近代日本の女性労働者を書いた英国人学者Professor Janet Elizabeth Hunter――その人生に迫る


[執筆]
吉川英輝(よしかわ・ひでき):京都大学大学院経済学研究科修士課程1年
Janet Elizabeth Hunter(ジャネット・ハンター):Saji Professor of Economic History, London School of Economics and Political Science
[翻訳協力]
Steven Ivings(スティーブン・アイビンス):京都大学大学院経済学研究科准教授

■はじめに

2021年2月1日、Economic History Reading SocietyはLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)からジャネット・ハンター先生を招待し、インタビューを行いました。

弊団体(Economic History Reading Society)は、昨年末、経済史に関心を持つ学生によって設立されました。そして、最初に輪読した書籍がジャネット・ハンター先生のWomen and the Labour Market in Japan’s Industrialising Economy: The Textile Industry before the Pacific War (Routledge, 2003)(邦題:『日本の工業化と女性労働――戦前期の繊維産業』有斐閣、2008年)でした。輪読終了時に先生にインタビューすることで、作品への理解や先生への理解が深まると考え、企画をしました。以下の文章は英語で行われたインタビューを日本語に翻訳した記録です。本記録は一部修正、加筆を含みます。

ジャネット・ハンター教授(Saji Professor Janet Elizabeth Hunter)は、LSE Department of Economic Historyに所属し、近代日本経済史を主な研究対象とされています。シェフィールド大学で学部生時代を過ごし、オックスフォード大学の修士課程・博士課程を修了され、1976年に博士号を取得されました。

1 日本に興味を持ったきっかけ

――先生のキャリア、人生について聞かせてください。

その質問の意図は、なぜ、私が日本に興味を持ったのか、ということだと思います。白状しなければなりませんが、それは全くの偶然だったのです。学生時代、私は外国語を学ぶのが好きでした。だから、大学へ行っても外国語を勉強しようと意気込んでいました。といっても、ヨーロッパの言語ではなく、その他の言語に興味がありました。また、その当時、中国にも興味がありました。それで、中国語を勉強できるコースを探していたのです。しかし、困ったことに、それがちょうど文化大革命が起こったときだったのです。だから、イギリス人の私が中国に足を踏み入れるというのは不可能なことでした。

偶然にも、その時、シェフィールド大学で、日本語の勉強と社会科学を組み合わせた新しいコースが開講されると知りました。ちなみに、イギリスにおける伝統的な日本語の研究とは、私にとってはあまり興味のない、日本文学における日本語でした。私がやりたかったのは、「人と話す」語学だったので、そのコースに応募し、無事、シェフィールド大学で日本語と経済学を勉強することになりました。

でも、経済学は嫌いでした。とても退屈でした。一方、その学部には、経済史の非常に高名な先生(シドニー・ポラード先生)がいらっしゃいました。ポラード先生はイギリスでの経済史学界をリードする素晴らしい先生で、最高の講義をしてくれました。ポラード先生はメモ書きを一切持たずに、授業をされるのです。もちろんパワーポイントなどない時代ですが、1時間もメモ無しで話されていたのです。しかも、参考文献のリストも持たずに。抜群の記憶力でした。ポラード先生に圧倒され、私は経済史に専攻を変えました。

また、興味深いことですが、当時の、私の両親の世代では、戦時の記憶がまだ残っていました。日本と戦った記憶です。だから、日本を勉強している人はほとんどいませんでした。また、日本というのはセンシティブな話題でした。両親にこういった人もいました、「よくも、こんなこと(注:日本研究をすること)を娘にさせていられるな」とね。両親はいつも私の立場にたってくれましたが、今から考えてみると、両親にとっても、私を支持することは難しいことだったのでしょう。

それが私の日本探究の始まりだったのですが、どうなることか分かりませんでした。私は日本に行ったことはないし、日本のこともよく知りませんでした。ただ、楽しいだろうなと気楽に考えていました。そして、その決断を後悔したことは、一度たりともありませんでした。これまで、チャレンジングで馴染みのない研究対象でしたが、ずっと楽しく研究をしてきました。

学生の時は、4人しか日本語を学ぶ同級生がいませんでした。とても小さいグループで、珍しい存在でした。だから、みんなから変わった人だと思われました。誰かに「何を勉強しているの?」と聞かれたときは、「日本の研究」ではなく「歴史」とよく答えていました。だって、その質問は耐えられないものですから。

