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CREPEによるプロジェクト設立の背景とねらい:行政データと実証経済学①

経済セミナー編集部noteでは、『経済セミナー』2022年6・7月号から23年10・11月号まで8回にわたって連載した「行政データと実証経済学:東京大学CREPE自治体税務データ活用プロジェクトの実践」を、第1回から改めて掲載していきます。

第1回から第8回までの各回は、以下の noteマガジン に順次公開していきますので、ぜひご覧ください。

このnoteでは、2022年6・7月号に掲載された連載 第 1 回 をお送りします。



著者紹介

川口大司かわぐちだいじ
東京大学公共政策大学院教授/大学院経済学研究科教授

プロフィール
2002年、ミシガン州立大学Ph.D.(経済学)取得。2017年10月より東京大学政策評価研究教育センター(CREPE)副センター長、2019年4月から2022年3月まで同センター長を兼任。主著:『労働経済学』有斐閣、2017年。『日本の労働市場』(編者)、有斐閣、2017年。『計量経済学』(西山慶彦・新谷元嗣・奥井亮と共著)有斐閣、2019年。

正木祐輔まさきゆうすけ
神戸市デジタル監(DX担当局長)/東京大学政策評価研究教育センター招聘研究員

プロフィール
神戸市デジタル監(DX担当局長)/東京大学政策評価研究教育センター招聘研究員。2007年、東京大学法学部卒業。総務省自治行政局、内閣府地域主権戦略室、熊本県総務部、東京大学公共政策大学院准教授等を経て、2022年より現職。その間、2018年にハーバード大学大学院修士号取得。主著:「くまモンの『ロイヤリティフリー』戦略——成功の秘密は『くまモンの共有空間』にあった」(蒲島郁夫と共著)『中央公論』2014年4月号:124-132。「地方分権に関する経済理論とデジタル社会への示唆」『月刊地方自治』2021年9月号:22-48。

1. EBPM推進の鍵を握る行政記録情報の活用

1.1 行政記録情報活用のメリット

行政機関は、さまざまな実務を執行するうえで多様な電子情報を収集し、蓄積している。たとえば地方自治体は、住民に課税するために労働所得や資産所得等といったさまざまなソースから、所得に関する情報を包括的に収集し、把握している。同様に、法人に課税するために法人所得についても包括的に情報を収集し、把握している。伝統的には、経済学の研究者は母集団から抽出された世帯や法人を対象に実施される統計調査(サーベイ調査)に基づくデータを用いて実証分析を行ってきた。しかし、こうした「行政記録情報」(「行政データ」とも呼ばれる)を用いた研究が、2000年代以降盛んに行われるようになってきた。行政記録情報には、統計調査に比べて優れた点があるのがその理由である。それは、次の3点にまとめられる。

第1に、行政記録情報は対象者全員の情報を含むため、サンプルサイズがきわめて大きく、精度の高い推計が可能な点である。統計調査においては、サンプルサイズが限定的であることから生じる「標本誤差」に加え、回収率が100%でないため、調査に協力しなかった対象者の実態を把握できないことから生じる「非標本誤差」が深刻である。さらに、こうした誤差やサンプルサイズの不足から、たとえば富裕層や貧困層といった分布の裾に位置する個人・世帯を的確に捉えることができないという問題も生まれる。

第2に、行政記録情報は対象者全員を毎年観測するため、複数時点にわたって同一個人を追跡した「パネルデータ」の構築がより容易に行えるという点である。パネルデータを用いることで、たとえば年収の変化を捉え、各個人がどのような所得リスクに直面しているかを知ることができる。こうした情報は、たとえば所得に応じた給付額の設定や、支援を受ける条件の設定等、より望ましい社会保障制度を設計するために役立つ。

第3に、行政記録情報は記録がより正確な点である。統計調査は訪問式・自記式のアンケートをもとにしているため、過少申告や誤記の問題を避けることができない。

1.2 行政記録情報を用いた実証分析の興隆

これらの行政記録情報のメリットを活かした論文が、2000年代に入ると数多く出版されるようになった。たとえばSandra Black, Paul Devereux, Kjell Salvanesの3名は、ノルウェーの行政記録情報を用いて、次のような実証論文を矢継ぎ早に出版した。

