新刊先行公開「まぼろしのあとがき」の部分。「21世紀の東アジアの平和のためのあたらしい”メタ正義的”な解決法」について。

●このページについての説明

倉本圭造の5年ぶり新刊、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」の先行公開note、本番の出版時には分量の都合でカットされた、「まぼろしのあとがき」の部分です。

本章では、ここまでの部分で導入した「メタ正義感覚」という視点から、紛糾する東アジア情勢にあたらしい「着地点」を見出していこうという話だったのですが、ここまでの部分で単行本としては相当な文章量になってしまったこともあり、言葉足らずに扱ってしまうと余計に紛糾する問題でもあるので、カットして別の本になることになりました。

来年1月に「”みんなで豊かになる社会”はどうすれば実現するのか?」が出版されるタイミングで、連動したハフポストでの連載をする話が決まっています。

内容的に非常に「右と左の間」で敵認定!味方認定!みたいな争いに巻き込まれやすい話なので、”あの”ハフポストで連載できるのは状況に一石を投じるためには大事な座組みなんじゃないかと思っています。(それまでの間に、こっちはまだ決まってないというか勝手に投稿する仕組みですが、個人的に昔よく投稿していた”アゴラ”でなんかできたらいいかなとも思っています)

この章については、この原稿が書かれた1ヶ月前と今を比べてすら、状況が変わってきて同じ文章でも受け取られ方が変わっているような感じすらあるので、この無料部分でかなり丁寧にこの「提言」について書いてみます。

個人的には、「この視点」を導入することでしかもう決して東アジア情勢は再度安定化しないところまで来ているし、それは「アジアの時代」に人類の基本的な考え方を「20世紀的な罵り合い」から「21世紀的な対話」の段階へと引き上げるために必要なプロセスであると考えています。


●歴史問題の「鏡映対称性」について

最初に、まず歴史問題について、今の時代見過ごされている、あるいは非常に歪んだ形でとりあげられてしまっている構造問題について考えてみたいと思います。

20世紀の歴史を冷静に眺めると、「右の暴走」の結果として生まれたファシズム的全体主義国家の暴走と同じぐらい、時には死亡者数で見ればそれ以上の不幸が「左の暴走」の結果としての虐殺や飢餓で引き起こされたことは明らかですよね。

だから20世紀の歴史を冷静に考えれば、「右の暴走」も当然抑止しなくちゃいけないけれども、同じぐらい「左の暴走」も抑止しないと大変な不幸が生まれてしまう・・・ということが言えます。

私はこれを「歴史問題の鏡映対称性」と呼んでいるんですが、今の時代、右も左も「相手が立っている側」の巻き起こす不幸だけを果てしなく言挙げして追求する一方、「自分の側」が引き起こすであろう不幸については知らんぷりを決め込む態度が蔓延しています。

特に、今の時代国際的な気分として「右の暴走」が生み出した不幸に対して、ナチス・ドイツとかヒトラーのイメージの援用で攻撃する戦略が有効すぎるので、「左の暴走」がそれを「隠れ蓑」とすることで、自分の側が受けるべき当然の社会からのフィードバックを拒否するネタにしていることがよくあります。

これは結局、単に「自分の側の政治的野心を世の中に押し付けることだけが目的で、その過去の不幸の結果苦しんだ人びとのことなんかは本質的には単なる話のネタにしか扱ってないのではないか」と批判されても仕方がない態度なのではないでしょうか。

「右の暴走」を抑止することも必要だが「左の暴走」も抑止しなくてはならない。

だからこそ、20世紀に起きた「右の暴走」を糾弾する声だけが高まることでバランスが崩れると、(過去の”左の暴走”への社会の本能的警戒心ゆえに)その運動に対する抑圧力が自然に生まれて、結果としてその「過去の惨禍に対して適切に扱って追悼すること」自体も不可能になるんですよ。

逆に言えば、この「歴史問題の鏡映対称性」を正しく踏まえて、適切なバランスがちゃんと維持されるように配慮した上であれば、歴史の流れの中で大変な不幸を味わった人たちへの追悼も問題なくできるようになる。