オックスフォード大学を修了した時は、自分は学問界に残るか決めていませんでした。でも、他の仕事を見つけるのも、とても難しかったのです。というのも、私は日本語の能力を活かせる仕事がしたかったのです。大抵はロンドンにある日本企業を探してみましたが、どの会社も「タイピングとかお茶を入れる仕事ならあるよ」と言うのです。それでは、私のスキルを活かせる職だとは思えませんでした。結局、大学で仕事がみつかったので、アカデミアに残ることにしました。

学者になるという決断には後悔していませんが、当時は、将来どうするかなど全く決めていませんでした。きちんと将来を考える人もいますが、私はそのような人ではありませんでした。私はその時に起こったことに対処するばかりで、それで満足するのです。

――歴史ではなく、経済史を専攻したのはなぜですか? それはポラード先生の影響だけですか?

それは、個人的な興味と現実的な問題によるものでした。当時のシェフィールド大学には歴史を専門とする学部が2つ存在していました。歴史学部と経済史学部です。当時の大学は経済史学部を構えているところが多かったのです。1年生の時、私は経済史を専門にしていました。ちなみに、そこでポラード先生のことを知ったのですが。もし、私が歴史学部に転専攻したいというなら、ある問題がありました。歴史学部での授業は、より政治史、外交史の要素が多かったのです。そして、歴史学部へ行くには、高校で歴史をもっと勉強しておく必要があると言われました。私はそのような勉強をしてこなかったので、歴史学部に行きたくても学部は受け入れてくれなかったでしょう。

また、学問の中身も理由の1つでした。当時のイギリスでの経済史研究は世界的に注目されていました。とても優秀な先生が数多くいらっしゃいましたし、新しい研究が活発に行われていました。アメリカで始まった新経済史、つまり、計量経済史の影響はイギリスには届いていませんでした。だから、当時の経済史の高名な先生は、もちろん、統計学は使っていましたが、計量経済学は用いていませんでした。そのため、経済史を勉強する学生に数学的能力は求めず、とてもハードルが低かったのですね。例えば、人々がどのように暮らしていたかが議論されていたのです。もちろん、マクロ経済なども研究されていましたが、その後に影響力を持ち始めるような理論志向の研究ではありませんでした。

ですので、経済史専攻は現実的な選択でした。歴史学でないなら、経済史学か経済学を選ぶかでしたので。そして、私は経済学の授業が楽しくありませんでした。その一方で、私は経済史の内容に惹かれていました。当時は、今では「古い」経済史と呼ばれるテーマが主流でした。でも、産業革命について講義があった時には、蒸気機関の実物調査などで先生が培った産業考古学の経験が溢れ出て、それがとても活き活きとしていました。そのようなカリスマ的な先生に出会えたのは幸運でしたね。それが決め手だったと思います。

2 ジェンダーへの関心

――拝読したご著書はジェンダーも取り扱っていました。今ではジェンダーは大きなトピックになっていますが、社会的関心が小さかった当時に、なぜジェンダーを取り上げられたのですか?

2つの理由があると思います。もっとも、初期の作品ではジェンダーをテーマにはしていませんでした。しかし、私が大学生の頃、「女性解放」といった意味でのジェンダーに対する社会的関心が芽生えてきていました。活動家ではなくても、伝統的なジェンダー・ステレオタイプが疑問視される状況に、関心を寄せざるを得ない状況だったのです。親の世代では見られなかったジェンダーへの意識が高まっていた世代でした。

しかし、私がジェンダーを研究対象として意識するようになったきっかけは、実は、日本での経験です。私は博士課程で1年間、日本に滞在しました。1970年代の日本というのは、女性の役割という観点では、もちろん、今とは大きく異なりました。私に協力的で素晴らしい方々や教授は多かったのですが、「博士課程は女性がやるべきことではない」と明確な立場を取る方々もいました。親しかった博士課程の女性がいるのですが、協力的でない指導教員のせいで、彼女たちは日本で研究をすることに苦労していました。指導教員は優秀な先生方でしたが、ただ、女性への研究指導をしようとしなかったのです。

