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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(3)

第二章(二)
 その翌日、彼は滞在先に五十鈴ちゃんを迎えに行った。特定失踪者問題研究会の細江会長も一緒だった。
 彼が細江会長と知り合ったのは帰国して間もない頃だった。その頃、彼の元には連日メディアを始めとして政治家、運動家等々、様々な人々が“取材”に訪れていた。その大半は興味本位としか思えない内容だったが中には真摯なものもあった。細江はそうした数少ない取材者だった。
 細江は彼に会うとまず、自分は被害者家族と共に北に拉致されたと思われる人々の救出活動に携わっていると自己紹介した。続いて多くの写真や資料を見せながら日本から拉致されたのではないかと思われる事例について説明し、出来れば自分たちの活動に協力しれくれないかと頼むのだった。そして、写真の中に北で会った人物はいないか訊ねた。彼の見覚えのある顔が何人かいたがその時は何も答えなかった。民間人に話していいものかと思ったことと細江が信頼に足る人物か判断できなかったためである。
 細江は面会してくれたことに対し鄭重に礼を言い、労いの言葉を述べた。そして
「かの地にいらっしゃることを知りながら救出出来なくて申し訳ありません」
と謝罪した。
 この言葉を聞いて彼はこの人物は信用できると思い、以後、彼の活動に協力するようになった。それは自身が帰国出来た時にやろうと思っていたことでもあったのである。
 今回の五十鈴ちゃんの件も細江なら善処してくれるだろうと考えて協力を頼んだのである。
 この日の五十鈴ちゃんも特に“若作り”していなかった。それでも実年齢より若く見えるだろう。そんな彼女は今は吹っ切れたようなよい顔つきになっていた。そんな彼女に細江は優しく声を掛けた。
「昨夜、電話であらましの事情は聞きました。長い間、さぞかし辛い思いをされたことでしょう。今後は母国で心安らかに暮らせるようにしましょう」「ありがとうございます。よろしくおねがいします」
 こう言いながら五十鈴ちゃんは頭を下げた。
 タクシーに乗った三人が向かったのは永田町だった。拉致対策室の職員と会うためだ。担当者とそして拉致問題に力を注いでいる国会議員を交えて五十鈴ちゃんの今後について話し合うのである。
 いくらも経たないうちに目的地に着いた。車から降りた3人は対策室のある建物に入りまず荷物検査及びボディチェックを受ける。そして受付で来意を告げ入館証を受け取ると、幾つかある応接室の一つに通された。
 三人はソファーに座った。しばらくすると短いノックの音に続いてドアが開き、中肉中背のスーツ姿の中年男が入ってきた。空いている席に座ると自己紹介をした。
「警視庁公安課の……。」
「公安って、私が面会を求めたのは対策室の方ですよ!」
 予想外の展開に驚いた細江会長は叫びながら思わず立ち上がった。
「まあ、お掛けください。私は、その対策室から言われて来たのですよ。」
 公安課員は落ち着いた口調で応じた。
 会長を座らせた後、公安課員は、五十鈴ちゃんに向かって訊問調で話しかけた。
「あんたが工作員・金輝星か?」
「何て言い方するんだ。この人は拉致被害者だぞ」
 会長は声を荒たげた。今度は立ち上がらなかったが。
「この女が拉致被害者という確証はない。だが、北の工作員であるという情報は多々ある。」
 会長はまた何かを言おうとしたが、その前に五十鈴ちゃんが口を開いた。「はい。工作員として工作活動の補助をしてきました」
 そして、これまで彼女がしてきたことを全て話した。
「……罪は償うつもりです」
 彼女が話終えると、初めて彼が言葉を発した。
「これまでのことは彼女の意志とは無関係に行ったことです。あの体制の中で生きていくためには他の選択肢はないのです。彼女は拉致被害者の一人です。どうか寛大な措置を」
「日本政府は彼女を始めとする拉致被害者を救うためにこれまで何をしましたか。彼女が罪を犯したとしても、その責任の半分は彼女たちを放置した日本政府にもあるでしょう」
 会長も五十鈴ちゃんを弁護した。
 公安課員は二人の意見など無視して、五十鈴ちゃんに話しかけた。
「罪を償う気があるのなら、これまでの経験を生かして今度は祖国・日本のために働いてみないか?」
 言葉が終わるや否や会長は、怒りを含んだ声で言った。
「まさか彼女に二重スパイをやれというのではないだろうな」
 公安課員は今度も会長を無視して五十鈴ちゃんに問いかけた。この男の眼中には細江も彼も存在していないようだ。
「ただ、あんたに命じられた任務の内容をそのまま、こちらに教えてくれればいいんだよ」
 五十鈴ちゃんは動揺していたようだった。改めて考えて見ればこれまで彼女のしてきたことは、恐ろしいことだったのである。贖罪の気持ちでいっぱいになったのは当然だろう。
「分かりました。後ほど具体的な指示をお願いします」
 彼女はきっぱりとした口調で応えた。一瞬、あの何ともいえない寂しげな表情が浮かんだ。
「五十鈴ちゃん!」
 彼は絶望的な気持ちになった。目の前にいるたった一人の仲間も救えなかったのだ。