  • 親から子への人的資本の移転の程度
    (Black, Devereux and Salvanes 2005a)

  • 子どもの数や出生の順番が子どもの学歴に与える影響
    (Black, Devereux and Salvanes 2005b)

  • 出生時体重が成人してからの学歴や所得に与える影響
    (Black, Devereux and Salvanes 2007)

  • 義務教育の年数が10代の出産に与える影響
    (Black, Devereux and Salvanes 2008)

  • 学年の中の相対年齢が将来の所得や健康に与える影響
    (Black, Devereux and Salvanes 2011)

これらの研究成果に共通するのは、さまざまなソースの記録を統合し、個々人のゆりかごから墓場に至る生涯の情報が正確に記録されたデータセットを用いて分析が行われているという点である。このようなデータセットの構築は、行政記録情報の統合を行わなければほぼ不可能である。また、こうしたデータセットの作成は、家計部門に限らない。たとえば、ドイツではドイツ労働市場・職業研究所(IAB)が失業保険の行政記録情報を用いて労働者のパネルデータを作成した。そして、このデータを用いることで、次のような重要な研究が生み出された。

  • 若年の間に就く職がその後のキャリアにどのように影響を与えるか
    (von Wachter and Bender 2006)

  • 最低賃金の導入が労働者の事業所間移動をどのように促したのか
    (Dustmann et al. 2022)

欧州諸国で先行した行政記録情報を用いたデータ整備の流れは、米国の経済学者たちに「データ整備の遅れが、経済学研究の遅れにつながる」という危 機感を抱かせるに至った(Card et al. 2010)。こうした危機感は、以前から米国でも行われてきた社会保険データや税務データのさらなる利用促進に結実し、米国でも行政記録情報や、クレジットカード取引履歴等の企業活動の過程で蓄積されるデータをはじめとする「業務データ」を活用した重要な研究が生み出されつつある(Chetty, Friedman and Rockoff 2014a, b; Chetty et al. 2020)。

これらの欧米諸国での研究成果は、アカデミックな研究を進化させたのみならず、より実務的な側面でもエビデンスに基づく政策形成(Evidence-Based Policy Making:EBPM)に お い てエビデンスの質を高度化させることにも役立っている。質の高い学術研究が行われることは、 EBPMで用いられるエビデンスに直結するわけではないものの、アカデミックな研究成果を一般向けにわかりやすく紹介する取り組みが行われてきたことや、行政の側に博士号を取得しアカデミックな研究成果を咀嚼することのできる人材が多く所属していることの双方があいまって、政策形成においてアカデミックな研究に基づくエビデンスについて言及されることを促進しているといえる(森川 2017)。

また、行政記録情報に基づくミクロデータを用いた欧米の研究は、日本の経済学者の間での関心を高め、すでに東京都足立区と協働する研究者のグループや、兵庫県尼崎市と協働する研究者のグループが形成されている。さらに埼玉県では、学力調査の結果がパネルデータとして整備され、それに基づく 研究が積み重ねられている(Ito, Nakamuro and Yamaguchi 2020)。こうした先進的な事例は非常に貴重なものであり、これらの自治体から得られた経験や知見は、今後の展開に大きな影響を与えると考えられる。