私は小銭を稼ごうと、英会話のお仕事をしていたことがありまして、公務員の方のお相手をしていました。その方はとても感じが良く好印象でしたが、一方で、ジェンダーに関しては非常に保守的でした。そこで、私は聞いたのです、「なぜ、保守的なジェンダー観をお持ちなのに、私には親切で協力的なのですか」と。その方はこう答えました。「海外の女性は別です。日本人女性は、女性としての与えられた役割や場所がありますが、外国人女性は全く別の存在と多少感じるのです。」

人によって多種多様な考え方があることがとても興味深かったです。私は、例えば仕事やキャリア、その他の活動における日本人女性の限界を思い知らされました。それは、裏を返せば、日本人男性の限界でもあるのですが。様々な方に出会えたことは幸運でしたが、それ以上に、日本でのジェンダーに関心を寄せることになりました。そのことが、博士課程の修了後、日本人女性の史的分析をすることにつながったのです。繊維産業での日本人女性労働者に関する研究は数多く存在し、二次文献が既にあることを知っていました。一次文献へのアクセスに関しては、言語面で、日本人研究者に勝ることはできませんが、二次文献を読み、解釈し、自分の思い描くように使っていくことはできました。

ジェンダーに研究関心を持ったのは、日本に行き、日本のアカデミアを肌で感じ、日本で生活したことで、価値観の多様性に気づいたことがきっかけだと言えます。

――日本の女性労働市場の研究を「英語」で出版されましたが、対象とする読者はどのような人なのでしょうか。どのように読者層の狙いを定め、どのように研究対象を絞ったのでしょうか。

とてもいい質問です。確かに、日本のことに対する社会的関心はそれほど大きくなかったことは事実です。しかし、関心が高まる時もあれば、下火になる時もあります。例えば、バブル時代の1980年代は日本経済が好調でしたので、イギリスなど諸外国からの日本に対する関心は高かったのです。

すると良いのは、読者の知識に研究を合わせていくことです。例えば、あなたが日本人の読者に向けて書くなら、当てにできる「知識基盤」というものがあります。なぜなら、あなたは、読者があれこれについて知識があると知っているからです。学術界の研究者を読者にするなら、日本の歴史について理解があると仮定することができます。しかし、英語話者を読者として書くなら、「知識基盤」はかなり異なったものになります。ですので、日本人読者には説明しなくてよいことを英語話者には説明する必要があります。

そして、可能な限り、研究を読者の関心に結びつけようとする必要があるのです。それをするための1つの方法は、これはLSEでいつも意識付けされていることですが、どの経済圏、地域、時代を研究するにしても、概念に関する共通言語を使うことです。なぜなら、例えば、経済史学者に限って言えば、我々は対話をする必要があるからです。我々全員にある関心と言えば、過去において経済がどのように成長し、変化し、または成長しなかったか、そして人々がどのように日常を過ごしていたかということです。必要なのは、研究を読者に関係する、より大きな概念に結びつけることです。例えば、日本の労働市場の歴史についての本を書こうとするなら、ジェンダーに結びつけられるでしょう。ジェンダー論、英米のジェンダーの史的研究などに結びつけることで、それらの分野とのつながりが見えてきます。これは簡単なことではなく、大抵の場合失敗するのですが。

大切なのは読者が何に興味を持っているか、そして自分がそれに対してどう感じるかです。そのことは、海外に住む私たちが日本人読者に向けて書くのが難しい理由の1つです。外国人には違う関心があり、違う知識基盤があるからです。前述の通り、私には十分な能力がないため、一次文献へのアクセスにおいては、日本人研究者と競争することはできません。だから、私は異なる角度から何か違うものを作り出さなければならないのです。「日本人研究者はどんなことをしないだろうか」と考えるのです。

3 経済史研究の意義

――経済史研究はどのように現代社会に貢献できますか。

それは本当に難しい質問ですね。というのも、全員が異なる回答を持っていると思うからです。

私が経済史研究の役立て方として間違っていると思うのは、それを未来への指針と無批判に考えることです。未来は非常に不確実なのですから、歴史をもとに未来を予想することはできません。

しかしながら、歴史から学べるというのは事実だと思います。過ちについて学んだり、何が重要で、何が重要でないかを学んだりできます。何が重要かを学ぶことで、もしあなたが政策立案者や、将来を予測するのが仕事であるなら、何が重要になりそうかを考えることができます。だから、歴史から学べることはありますが、自信を持って将来に起こることを予想することはできません。歴史は変化の過程であり、万物はすぐに変化するのです。