だからこそ私たちが注意しなくてはいけないことは、「左」の意志の良い部分、リベラル的な理想を本当に現実社会の中に無無理に定着するように持っていくには、「古いあり方」を批判し果てしなく糾弾するだけじゃ足りないってことなんですね。


●果てしなく紛糾しているこの問題への、あるべきアプローチについて基本的な考え方

そういう「歴史問題の鏡映対称性」について考えながら、以下の図を見てほしいんですが。

3−1ゴミの山とダイヤ

ありとあらゆる、今の時代に「社会のもともとのあり方」に対して「頭で考えた概念的な理想」を取り入れてもらおうと活動する人にとっては、問題に対して「こういう取り組み方」をすることが必要です。

経済的に豊かになりはじめぐらいの時期の、「古い社会のあり方」が盤石だった時期には考えなくてもいいことが、今の日本のように、「長い繁栄を続けてきて、過去からの連続性がグダグダになった社会」においては徐々に不可避な問題になってくる。

つまり「変えたい因習」があるなら、その「因習を攻撃」するだけじゃなくて、その「因習を必要としていた社会の深い事情」の方に遡って、そこにあった「大事なもの(ダイヤの原石)」を一緒になって新しい時代の手法で解決するようにしていかないといけない。

なぜなら、「変革を求める意識高い系の言葉」が現実社会における色んな機能を持った伝統的なシステムに対して「100対ゼロで批判する」だけだと、相手側が持っている社会運営上のリアルな事情をフィードバック情報として取り入れ、受け入れやすいように自分たち側の要望をブラッシュアップしていくことができなくなるからです。

結果として、無意味に押し切られては困るので彼らは過激化して徹底して反発してくることになるでしょう。

(ここまであたりの問題はサラッと書いてしまっていますが、より詳しくは「第2章」の無料公開部分にも詳しく書いてあるのでご参照いただければと思います。)

こういう感じの「全否定型」で向かい続けると、そもそもそういう理想に対して反発心を持っておらず結構好意的な憧れすら持っていた層も、だんだん「敵」の方においやってしまうことになりますよね。


●「アベとかトランプ」的なものに本当に勝ちたいなら、ただ彼らのダメなところを批判しているだけでは足りない

私たちリベラルは、全世界的に広がる「アベとかトランプとか欧州の極右政党」のようなものに対して、単に無理に抑え込んで一回二回選挙に勝つとかいうレベルじゃなくて、「本当の勝利」を目指さなくてはいけません。

そのためには、彼らよりも圧倒的にちゃんと「普通の大衆」のニーズにキッチリ応えているという構造を確定させる必要がある。

つまり、「彼らが言っていること」じゃなくて「彼らが支持を受けている理由」の方をちゃんとリベラル側が受け入れられる方法で解決するようにしていかなくては、「本当の勝利」にはなりません。

そうしなくては、一度二度選挙に勝っても、「彼らの存在意義」が否定されたままだとその「敵」はその分だけさらに巨大化・過激化し、ありとあらゆる財力とアジテーション能力を総動員して、むしろ余計にファシズム的な強引さを具現化しようとする状況にその社会全体を追い込んでいってしまいます。

だからこそ、ここで考えてほしいのは、「敵が言っていること」に律儀にいちいち対抗する論争をしかけてもあまり意味はないということです。

それは例えるなら誘われたデートに気乗りしないから「その日仕事があって」とか言ってる女性のようなもので、その「亡霊のような言葉」に対して「じゃあこの日は?」とか「仕事帰りの時間にこっちが職場に行って晩ごはんだけでもどう?」とかつっかかっていっても意味はありません。その女性をあきらめたくないなら、相手の話に無理やり乗っかって続けるよりも、そもそもの信頼関係を築くことからはじめて相手が乗り気になってくれるところまで持っていくことが必要でしょう。

つまり「相手側が言語化できていない事情」があるなら、そこに遡って解決策を模索しないと、相手側が「とりあえず言葉にしている反論」にぶつかっていっても幽霊に対してシャドーボクシングをするだけで終わってしまいます。

では、紛糾を続ける東アジアの問題について、例えば日韓関係において、私たちリベラルな精神を理想とする人間が、日本のナショナリズムの盛り上がりの底にある「ダイヤ」として探し出して奪還しなくてはいけないものは何なのでしょうか?