1.3 EBPM推進と行政記録情報の整備

このようなアカデミックな取り組みが進む一方で、EBPMの取り組みの中でも行政記録情報の高度活用が随所で謳われている。しかしながら、アカデミアとの協働が進められているのは先進的な取り組みに熱心であり、かつ比較的資源のある自治体に限られているともいえ、その全国展開については課題も多い。また、個人情報保護との関連から、日本では全国規模での行政記録情報の活用はあまり進んでいない。さらに、データの提供形態に関しても、PDFファイルでデータが提供される等、データ分析を行うのに適した形での提供になっていないといった問題も指摘されている [1]。行政記録情報を活用するためのデータ整備の遅れは、日本のEBPMの進展にも暗い影を落としている。官房長官を座長とする統計改革推進会議の 2017年5月の最終取りまとめでEBPMの推進が謳われたことを受けて [2]、これまでEBPMの推進がさまざまな形で進められてきた。そして、現在に至るまでの5年間で、行政改革を主管する内閣官房を中心としつつ、さまざまな官庁でEBPMを導入する試みが粘り強く進められている。とはいえ、政策資源の投入がどのような社会的なインパクトをもたらすのかを、因果関係を明確にしつつ図式化した「ロジックモデル」の作成にとどまっていることが多いのも現実である。

[1]「チャートは語る  政府オープンデータ『開店休業』2割にアクセス不備」『日本経済新聞』2022年3月20日付。
[2]「統計改革推進会議 最終取りまとめ」(2017年5月19日統計改革推進会議決定)。

ロジックモデルでは、「政策資源(インプット) → 政策資源を用いた具体的な施策(活動)→ 施策のパッケージとしての政策(アウトプット)→ 政策の結果(アウトカム)→ 社会的インパクト」という形で因果関係の構図を明確化するものの、実際にそこで想定されているような因果関係が作用しているか否かについては、データを用いて実証分析してみないとわからない。たとえば、生活保護受給者を対象とした就労支援サービスの提供が就労を促進しているかどうかは、実際にデータを用いて実証分析してみないとわからない。そのため、EBPMの取り組みをロジックモデルを超えて前進させようとすると、データの利用が不可避になってくるのである。つまり、政府が取り組む EBPMの流れをさらに進めようとすると、データ自体の整備に加え、データ利用環境の整備が不可欠な段階にまで、EBPMの取り組みが進んできたともいえる。

データ利用環境の改善のための取り組みとして、政府統計のミクロ(個票)データに関しては、総務省統計局がリモートアクセスの可能性を検討し始める等の努力が続けられている。同様に、新たに設立されたデジタル庁も行政のデジタル化を促進する一方で、行政記録情報を用いたデータの作成、ならびに利用環境の整備の過程で蓄積されるデータを用いたEBPMの推進を目指しており、すでに実証事業等を始めている。

しかしながら、「行政記録情報を利用することで何が得られるのか」という結果に関する情報の蓄積が不足する中では、個人のデータを利用される立場にある市民からすると、その目指す姿の具体像が見えにくく、政府が個人情報を管理する監視社会への第一歩だというディストピア的な理解が先行し、高度利用に関する議論がいたずらに後退している側面も否めない。このような誤解を解くためには、個人情報の保護に関する懸念に最大限の配慮をしつつ、行政記録情報を用いることの有用性がわかるような実証分析の実例を提示していくことが重要である。

1.4 自治体行政をめぐるデジタル化の動き

一方、自治体行政の分野においては、「地方行政のデジタル化」あるいは「スマート自治体化」が主要な政策課題となっている [3]。第32次地方制度調査会「2040年頃から逆算し顕在化する地方行政の諸課題とその対応方策についての中間報告」(2019年7月31日)では、「職員には、従来の業務を技術により代替するだけでなく、従来十分にはできていなかった業務に技術を活用するという視点が求められる。具体的には、オープンデータを EBPMに活かすなど、データや技術を使いこなす職員の育成……が考えられる。……システムの標準化・共同化により、それによって捻出された人的・財政的資源をAI、IoT等の攻めの分野に投資することが可能になる。職員は、標準化・共同化されたシステムやデータに基づく他の地方公共団体との比較分析やデータ共有・連携等により創意工夫した政策立案を行うことができる」(24-25 頁)とされ、EBPMの取り組みが自治体にも求められている。

[3] 第32次地方制度調査会「2040年頃から逆算し顕在化する諸課題に対応3するために必要な地方行政体制のあり方等に関する答申」(2020年3月)、同「2040年頃から逆算し顕在化する地方行政の諸課題とその対応方策についての中間報告」(2019年7月)、総務省「地方自治体における業務プロセス・システムの標準化及びAI・ロボティクスの活用に関する研究会報告書~『Society 5.0時代の地方』を実現するスマート自治体への転換~」(2019年5 月)参照。