興味深いことに、経済学者のなかには昔のデータを使う人がいます。経済理論を証明したり、反証したりするために使うのです。しかし、そんなことをしていては歴史家とは言えません。歴史学者であるからには、過去に起こったことに興味を持たなければいけません。誰しもがストーリー(注:story – hi・story[歴史]を意識)に関心を示すし、それを紡ぐことが我々歴史家の仕事です。日本の事例が気になるかもしれませんが、イギリスでは経済史を含めポピュラーな歴史に対する関心は過去最高レベルだと思います。誰しもが、何らかの形で、歴史に興味を持っています。そのような次元においては、歴史を知るという行為は、単純な興味からだけではなくて、過去を理解することが自分たちの生き方に洞察を与えると感じているからでもあります。例えば、人類が今まで手に入れてきたものの価値を認めることが挙げられます。15世紀の生活水準を知ると、人々は当時ではなく現代に生きていることにおそらく喜ぶでしょう。医療の歴史を見てみれば、500年前ではなく今を生きていることに皆が歓喜するでしょう。

興味に応えること、そして人々の生き方に些細ながら洞察を与えられることが現代社会への役割だと思います。

――もう少し詳しくお聞かせください。先生の著書(Women and the Labour Market in Japan’s Industrialising Economy: The Textile Industry before the Pacific War)は現代の日本にどのような価値があるのでしょうか。

それも非常に答えるのが難しいですね。自分の本がいかに素晴らしいかを語らなければならないので。

それはジェンダーに関する研究でもありました。日本語に翻訳されて嬉しかった理由の1つには、より多くの人々に、ジェンダーに焦点を当てた研究を届けることができたからです。ご存知のように、日本でのジェンダー問題は直近の20年間でだいぶ変わってきましたが、未だに国際的なジェンダー指数でのランキングではかなり低いままです。そのため、研究の目的の1つはジェンダー問題の重要性を強調することでした。より多くの人々がその問題に触れることは良いことなのです。

一方で、繊維産業がとても興味深いと感じるのは、その産業自体が重要であると思うからであり、実際に、重要だと認識されてきました。特に、マルクス経済学系の歴史家の多くは、繊維産業の重要性を常に強調してきました。しかし、その方々が強調したのはジェンダーに関することではなく、階級や労働の性質などに関することでした。だから、その労働力について、別の解釈を打ち出そうとしたのです。

そして、私が研究中に気づいたことの1つは、その目的を成し遂げるためには、日本で、経済史、経営史、ジェンダー史、女性史などの研究者に自分の考えを伝える必要があるということでした。ほとんどの場合、それらの研究者は対話しようとはしません。経済史家は女性史の研究者とは話し合いません。ガラパゴス化してしまっているのです。経済史家は経営史家とはたまに話すのですけどね。だから、私はばらばらの学問体系をつなぎ合わせ、女性労働者をそれぞれの学問分野での文脈で解釈してみようとしました。

本が日本語に翻訳されて一番嬉しかったことは、日本で最も著名な経済史の研究者の1人が、「この本は日本人には書けない作品だ」とおっしゃってくださったことです。丁寧におっしゃってくれたというのもあるのですが、私は「自分は何か正しいことを成し遂げたに違いない」と思いました。

人々がジェンダーについて考える糸口にできたことが、日本に貢献できたと思える唯一のことであり、彼の言葉は極めて嬉しかったです。

4 自分のやりたいことを大切にしつつ、読者の関心も知る

――ご著書は歴史学と経済史学との素晴らしい組み合わせだと思います。しかし、異なる学問分野では異なる関心を持っているので、両方の研究者に思いを伝えるには共通の土台やメッセージが必要だと思います。ご著書はその点で成功されているのですが、私もそのような研究がしたいです。どのようにしたらそれができるのでしょうか。アドバイスをください。

難しい質問です。どのように答えればいいでしょうか。

時には試行錯誤も必要です。ある時はうまくいかず、また違う時はうまくいくものです。その意味では、ゆっくりとしたプロセスです。言ってしまいますが、私はあの本を書くのにかなり時間がかかりました。他のことを同時にしていたというのもありますが、日本語文献など、あらゆるものを途方もなく読まなければいけないと思っていたのもあります。そうしないと、日本人研究者がやってきて「あれこれを読んでいないじゃないか!」と言われるのが怖かったからです。そのご指摘も正しいのかもしれませんしね。私はびくびくしてしまいました。つまり、すぐにできるものではなくて、長いプロセスなのです。

