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疲れ果てた人が行くところ

僕は死に場所を探している。物心がついた時からずっとそうだ。我ながらロマンチックな感性をしていると思う。自殺なんて意味のないことをさも美しいことのように考え続けてきたし、いまもそうだ。まったくもってロマンチックだと思う。
生きることはとっても苦しいから、もしかしたら現実逃避としてそんなことを考えているのかもしれない。目の前の問題が困難であればあるほど死ぬことを考える。悪い癖なのだ。
それでも死ぬことを考えている間はいくらか気がまぎれ、楽になる。ちょっとした依存症なのかもしれない。できればもう少しマシな依存先を見つけるべきだった。


最近少し「疲れた」と感じるときがある。
あっちへ行き、こっちへ行き、少しずつ僕の中で何かがすり減っていく。だけど動いていないと不安になるから、できるだけ動く。そうして悪循環がうまれる。疲れたら寝るのが一番なのはわかっているけど、ここ最近は悪夢にうなされることが多くて、寝るのにも一苦労だ。
いったい僕は何をしているのだろう。そんな考えが頭の中にうかんで、なかなか振り払えない。苦しさだけが日増しに大きくなって、きっとこうして人は疲弊していくんだろうと思った。


疲れ果てた人はいったいどこへ向かうんだろう。ある日そんなことを考えた。もしも疲れ果ててしまって、今日という日を乗り越えられないくらいになってしまったとき、人はどこへ向かうのか。
きっとそういう人は消えてしまうのだろうと僕は考えている。最後の力で、楽になる方法を考えて、たぶん煙のように消えてしまう。向かう場所は、きっと死に場所だ。その人が最も美しいと思う場所。いや、これはそうであってほしいという僕の願望かもしれない。僕は死が特別なものだと思い込んでいるのだ。きっと疲れ果ててしまえばそんなことは考えない。ただ、行動に移すだけだろう。


疲れ果てる前に、僕は身辺整理も込めて作品を残そうと考えた。もちろん生きる努力は最大限にするが、もしも疲れ果ててしまったとき、そんなことになったら後悔さえする余裕はないだろうけど、僕が生きた証をできる限り残しておこうと思った。
今後僕が音楽や文章を発表するとき、それらはすべて遺作だ。だからと言って手を抜くわけではない。今まで以上に、ひとつひとつの作品に愛をこめて作っていくつもりだ。そうじゃなかったら、僕が生きたことは嘘になってしまうような気がする。何のために表現をしているのか、もう一度深く考えてみようと思う。それが、僕にとっての生きるということだ。
そして作品を作る力をすべて使い切ってしまったとき、それが僕にとっての死だ。それまでは、全力で生きようと思う。


僕は芸術が好きだ。美しいものを可能な限り作り続けたい。今までもそうやって生きてきたつもりだし、これからもそうやって生きていく。目の前の困難を乗り越えていけば、きっと活路は開ける。僕は表現者だ。死ぬまで表現者でいなければならないというプライドは、小さいながらも持っている。


もしも僕が疲れ果てて消えてしまうようなことがあっても、それでも僕の作品はそこにある。ネットの中に、再生機の中に、誰かの手の中に。
僕は死に場所を探しているけれど、それがどこなのかはまだ決まっていない。疲れ果てた僕が向かう先はいったいどこだろう。ロマンチストな僕は、きっとずっと美しい死を考え続けるだろう。その時が来るまで最大限に美しい作品を作り続けよう。行くべき場所が見つかるその時まで、僕は表現者としてあり続けるのだ。


死にたいけど、作るよ。

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