また、2021年に制定された「地方公共団体情報システムの標準化に関する法律」のもと、同年9月に発足したデジタル庁と地方自治制度を所管する総務省は、各分野の制度を所管する各府省とともに、自治体情報システムの標準化に取り組んでいる。同法では、自治体が持つ住民基本台帳、税務、福祉等のシステムの機能要件のほか、データ要件についても標準化することとしており、現在は自治体やシステムベンダごとに異なっている自治体の行政記録情報のデータ形式が標準化されれば、EBPMや行政記録情報の研究利用にも大きく資すると思われる。

あわせて、自治体の行政記録情報利用にあたっては、各自治体における個人情報保護のあり方が、自治体ごとに異なる個人情報保護条例により規律されているという、いわゆる「2000個問題」が指摘されたが、「デジタル社会形成整備法 [4]」により個人情報保護法が改正され、自治体における個人情報保護についても国の新たな個人情報保護法によって規律されることになった(2023年4月1日から施行)。この改正により、自治体においても、匿名加工情報制度が導入されることとなり(都道府県・指定都市以外は経過措置あり)、単なるデータ保護だけでなく、データ利活用のための選択肢が増えることとなった。

[4] 正式名称は「デジタル社会の形成を図るための関係法律の整備に関する法律」。

なお、国税庁では研究者に対してミクロデータの提供を行う試みを開始している。行政記録情報の学術・政策立案目的の利用に関して、2017年以降の骨太の方針において行政記録情報の利活用を促進するという方針が毎年記述されていることをふまえての対応である。ただし、日本では多くの給与所得者が企業単位の源泉徴収を通じて国に対する納税を行っているため、個人レベルの所得の把握は難しいという実態もある。そのため国税庁は、個人レベルの年収を把握することを目的に、毎年「民間給与実態統計調査」という調査を行っている。他方、自治体の保有する地方税の行政記録情報には、個人レベルの所得が記録されているという長所がある。自治体の保有する税務データを活用しようとする試みと国税庁が行っている試みは、法人税に関しては一部重複する部分はあるとはいえ、個人に課される所得税の部分に関しては、おおよそ補完的な関係にあるといえよう。

2. 東大CREPEプロジェクトのねらい

2.1 プロジェクトの目的

第1節で述べた背景をふまえ、東京大学政策評価研究教育センター(CREPE)では、複数の地方自治体と連携し、「EBPM推進のための自治体税務データ活用プロジェクト」を2021年夏に立ち上げた。

プロジェクトの内容は、CREPEが自治体から匿名化された個人レベルの税務情報の提供を受け、CREPEが行政改善のためのデータ分析を行い、参加自治体にフィードバックするとともに、 CREPEでは提供されたデータを用いて学術研究を行うというものである。プロジェクトの主なねらいは、以下で述べる2つである。

① アカデミアにおける実証研究の発展
第1節で述べたように、近年、行政記録情報を用いた研究の重要性が高まっており、現に、経済学の国際的な有力査読誌に掲載される実証論文において、統計調査に基づくデータを用いる研究の割合は減少しており、代わりに行政記録情報を含む業務データを用いる研究の割合が大きく高まっている(Chetty 2012)。その理由は業務データのメリットが広く認知されているからであり、発信力のある研究を行うためには、業務データを学術利用できる環境の整備が不可欠であることを示している。

自治体の行政サービスは生活に密着し多岐にわたるため、自治体は、住民基本台帳を中心に税務・福祉・教育に関する情報を含むデータを保持している。そのため、自治体の保有する行政記録情報を用いれば、あらゆるライフイベントについて分析できる可能性がある(図1参照)。

図1 自治体の持つ行政記録情報の全体像

一方、アカデミアが自治体におけるデータを利用するためには、個人情報保護条例との関係を含め、法的、情報工学的、技術的な課題がさまざまに存在し、これらを1つずつ丁寧に解決していく必要がある(この点は、次回の連載で詳述する)。

