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魔法のノート

僕は普段事務の、いわゆる派遣社員というもので生活に必要なお金を得ている。

以前は介護の仕事などをしていたのだが、うわさに聞く現場の強烈な洗礼を受け、僕の体はある日寝床から起き上がらなくなった。うつ病というやつらしい。

それから勤続不可能な状態になるまではさほど時間はかからなかった。僕は逃げるように施設を後にして、回復に2カ月を要した。その後は冒頭の通り、派遣社員として事務員をやっている。

今の仕事を始めてから半年が経過したが、慣れてしまえばこの仕事は悲しいほどに退屈だ。本当にこれが仕事なのだろうかというほどに無駄な業務が多く、どうにもあまり気が入らない。時間をつぶすための「確認電話」、余計な仕事を増やすための報告、連絡、相談、、、まあ、生活のためにやっていることに対して期待するのは愚かであろうとも思うので、そこらへんは折り合いや妥協という言葉でもって、あるいは諦めが肝心なのだ。こんなもんだと思えば仕事とはスムーズにこなせるようになるもので、実際僕は長すぎる通勤時間以外の不満が今のところはない。慣れとはある種の麻痺だということを身をもって証明したといったところだろう。困ったものだ。

今回のお話はここから。

同じ派遣会社から派遣されたOさんという女性がいた。Oさんはとてもまじめで、1日でも早く仕事を覚えようと必死にノートをとっていた。不真面目な僕とは大違いである。まったく、困ったものだ。

ただ、まじめすぎるゆえに自身のちょっとしたミスに対してものすごく責任を感じてしまっていて、ちょっとアレな上司が支離滅裂な指示を出していたというのもあるけど、それにしてもミスが非常に多くなっていた。今までならまったくミスがなかった業務でもミスが目立つようになっていた。

その少し前、ちょっとだけお互いの身の上話というか、当たり障りのないことを少しだけ話した。前職のこと、僕が音楽の仕事をしていること、うつ病になったこと、、、

「私も薬、飲んでるんです。」

Oさんの口からは意外な、意外ではあったけど、お互いの大きな共通点が見つかったこと、その言葉が出た時点で、コミュニケーションとしては成功だったといえる。あまりポジティブな共通点ではないが、それもまた慣れであり麻痺なのかもしれない。

そんなOさんが休みがちになっていった、ある日の昼休み。

他部署の社員から、Oさんに対してクレームが入った。僕は「伝えてくれ」と頼まれたのだが、果たしてそれをどうやって伝えようか、、、僕は頭を抱えた。

状況を考えれば正直伝えたくはない。むしろちょっとアレな上司のほうに原因があるのは自明なのだが、業務を担当しているのは確かにOさんなのだ。やはり僕は頭抱えた。まったく、困ったものだ。

結論だけ言えば、僕はそのことをOさんに伝えた。業務上のことなので、やむを得ないのもあるし、現状僕がOさんのカバーにつけないというのが大きな理由ではあった。Oさんは「ごめんなさい」といってこらえきれず涙を流した。僕はすっかり言葉を失ってしまって、その感情にあてられないようにするのが精いっぱいだった。繁忙期の中で走り回っていた僕も多分、同じ状況になる一歩手前だったからだ。

次の日、Oさんは来なかった。もちろんそれっきりだ。おこがましいが、僕はこっそりと責任を感じていた。Oさんの名誉のためにいっておくが、もちろん僕のせいなんかじゃないのは解っている。人の人生を左右できると思うほど、僕は思い上がっていない。それでも、仲間だった人に同情くらいはしたいと思った。のちにタイムシートは僕が代わりにFAXした。後任が決まったのはそれから2週間後だ。
僕はその日、寝床から起き上がれなかった。

遅れること2日、Oさんの後任の女の子(Aさんとしておこう)が新しい仲間になった。そして、いろいろアレな上司が異動になり、後任の、もちろんまともな、上司が来た。プチ繁忙期直前の中で、業務引継ぎが急ピッチで行われた。バタバタと過ぎていく時間の中で、Aさんに一冊のノートが渡された。アレな上司が僕にいった。

「佐々木君、このノート見てみぃ」

アレな上司が僕に手渡したのは、間違いなく、Oさんのノートだった。

「恐ろしいで、めちゃ丁寧や」

珍しくアレな上司に同意した。すべての手順がOさんの丁寧な文字によって整然とまとめられていて、そこにはOさんの哲学や思想がありありと見えた。まるで人格さえもそこから感じられるような、そんな、魔法のノートだ。僕は1ページずつゆっくりとノートをめくった。1枚めくるたびに、僕の心に残ったものがひとつづつ消えていくのが解った。そうか、こうやって残っていくこともあるんだと、そう思った。結果や、価値や、実績や、地位や、そんなものでは測れない、たぶんその場にいた僕たちにしか伝わらない、だけど、すごく大事な、彼女にしかできない仕事が、確かにここにある。このノートがある限り、彼女の仕事が忘れられることはない。きっと。

誰もいない喫煙所で、煙草に火をつけて、大きく息をした。

「ありがとう」

誰にも聞こえないように、つぶやいた。

僕は、少し泣いた。

初夏の風が心地よかった。

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