しかし、大切なことは、少なくとも、自分が何をしたいのかをかなり明確に表現しようとすることから始めることです。自分のやりたいことは変わるでしょう。だけど、どこかに取っ掛かりを持たないといけません。もっと知りたいと思える疑問やアイデアを持つ必要があります。これは博士号をとる際にやることで、どこからか始めなければいけません。自分のやりたいことをやってみてください。それは自分のやりたいことである必要があり、他の人がやりたいことではありません。誰かが「自分ならそんな研究はしない」と言っても、あまり気負わないようにしましょう。自分は自分です。

結局は試行錯誤をしていくしかありません。前述の通り、私はキャリアが約束されていたわけではありません。もし、前途が開けるならそれは素晴らしいことです。でも、もしそうでなくても、それはそれでいい。その道のりを楽しんでみてください。

(学生のコメント:とても勉強になります。私は、読者が自分に何を求めるかばかり考えていました。)

もちろん、読者のことも考えなくてはなりません。今、私はジャーナルの編集員で、もしジャーナルの読者の関心に論文が合わない場合は、どんなに優れた研究者のものでも、掲載を拒否する必要があります。だから、読者のことも考慮しなければいけません。もし、あなたが日本史を専門にし、英語話者に向けて書こうというなら、読者は英語文献ならわかるけれど、日本語文献は知らないかもしれないということを頭に入れておかなければなりません。また、もし、欧州経済史を研究しているなら、現地での研究者に向けてあなたの貢献を示すために、日本人研究者ではなく、欧州人研究者なら知っている膨大な量の文献を読む必要があります。

(スティーブン・アイビンス先生のコメント:読者の関心を知るには、学会へ行ったり、研究を発表したりするのが良いでしょう。自分の作品を読んでもらって、フィードバックをしてもらう。そういった交流が大切です。)

また、教える側でも学べることはあります。学部生に授業をしていると、あまりにも明白で考えてこなかったことを質問されます。そういった質問は、何が大事なことなのかについて本当に考えさせられます。あらゆることが役に立つと言えます。

5 前島密の研究から、日本のジェンダーの史的研究へ

――先生は、最初は前島密(注:日本の近代郵便制度の創設者)の研究をされていましたが、いつからジェンダーの研究を始めたのですか?

ご指摘の通り、博士論文では全くジェンダーの要素はありませんでした。明治時代の偉大な男性のストーリーを書きました。当時は、皆、流行の研究分野をやっていた時代でした。つまり、全員が明治時代の偉大な人々(男性)を研究していた時代だったのです。

私が前島密に研究対象を絞った理由の話をしますが、もともと私は違うことをしようとしていて、それから何が実際にできるかを見つけることになりました。オックスフォード大学で、政治学分野の日本人特任教授とお話をしたとき、その方が「明治時代の人々の研究は山ほどあるが、皆、トップの指導者層しか見ない。1つ下の位の人々を見ないのだ。そのような人々のほとんどは、コリア進駐といった政治の駆け引きではなく、制度を作り、施行していった人々だったのだ。」と教えてくれました。「君には前島密を研究する気はないか。やるべきだ。」とおっしゃるので、私は「それは誰ですか。」と返したのです。私は幸運でした。というのも、郵便事業が100周年を迎えたばかりだったのです。また、郵政省の方々も素晴らしく、とても協力的で、データや資料を集めてくださり、私に閲覧させてくださいました。しかし、研究にはジェンダーの要素は一切含まれませんでした。

前述の通り、ジェンダーの研究をしようと思い始めたのは、日本で滞在し、日本を肌で感じたことがきっかけでした。その後、資料を集め、研究を始めました。私がジェンダーに関するあの本を書くのに、およそ20年をかけたに違いありません。だから、きっかけはジェンダーへの意識が高まりつつあった時代に生きたことと、日本でジェンダー問題に触れたことでした。ジェンダーに関する研究をしようと思い、私は当該分野の英語文献を読みました。英語での研究は日本でのジェンダー研究より数多くなされており、それらを読み、自分の日本研究をジェンダー研究の枠組みに埋め込もうとしたのです。

