それでもあなたのせいじゃないよ。って言うわけにはいかないんだよ。
いい雰囲気が続いていたのに、どうでもいいことでそれを壊してしまう私たち。
私から見えていた世界。
今日は夫も20時半ごろには家に帰るだろうから、三人でご飯が食べられるな。
昨日は急遽、職場の先輩のガス抜きに付き合っちゃったから、今日は早く帰ろう。
今日も職場の後輩のガス抜きに誘われたけど(なんともストレスの多い会社!)、さすがに二日連チャンはないからと、そう言って断る。
我が家に理解のある後輩ちゃんで助かる!
とは言え、年度末にかけて忙しくなりそうだし、小一時間残業がんばるか。
帰りながらホームカメラを覗くと、ツムギはまたSwitchを手にしている。ま、いっか。うるさく言うのはやめよう。
夫に帰るね。とLINE。
帰宅は21時過ぎた。
帰るとツムギは入浴中。また?と思いつつ、叱るのはやめて、「先に食べちゃうよー!」と声をかけると、返ってきたのは「どうぞ」
イチカチン。
ようやく出てきたツムギは、低い声で「おかえり」と言い、急ぐ様子もない。
それでも比較的穏やかに「何時だと思ってるの?」と言うとぶっきらぼうに「9時です」
ニカチン。
スイッチが入った私は、キッチンの夫に訴える。
「9時だけど?だって!気分悪い!!」
廊下の方からツムギの反論が聞こえる。
「9時だけど?なんて言っていないよ。何時って聞かれたから9時です。って答えただけだよ」
出た。また揚げ足を取られる。
サンカチン。
ADSの特徴なんだろうか。
ありきたりの会話をしているつもりなのに、神経を逆撫でされてしまうのです。
私がこどもの頃だったら、なんと返事を返しただろうと考えた答え。
「先に食べちゃうよー!」
「えー?やだー!急ぐから待ってー!」
「何時だと思ってるの?」
「ごめんなさい。急ぎます!」
こう返ってくると予測しながら話をするから、苛立つのだろうと自覚しています。
かと言って、「急いで」と言っても急がないことに苛つくし、「私たちが帰る前にお風呂から出られるようにしてね」とは何度もお願いしてきたことで、どう言ったら協力してくれるようになるのか、私にはさっぱりわからないのです。
自分のことができない。
まして、家族のために何かをしようという発想もない。
それは夫と義両親の育て方が悪かったんだろうな。と思うけれど、環境が変わってもそうそう変わることはないのだろうか?
適応力は、楽な方に流れることにだけ発揮されるのです。
一週間近く、不穏な空気のまま時間が過ぎて、今までにはなかった様子も見てとれるようになりました。
私に、話しかける努力をしている様子。
けれども、「9時です」だけでやめておけばよかったのに、ツムギは悪者にされた腹いせに、余計な言葉を吐き出してしまっていました。
「明日は早く帰るよって言ってたのに、早く帰ってこなかったじゃん!」
がんばって仕事してこんな言われ方するんだー。
「メールがくるか待っていたのに連絡なかったじゃん!」
メールはお互いの連絡ツールとして、未だにうまく機能してないじゃない。
いろいろ私のせいにされたけれど、夫曰く、「俺が帰ってきたときに、Switch中断してお風呂に入れって言われたから、そこから機嫌が悪かったんだよ」
そして、仲裁に入る夫に促されて、和解しようと話しかけた私の何かの言葉に(あまりにガッカリして、発した言葉がなんだったのかも忘れてしまったけれど)、「そういう余計なこと付け足さなくてもいいじゃん!」と、自分こそ、余計な一言を付け加えてしまったツムギ。
口から出た言葉は戻せないんだよ。
もう、余計な一言は言わないようにしよう。って、相手に思わせてしまったんだよ。
昨日は、夫が夜勤で、私は重たい気持ちでいました。
残業したけれど、仕事にも身が入らず、ドッと疲れてしまった一日。
21時過ぎに家に着くと、ツムギは部屋の大掃除をしているようでした。
洗濯物を取り込んでいる私に、「これありがとうございました」と、前に渡してあった荷造り紐をテーブルに置いて部屋に戻っていきました。
「ご飯は?」って、聞きたかったか、「夕飯食べた?」って、言って欲しかったか。
私も寝室に戻って、着替えた後、ベッドに倒れ込んでいると、ノックをして私の背中を見たツムギは「先にご飯を食べていいですか?」と聞いてきました。
「どうぞ」
ああ、あの日ツムギが「どうぞ」と答えたのは、私の真似なのかも知れないと薄っすら思ったけれど、疲れ果てた私は、そのまま朝まで寝てしまいました。
本当は「一緒にご飯食べませんか?」って言いたかったんじゃないかな。
なんと不器用な。
どうしてそんな不器用な言葉を発してしまうのか、心配するよりも、切なくなってしまうのでした。
誰かツムギに教えてやってくれないかなぁ。
そんな言い方すると、ケイトに嫌われちゃうよ?って。
こういう言い方の方が100倍いいよ。って。
ADSも、育てられ方も、愛着障害も、不器用も、全部ツムギのせいじゃないってわかっています。
だけど、抱えなくてはいけないのはツムギだから。
自分で一旦それを受け入れて、付き合っていかなくてはいけないのはツムギだから。
何かのせいにしてしまうことは簡単だけれど、それは正しい解決策だとは思いません。
私にも、お母さんがいないから、と、自分は不幸だと思い込んでいた時期がありました。
だけど、それだけで、私の人生すべてが台無しになることなんてなかったのです。
母には悪いけれど、それで経験できたプラスのこともあったと思います。
母には今でも会いたいし、今も生きていたらどんなにか楽しかっただろうと思うけれど、母が生きていたことがマイナスに働く可能性だって充分にあったはずです。
痛みはそれぞれ違うから、共感なんてできないけれど、みんなどこかのタイミングで、何らかの痛みを感じながら生きているのだと思います。
割と早い段階でそのことに気づけた私は、ある意味幸せだったのかもしれません。
子育てに「ありのまま」という言葉をよく見かけるようになりましたが、まず、自分が「ありのまま」を受け入れられる人になってほしい。
私がツムギに対して、いろんなことのせいにして、「可哀想な子」を作り上げないようにしているのには、そんな思いがあります。
それが厳しいと映るのだろうけれど。
難しい子だと受け入れられない日もあるけれど、「そんな難しそうな子無理よ」と言わず、家に住まわせた私は、「ありのまま」のツムギを受け入れているのかもしれないと、ダラダラ書いたこのnoteで気づきました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?