 その時、部屋の外から男女の怒鳴り声が聴こえて来た。
「何で会わせないんだ。彼らはもともと私を訪ねて来たんだぞ」
「娘に会わせろ!」
「まぁ落ち着いて」
 この部屋に用事のある人々のようだ。警護員との押し問答が続く中、ドアが開いて三名の男女がなだれ込んできた。
「竹山議員!」
「先生、はるこさん!」
 室内の三人は同時に叫び立ち上がった。
 三人の中で一番年の若い男が公安課員に近付き、
「何であんたがここにいるんだ」
と掴みかかるように一喝した。竹山議員だった。普段の優男ぶりからは想像できない光景である。議員になる前から拉致問題に熱心に取り組んできた彼は、拉致問題解決議員会のメンバーであり、元拉致担当大臣・外川サトミ女史の盟友の一人である。昨日、細江会長が連絡を取った国会議員はこの人物だった。
 竹山議員と入れ替わるようにドアのもとに走ったのは五十鈴ちゃんだった。そこには初老の夫婦が立っていた。劇団を主宰する有名な演出家・蒜田とその妻で大物女優の蒜田はるこだった。
「せいか!」
「せいちゃん」
 二人は五十鈴ちゃんを抱きしめた。
 五十鈴ちゃんこと輝田星香(きだせいか)は蒜田夫妻の娘だった。ただし実子ではない。
 ある事件によって家族全員を殺害された彼女を引き取り、養女にしたのである。二人は高校生の時、突然、行方不明になった娘をずっと探し続けていた。そして北による拉致の可能性が疑われるようになると関係団体等を訪ねて救出を要請したのだった。
 細江会長から連絡を受けた後、竹山議員はちょうど都内にいた蒜田夫妻と連絡を取り、この場に駆けつけたのである。
「星ちゃん、生きていたんだね」
「これからは、一緒に暮らしましょう。」
 夫婦は娘を連れて帰るつもりなのである。
「先生、はるこさん、私はもう一緒には生活出来ないのです……」
「そんなことはないだろう? 私たちは家族なのだから一緒に暮らすことに何の支障があるだろう」
 夫婦はこの時が来るのをずっと待っていたのだ、何十年も…。
 その時、公安課員が割って入ってきた。
「涙の再会はこれくらいでいいだろう」
「おい、話はまだ済んでいないぞ」
 背後から竹山議員が怒鳴る。
「取り敢えずこの子は連れて行く。私たちの娘なのだから」
 監督は強い調子で言い放ち、はるこ夫人は星香の肩を抱いている。三人は出入口に向かうが公安課員が邪魔をする。そこに竹山議員が入り、
「数十年ぶりに再会したんだ、まずは家族水入らずにしたところで別に問題はないだろう」
と三人を外に出そうとする。それに細江と彼が加わって事態は収拾が付かなくなった。
 結局、その日は五十鈴ちゃんが公安の元へ身を寄せることになって一段落した。
「輝田さん、私たちはあなたがこれから日本で平穏に暮らせるようにします。ですから、どうか諦めことなく、そして自暴自棄にならず御自愛ください」
 こう言いながら竹山議員は五十鈴ちゃん、いや星香さんの手を握った
「…私たちはあなたを二度も見捨てることは致しません」
 翌日、蒜田夫妻のもとにも竹山議員のところにも、そして細江会長にも五十鈴ちゃんこと輝田星香から連絡はなかった。彼と細江会長、竹山議員、蒜田夫妻は警視庁に出向いたが、そのようなことは知らないとすっとぼけられるだけだった。輝田星香の行方は再び分からなくなってしまったのである。
 その後、竹山議員を始めとする関係者たちの努力にも関わらず彼女の消息は一向につかめなかった。
「やっと一緒に暮らせるようになったというのに…」
 蒜田夫妻はがっくりと肩を落とした。
 竹山議員は細江会長の事務所に行き、今回の当局のやり方に対し一頻り怒りの言葉を吐き続けた。その場にちょうど彼も居合わせ、一言、一言に頷くのだった。
 ところで、彼が五十鈴ちゃんの本名を知った時、あることを考えた。
 五十鈴ちゃんは“金輝星”という名は親愛なる指導者同志がつけたと言っていた。スター女優に相応しい名前だが、本名を彷彿させる名前でもある。このような名前を付けた日本人を北は工作員として敢えて日本に潜入させた。これは日本国に対する挑戦ではなかったのか。北当局は工作活動と共に日本の諜報活動のレベルも調べていたのかも知れない…。  
 五十鈴ちゃんが“投降”した現在、彼女の存在は北にとっても日本にとっても邪魔に違いない。
 考えがここに到った時、彼は五十鈴ちゃんが危ないと感じた。
 数日後、彼は新聞の三面記事を見てゾッとした。
『海岸に女性の死体』の見出しに続いて、“身元は特定失踪者とされていた輝田星香さんと判明”と書かれていた。
 竹山議員の言葉とは異なり、日本政府は彼女を二度見捨てたのだった。
 国にとって一介の庶民の生命など塵と同じ存在なのだろうか。体制とはかかわりなく、国家というものはそういうものなのか。
 他国に入り込んで少女を誘拐して工作員にする国もあれば、国民が攫われても救出どころか、放り出してしまう国も存在する。どちらも人間を軽んじている点では変わりがないではないか!
 何とも割り切れないことだが、彼にはどうすることも出来ない。自身の無力さを改めて痛感するのだった。



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