●「本当のフェアネス」ベースで戦前の日本を総括していくことが必要

そのことを単純化していうと、「戦前の日本」という存在が象徴しているものの中には、「アジア近隣諸国への加害」という側面と、「圧倒的な力で侵略してくる欧米列強に対する決死の異議申し立て」という側面があるので、両方を一緒くたに否定する論理に乗っかっていると、「押し切る」ことができなくなるんですね。

これは別に、例えば日本軍の侵略を受けた東南アジア諸国にわざわざでかけていって、たとえばシンガポールの人に、「日本軍のおかげで欧米の支配から逃れられましたよね、感謝してください」とか言いに行くような、そういう話じゃないんですよ。そんなことしたらそりゃ嫌がられますよ。

ここで例えば中国では、毛沢東について「功績7割、誤ち3割」という総括を公式にしているそうですが、そういう精神(ひょっとするとアジア的な知恵)がここでは必要なんですね。

なぜなら、毛沢東はたしかに色んな不幸を中国人民に与えてしまったけれども、もし毛沢東がいなかったら果てしない内乱が永遠に続いて毛沢東の治世どころじゃない不幸が起きていたに違いないからです。

だから「マイナス」の部分だけで毛沢東を全否定するように持っていくと、

この社会で起きているマクロな現象について自分ごととして考えて解決を目指すことを一切しないで、果てしなく他人を「100対ゼロで糾弾する」ことだけに熱中してしまうモラルハザード

が社会の中で止められなくなってしまうんですね。

この「モラルハザード」を防止することと、「その結果としてヒドイ立場におかれてしまった人々」の被害を追悼することは、どちらも同じだけやらなくてはいけない

わけです。このバランスが崩れると、人間社会は次々と生起するリアルな問題に対して現実的な対処をすることが不可能になって、果てしなく「自分の逆側にいる敵」がすべての元凶であるかのような空騒ぎを続けてしまうことになる。

世界のGDPのほとんどを欧米諸国が占めていた時代が終わり、中国という巨大な「別の選択肢」が新興国を含めて大きな支持を集めている時代に、あくまで私たちリベラル人士が自分たちの理想をあきらめたくないならば、単に「欧米的理想から見てお前たちは間違っている」と殴りにかかるのではなくて、「相手がそれを受け入れやすいようにするにはどうしたらいいか?」について真剣に考える必要があるわけですね。

その大事な配慮の一つに、社会において、「100対ゼロで誰かを糾弾し続けるだけに終わる」ようなモラルハザードが増殖してしまうのを避ける・・・という視点があるわけです。

なぜなら、

実際にそういう風にその社会の共有軸を考えなしに破壊しにかかると、その自然な反発の結果として、逆にファシズム的な全体主義を止められなくなってしまうから

なんですね。


●よく持ち出される「ドイツの場合」が実は持っている欺瞞性について

ここで、よく持ち出される「ドイツの場合」という話に対するより広く深い考察が必要になってくるんですよ。

「色々と無計画に暴走した結果あちこちに不幸な事例を引き起こしてしまった」日本と、「最初から意図的計画的に何百万人と虐殺しようとして実際にやった」ドイツでは、そもそも「やったことのスケール感」が全然違うじゃないか・・・という話が日本のナショナリスト側からの定番の反論なんですが、まあそれは「量の問題じゃないんだ」という立場もありえるでしょうから今は言いません。

ここではもっと「人類社会における善悪」といった問題を考える時に、本来どういう考え方をするのが「理想」であるはずなのか・・・という論理展開の話をします。

純粋に「ホロコーストの再発防止」を考えるならば、それはドイツ国内だけの問題では終わらないですよね?