そこで、本プロジェクトでは全国の数十の自治体と連携し、法学者・情報工学者の参画も得て、「個人情報を保護しつつ、多くの社会科学研究者が全国の行政記録情報を容易に学術利用できる仕組みを確立する」という目的を掲げて取り組んできた。

② 日本の行政におけるEBPMの推進
第1節で見たように、EBPMが比較的進んできた欧米諸国に比べ、日本では、政策立案において統計調査や行政記録情報等が十分に活用されておらず、往々にして「エピソード・ベース」での政策立案が行われているとの指摘がされてきた [5]

[5] 注2と同。

政府においても、EBPM推進委員会や各省の政策立案総括審議官が設けられ、EBPMが推進されているが、図1にあるような個人に関する情報について、国は部分的にしか持っていない。一方、自治体においても、EBPMやデジタル化推進等の呼び声はあるが、具体的に何をすればよいかわからないという声も大きい。

そこで本プロジェクトでは、日本のデータに基づく政策研究の発展を通じて、日本の政策形成のあり方をEBPMに転換させる契機となることを目指す。

2.2 プロジェクトの基本的な考え方

本プロジェクトでは、いくつかの点に留意しながら進めている。

第1に、自治体とアカデミアの双方にとって実利がある形を目指している。自治体側の「学術研究の発展に貢献したい」という想いや、アカデミア側の「社会貢献として自治体の政策立案に役立つことをしたい」という想いは尊重されるべきである。しかし、両者とも多忙な中で追加的なプロジェクトに従事する時間を捻出することになるため、こうしたボランティア精神に依存すると、いずれ無理が出てきてしまい、長続きしない。また、理解のある行政担当者個人に依存すると、その人が異動してしまえば、その自治体との関係も消え去ってしまう。そのため、「主体A(=アカデミア)にとってより価値ある財(=行政記録情報)を、主体B(=自治体)がより低コストで供給することと引き換えに、主体Bにとってより価値ある財(=データ分析結果)を、主体Aがより低コストで供給する」という経済上の取引の基本原則に立ち返った関係を目指している。

このことをふまえ、本プロジェクトでは、自治体との関係をあえて委託関係にしなかった。自治体からの委託となると、研究者はあくまで自治体の業務として研究に取り組むことになる。そのため、実態としてはともかく、理念上は、研究者の研究活動は、自治体の指揮監督のもとに行われることとなり、研究者が行える研究の範囲も自治体の業務と位置付けられる範囲に限られることとなる。しかし、研究者が研究を行うのは自治体の業務だからではなく、研究者としての主体的な取り組みのはずであり、そうであれば、正面から自治体と研究機関を別の主体と位置付けるべきであると考え、委託関係とはしなかった。

第2に、立ち上げ時点から全国展開を視野に入れた仕組みの構築を目指している。具体的には、まず、自治体にとっての参入障壁をできるだけ下げることを意識している。高度な匿名化を行うためには、匿名加工技術についての情報工学的知見に加えて、R等の統計分析ツールのスキルが必要であり、さらには個人情報保護制度についての法的知見も必要となるため、参入障壁が高くなってしまう。こうしたスキル・知見がなくても気軽に参加できるように、具体的な匿名化方法の案とその根拠、匿名化を実行するためのRのプログラムとマニュアル、個人情報保護制度の法的整理を、法学者・情報工学者の監修のもとで整備して配付した。

