番愛しい名前が、小さな顔写真とともに。
 彼女は呆然と立ちつくした。
 親族が全て亡くなった今、彼女のことを憶えている人間などいるのだろうか。いや、彼女が戻ってくることを願っている人がいるからこそ、こうして彼女の名前が出ているのだ。それは、恐らくこの世にたった二人きりだけど。
――ああ……。でも、この子はもうこの世には存在しない。
 演劇部のエースで女優を目指していた女子高生を、彼女は、自らの手で葬ってしまったのだ。
 母国にはもう彼女の居場所はない。
 ポスターの前で、木蓮は人目も憚らず、ただ、ただ涙を流すばかりだった。












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