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🔲 作者の主人公批評ってあり? 「空蝉の巻」3


日本の小説文化は明治・大正・昭和の先人たちの努力によって、世界の中でも特色ある発展をしてきたことは周知のとおりです。小説文化の影響力は強く、物語文学も小説の延長線上で様々な論議が生まれるようです。

しかし、1000年も昔の物語文学には、近代小説とは違った一面があることを理解しなければならないと思います。玉上琢弥氏の「物語音読」という考え方などは、その典型的なもので、現在の読書とは全く違った方法で平安時代の姫君や女房達は楽しんでいたのです。

空蝉の寝所に忍び込んだ源氏。空蝉は、素早く逃れ、後に残された軒端の荻と関係を結ぶことになります。その時の様子が次のように語られています。

本意の人(空蝉)をたづねよらむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなく、「をこ」にこそ思はめとおぼす。「かの、をかしかりつる火影ならば、いかがはせむ」におぼしなるも、悪き御心浅さなめりかし。   

 古典文学大系 巻一115頁116頁

源氏が、先ほど見た、あの美しい女なら空蝉と間違えても仕方がないと関係を結んでしまったことに対して「悪き御心浅さなめりかし」というかなり辛辣な批評を下しているのです。源氏の軽はずみな浮気心というか、色好みの性格に対して我慢できない作者紫式部のため息のようなものが伝わってきます。そればかりではなく、この源氏物語の読み手であった女房や聞き手であった姫君の気持ちが伝わってきます。

というよりは、源氏のような男の浮気心を非難する気持ちを姫君や女房といった読者と共有していたんですよね。

西洋の小説文化を取り入れた日本の近代小説では、視点という事が厳しく問われています。視点が混乱したら小説は成立しなくなるといっても過言ではないでしょう。小説家は、まず、視点を定めることから執筆することになります。

しかし、源氏物語では、そのあたりが実に大らかといったらよいか。そんな認識がなかったのではないでしょうか。源氏の行動でも、気になることがあれば作者が顔を出して批判・注釈をする。物語の読み手の女房などは口調を変えて姫君に注意を促したりしたのではないでしょうか。こういう自由な享受の中で源氏物語は読み継がれ長編の物語になったようです。

紫式部という大天才を軸として、その考えを姫君や女房が共有し、共同作業として源氏物語の世界が構築されてきたのでしょう。

作家自身の名誉と金銭にかかわる近代日本の小説とは決定的な違いがあることを認識したいものです。


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