あわせて、参加自治体の増加に伴うCREPE側の人的・財政的なコストの上昇をできるだけ下げることも意識している。全国には大小さまざま約 2000の自治体(都道府県・市区町村)があり、すべての自治体と大学が一から関係を築いて進めていくというのは、実際には難しい。本プロジェクト の ね ら い で あ る「② 日 本 の 行 政 に お け る EBPMの推進」を一部の自治体だけの取り組みにとどめないためには、CREPE側のコストも下げることが必要である。そのため、分析プログラムは自治体を通じて共通のものとして設計し、自治体ごとに対応する必要がある箇所は個別にパラメータを設定する形で対応することとしている。いわば、EBPMをある程度レディーメイドで提供することでCREPE側のコストを下げ、ひいては自治体にとっても気軽に参加できる環境の整備を目指している。これにより、一定品質の分析結果を、必ずしもEBPMに人的・財政的コストをかけられない「普通の」自治体にも使ってもらうことにより、普通の自治体にとって、EBPMを当たり前のものにしたいと考えている。もっともこの取り組みは、各自治体の状況に応じたより高度なオーダーメイドの分析の重要性・有用性を否定するものではない。こうした高度な分析は、レディーメイドのEBPMに馴染んだうえで、なお追加コストを負担してでも分析したいという自治体が出てきた場合に対応すればよいと考えられる。

第3に、得られた知見はできる限り公表し、社会の共有財産とすることを目指している。本プロジェクトを実施するためには、個人情報保護制度上の整理や規定類の整備、データ整形等のさまざまな法的・情報工学的整理が必要だったが、これらは経済学者が研究対象とする経済学的な問いから見て本質的でないため、経済学者が専門的知見を持っていない場合も多い。にもかかわらず、現実にはこれらが制約となって、本来の経済学的な問いの研究になかなかたどり着けない場合もあると考えられる。そのため、本プロジェクトを通じて得られた知見を、成功も失敗も含めてなるべく広く公表し、社会に還元することで、本プロジェクト以外の場面でも役立てていただきたいと考えている。

3. 2021年度の成果

2021年度は、全国から約20もの自治体が参加してくださった(図2参照)。個人情報保護法制との整合性の整理、個人情報を保護しつつ統計的な有用性を保つための匿名化処理のあり方、参加自治体へのインセンティブ付与、全国自治体へのアプローチ等、プロジェクトを実際に行うために乗り越えなければならない課題は山ほどあった。

図2 本プロジェクト参加自治体(2021年10月20日時点)

注)カッコ内は「国勢調査」(2020年)に基づく人口。破線の囲みは自治体名の公表可否を確認中または非公表を希望している1県4市1村(合計人口200~300万人)。

CREPEに所属する教職員ならびにリサーチアシスタントから成るチームは、法学者、情報工学者等の関係者の協力を得ながら、課題を1つひとつ解決してきた。

2021年秋からは、参加自治体から匿名化された税務データの提供を順次受けることができ、冬にはそのデータを用いて分析を行い、翌2022年1月には各自治体に分析結果を届けることができた。行った分析は、各自治体の来年度の税収予測である。

匿名データには複数年のデータが格納されており、さらに各個人・法人に一意に割り振られた番号(「宛名番号」等と呼称される)がハッシュ化され、個人を特定することが不可能な形で格納されているため、パネルデータとなっている。この特徴を活かし、個人あるいは個別企業の納税額の時系列プロセスを推定し、その推定値を用いて来年度の納税額を予測した。この予測値を自治体単位で集計したのがわれわれの作成した税収予測である。

この予測値を過去のデータに当てはめてみると、個人住民税に関しては、自治体が行ってきた税収予測に比べて誤差率(=予測誤差/税収総額の絶対値)をおよそ半分程度に縮減できることがわかった。一方で、法人住民税・法人事業税に関しては予測がきわめて難しく、すでに自治体が行っている税収予測を上回るパフォーマンスを出すためにはさらなる工夫が必要となることもわかった。

各自治体は、来年度予算を組むために税収予測を行う必要があり、その正確な予測は効率的な財政運営のために欠かすことができない。課題はまだ残っているものの、本プロジェクトを通じて一定程度の貢献ができたのではないかと考えている。同時に、税収予測の精度や自治体側の作業負担についての課題も明らかになったため、2022年度以降はこれらの課題の解決も進めていきたいと考えている。またCREPEでは、参加自治体をさらに拡大しつつ、税以外の行政記録情報との接合の検討も含めてプロジェクトを進めていく予定である。