――女性の「手先の器用さ」が女性労働におけるキーワードでした。「手先の器用さ」はジェンダー論で一般的な概念となっているのですか。それは日本だけの概念なのでしょうか。イギリスではどうなのでしょうか。

日本だけではありません。この概念はイギリスでは“nimble fingers”と呼ばれます。19世紀のイギリスでは、「手先の器用さ」が女性労働者の利点であるという経営者の主張が確認されています。「手先の器用さ」は歴史学で注目され、男女分業に「手先の器用さ」がどれほど重要であったかを分析しようとする研究があります。つまり、「手先の器用さ」が本当に重要だったのか、それとも、例えば賃金を安く抑えるための単なる言い訳だったのか、ということです。言い訳なのか本当のことなのかを見分けることはとても難しいと思います。

日本でも同じで、「女性を多く雇うのは手先が器用だからだ」という経営者は多く存在してきたでしょう。繊維産業のようなところは、機械化が進むまでは、労働者のスキルに多くを依存していました。手先が器用なら、質の良い労働者だったのです。だから、そのようなケースにおいては、「手先の器用さ」は現実を反映していました。若い女性を雇いたかった理由の1つは、若い女性の方が滑らかな指を持っていたからです。絹糸を巻き取る作業をする際には、指が滑らかであると効率が良かったのです。もちろん、仕事を続けると指が滑らかではなくなってしまうのですが。本当に「手先の器用さ」がそこにあったうえでの言説だったのです。

しかし、男女分業の正当化のために「手先の器用さ」が言い訳に組み込まれていくこともありました。それは、「鉄鋼業に男性労働者が多いのは、彼らの方がタフだからだ」というのと同じことです。確かに、産業革命の初期段階では肉体的に強靱であることが求められ、男性は女性より平均的に身体が強靱ですから、正当な道理ではあります。しかし、後にそれが言い訳と一体化していったのです。私が思うに、現実的な重要性か、うわべだけの重要性かという議論は、日本だけでなくどこにでもあるのでしょう。

(学生のコメント:「手先の器用さ」は古くから言われてきたことなのですか。)

どれほど古い概念かは分かりません。とても古い概念なのかもしれません。というのも、中世に戻ればどの地域でも、働く必要のある女性は、手が小さいので繊細なものをつくっていたということを確認できるでしょう。しかし、「手先の器用さ」がうわべの言説に埋め込まれていったのは産業化、機械化の流れのなかでの出来事だったと思います。

――ご著書のなかで繰り返し紹介された「女性は家庭的であるべき」という考えはいつ誕生した通念なのでしょうか。

それは近代的な考えだと思います。遙か昔から、ほとんどの社会で、女性は、子育てや家事などの家庭的役割をより多く担う傾向がありました。しかし、近代以前の社会では、「家」は社会的単位だけではなく、経済活動の単位でもありました。そのため、何を「家庭的な仕事」とし、何を「経済的な仕事」とするかの境界線をひくのはとても難しいのです。例えば、前近代の日本の農家では、母親は農作業も子育てもしていました。祖母は子育てを助けたりしていましたので、そういった家庭内での分業はあったのです。でも、仕事(work)と仕事ではないこと(non-work, 注:家事など)の区別は厳格ではありませんでした。そういった考えは多くの社会で19世紀に産業革命と共に登場してくるのです。産業革命によって、仕事が家の外へ追い出されたというのが理由の1つです。日本の繊維産業では、若くて未婚の女性が数年間出稼ぎに行っていました。そのことが労働の分化を強制したのです。

また、「女性は家庭内での役割を担うべき」という考えは、根本的に、所得向上がないと出てこないと思います。もし、夫の所得があるレベルにまで上昇すれば、女性が働かなくても良いという状況が生まれます。女性は家のことだけを行い、稼がないということです。戦前の日本では、平均的に見て、そんなに所得が上昇しませんでした。そのため、「女性は家の中にとどまるべき」という考えは19世紀後半に北西ヨーロッパと合衆国で経済的に豊かな家庭を中心に広まり、その後、日本に浸透してくることになりました。特に戦間期に、日本の中間層が台頭してきたことが背景です。でも、そう考えていた人々は比較的少なく、都市部に集中していました。所得が向上しないことには、女性だけが家のことをし、夫が稼いでくるという家庭内分業は不可能なのです。それが日本で広く可能になるのは1950年代からです。その時代においては、女性の多くが家庭内での役割を喜んで担おうとしました。なぜなら、前の世代がとても苦しい人生を送ってきたのを見ていたからです。だからこそ、「女性は家庭内での役割を担うべき」という言説は、日本では20世紀後半に広く流布することになりました。そして、今はその言説が崩壊しつつあります。その変化の遅さに不満足な人もいるでしょうが、確かに消えつつあるのです。

――政府の役割について質問します。日本の繊維産業が発展した背景には、女性の労働環境が劣悪であったこともあると思います。一般的に、政府は、労働慣行の改善を優先すべきか、経済成長を優先すべきか、どちらだと思いますか。

あなたの分析は正しいと思います。第一次世界大戦前の日本経済は発展途上でした。豊かな経済ではありませんでした。他の発展途上国と同様に、経済成長率を向上させ、先進国に追いつき、国民の生活水準を向上させなければいけないという強いプレッシャーがありました。労働者の安全、健康、福祉といったことは「贅沢」と考えられていました。高い賃金を払ったりすると競争力を失ってしまい、先進国に追いつけないので、そんなことにお金をまわす余裕はない、ということです。そのことはどの発展途上国にも共通する問題だと思います。第二次世界大戦前までの日本は確実にそうでした。1929年の女性夜間労働禁止令のように、若すぎる女性を労働市場から守ろうとする健康安全面での法案が作られ始めた一方で、キャッチアップしなければいけないというプレッシャーがビジネス界でも政界でも大きかったのです。それは高くつくので、国家を支えるためには自分たちを犠牲にしなければいけませんでした。当時の日本のように、発展途上国にはこの問題があると思います。今の日本は豊かな国ですので、貧しかったのがほんの少し前のことだったと想像するのは難しいことで、この事実は忘れられてしまいがちです。

当時、政界でのエリートとビジネス界でのエリートは、女性に対して同じ態度をみせていました。繊維産業の女性労働者の大多数は若くて未婚の女性で、限られた年数だけ働くという前提で、エリートたちは行動していました。女性労働者は使い捨てに近いと思っていたようです。労働条件があまり良くなくても、ほとんどの労働者は長くは苦しまないという感覚があったと思います。

労働者の保護政策が最小限に抑えられたのは、男性ばかりのビジネスエリートや政治エリートの間に蔓延していた社会的態度と経済成長のプレッシャーが合わさったものであったと思います。確かに、時が経るにつれて労働環境は改善していきました。1920年代、産業全体で合理化を進めるなかで、特に紡績産業では熟練労働者が重要であったことから、非合理的とみなされた高い離職率を抑えようと、ビジネスエリートが労働環境を見直しました。一方、どのような産業でも、戦前、戦後初期の「政府」が労働者の健康安全面の改善に果たした役割は限られたものであったと言えるでしょう。

6 経済史の魅力

――経済史の学者を目指す若い学生にアドバイスをください。

大切なのは、自分の興味のあることをすることだと思います。皆、違う関心を持っていますしね。しかし、学問分野の制約を感じるかもしれません。日本では少ないかもしれませんが、私たち教員は、経済学者になるべきだと思う経済史専攻の生徒を沢山抱えています。その学生たちは経済学者のような思考回路を持っています。そのことは、時には、良いことです。でも、それだけが経済史の研究方法ではありません。

私が思うに、経済史の素晴らしいところは、経済史という学問体系がないことだと思います。学際的なのです。わからないことを探究するために、経済学の理論を使ってみたり、社会学の理論を持ってきたりと何でもできます。経済史の楽しいところは、実は、勉強したいことを何でも勉強できるということです。経済史の根底にあるのは「個人、または集団がどうやって生き延びるか、生き延びてきたか」という質問に答えることです。ほとんどの人にとって、それは最も重要な命題です。ハイ・ポリティックス(注:軍事や、狭義の外交)などは二次的な問題で、最重要ではありません。そのことが経済史の素晴らしいところで、学位のためでも何のためでも、自分の直感に従って、3~4年間は夢中になれることをできるということです。

ですから、経済史の学者になりたいなら、わくわくすることを見つけてください。わくわくすることを見つけられないなら、わくわくする違うことをすべきです。だって、とても退屈なことに行き詰まっている研究者はいっぱいいますから。分野が広く、人類の生き方という根源的な問題に携われるので、経済史を研究するのはとても贅沢なことだと思います。

[2021年2月1日インタビュー]


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