この連載では、本プロジェクト初年度の経験をふまえて、データ提供を受けるために乗り越えなければいけない課題としてどのようなものがあり、それらの課題をCREPEはどのように乗り越えたのかを紹介する。また、プロジェクトの過程で具体的にどのような税収予測や実証分析を行い、データ提供自治体にフィードバックを行ったのかについても解説する。さらに、提供されたデータを用いて、今後どのような学術研究が可能となるのかを示すために、提供されたデータを用いた初期的な分析結果を交えつつ紹介していきたい。


参考文献

森川正之(2017)「『エビデンスに基づく政策形成』に関するエビデンス」RIETI Policy Discussion Paper Series, 17-P-008.

Black, S. E., Devereux, P. J. and Salvanes, K. G.(2005a) “Why the Apple Doesn' t Fall Far: Understanding Intergenerational Transmission of Human Capital,” American Economic Review, 95(1): 437-449.

Black, S. E., Devereux, P. J. and Salvanes, K. G.(2005b) “The More the Merrier? The Effect of Family Size and Birth Order on Children`s Education,” Quarterly Journal of Economics, 120(2): 669-700.

Black, S. E., Devereux, P. J. and Salvanes, K. G.(2007) “From the Cradle to the Labor Market? The Effect of Birth Weight on Adult Outcomes,” Quarterly Journal of Economics, 122(1): 409-439.

Black, S. E., Devereux, P. J. and Salvanes, K. G.(2008) “Staying in the Classroom and Out of the Maternity Ward? The Effect of Compulsory Schooling Laws on Teenage Births,” Economic Journal, 118(530): 1025-1054.

Black, S. E., Devereux, P. J. and Salvanes, K. G.(2011) “Too Young to Leave the Nest? The Effects of School Starting Age,” Review of Economics and Statistics, 93 (2): 455-467.

Card, D., Chetty, R., Feldstein, M. S. and Saez, E.(2010) “Expanding Access to Administrative Data for Research in the United States,” American Economic Association, Ten Years and Beyond: Economists Answer NSF's Call for Long-Term Research Agendas.

Chetty, R.(2012)”The Transformative Potential of Administrative Data for Microeconometric Research,” Panel Discussion: Accessing and Using Administrative Records for Labor Market Research, July 24, 2012.

Chetty, R., Friedman, J. N. and Rockoff, J. E.(2014a) “Measuring the Impacts of Teachers I: Evaluating Bias in Teacher Value-Added Estimates,” American Economic Review, 104(9): 2593-2632.

Chetty, R., Friedman, J. N. and Rockoff, J. E.(2014b) “Measuring the Impacts of Teachers II: Teacher Value Added and Student Outcomes in Adulthood,” American Economic Review, 104(9): 2633-2679.

Chetty, R., Friedman, J. N., Hendren, N., Stepner, M. and The Opportunity Insights Team(2020)”The Economic Impacts of COVID-19: Evidence from a New Public Database Built Using Private Sector Data,” NBER Working Paper, No. 27431.

Dustmann, C., Lindner, A., Schönberg, U., Umkehrer, M. and vom Berge, P.(2022)”Reallocation Effects of the Minimum Wage,” Quarterly Journal of Economics, 137 (1): 267-328.

Ito, H., Nakamuro, M. and Yamaguchi, S.(2020)”Effects of Class-Size Reduction on Cognitive and Non-cognitive Skills,” Japan and the World Economy, 53, 100977.

von Wachter, T. and Bender, S.(2006)”In the Right Place at the Wrong Time: The Role of Firms and Luck in Young Workers' Careers,” American Economic Review, 96(5): 1679-1705.


「自治体税務データ活用プロジェクト」の最新情報については、以下の文部科学省科学研究費補助金学術変革領域研究 (B)「税務データを中心とする自治体業務データの学術利用基盤整備と経済分析への活用」のウェブサイトをご覧ください!

https://web.iss.u-tokyo.ac.jp/jichitai_data/

*本稿は、『経済セミナー』2022年6・7月号からの転載です。


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