そもそもの第一次大戦後の戦後処理がドイツに対して厳しすぎたからだとか、色んな「戦勝国側」が気をつけるべき課題だってたくさんあるはず。まあどう考えてもゼロじゃないですよね。

つまり、7割ぐらいはドイツ人になんとかしてもらわないと困るけれども、残りの3割は、「戦勝国」側にいる、「私ら何も悪いことしてない庶民なのに・・」って言ってる人にもちゃんと考えてもらわないと困る課題がここにあるわけです。

ドイツの場合は、「ナチス」を徹底的に否定しても、「輝ける欧米諸国の一員としてのセルフイメージ」に乗っかかることができるので、この「3割を相手にも持ってもらう」ことをサボってしまって、全部過去の自分のほんの一部の特殊例をトカゲの尻尾切り的に断罪することで「安定」しているんですね。

もちろん、悲劇的戦争がやっと終わった欧州諸国の内部において「そういう手打ち」が必要だったという歴史的な重みは十分理解できるけれども、それは本来

「そういう風に手打ちにしておくと欧米諸国内において納得が得られやすかった」

というだけの話であって、そもそもこのホロコーストの再発防止みたいな本当のフェアネスから考えるとかなり問題があるわけです。

「欧米諸国の内輪の話」を超えた「より地球全体の人類の話」という巨視的な見方に広げていくと、人々の無意識の欧米中心主義みたいなものが世界中に一気に広がることによって、「それぞれの国においてちゃんと責任を持って運営をしていく仕組み」自体を考えなしに果てしなく掘り崩してしまう現状の中で、新興国では果てしない内乱になるか、逆に独裁で強引にまとめることでなんとか経済的発展を実現していくか、どっちかしかなくなってしまっている現状があるわけですね。

つまり、「ドイツ人の反省」というのがどういうことをやっているかというと、

「欧米文明から周縁化された存在が、果てしなく糾弾され続け、その本来的な安定性をも崩壊させられてしまう」問題がある時に、ドイツ人は自分たちが持つ特権的な「欧米文明の輝かしい一員としてのアイデンティティ」を強調することで安全圏に避難し、その問題を「ドイツよりももっと辺境の、アジアとかアフリカとかそこらへんのわけわからん有色人種が住んでるわけわからん国々」に全部押し付けて終わりにしている

・・・みたいなことなんですよ。

これはドイツ人自身が自己批判している文脈の中では、いわゆる「ハンナ・アーレントの疑義提出」みたいな話をよりアジア的な視点まで普遍化すると出てくる課題なんですよね。

これは、私たちリベラルのアジェンダにあるところの、「白人人種以外の美の基準を人々が謳歌できるようにする」みたいなところまで関わってくる問題なので、一緒くたに全部切除するような動きだと押しきれなくなってるんですね。


●東アジアの問題は東アジアの文化的伝統の上でやらなくては解決できない

そもそもの話をもう少しすると、カトリック世界の名作と言われるダンテの「神曲」では、キリストが生まれる以前だったギリシャの有名人なんかはどれだけ徳が高くても「地獄」で彷徨ってる・・・という話になっていますし、日本の戦国時代にキリスト教の布教を受けた日本人が、「じゃあキリスト教が伝わる前の私たちの先祖は地獄に落ちてるってことですか?」て聞いたみたいな話がありますけど。

ドイツ人の「反省の仕方」の中には欧米文明が持っている「しぐさ」が濃密に反映していて、お辞儀する文化の人同士はお互いお辞儀するとか、握手する文化の人同士はお互い手を差し伸べる・・・みたいな文化的共通コードの問題がある。

つまりドイツ人が近隣諸国と「相互に合意」できるしぐさと、日本人が近隣諸国と「相互に合意」できるしぐさは全く違っていておかしくない。

そういう「お辞儀するか握手するか」的な違いの反映がかなりある部分を、ある種の「倫理的上下」として断罪するような言論で押し切ろうとすれば、それは当然感情的反発も受けるよね・・・・ということが、よりフラットに「欧米的存在が相対化される21世紀的な空気」の中で見直してみると、体感としてわかっていただけるのではないかと思います。

つまり、アジア諸国間の感情的問題は、アジア諸国間における文化的伝統と合致する形で実現しないと永久に安定することはありえないわけです。


●「光」と「影」を両方全員で共有するビジョンを打ち立てる

じゃあ日本人が過去にいかなる面においても清廉潔白で悪いことは一切してないぞ!的な盲目的なナショナリズムに対して、私たちあくまでリベラルな理想を死守したい人間はどういう態度で向かって行くべきなのでしょうか?

それは、さっきの「ゴミの山の中からダイヤを取ってくる」話で言うならば、「欧米列強の侵略に対する決死の異議申し立て」の部分は積極的にリベラル側が認めて、そこまで否定される論理の暴走が起きることを抑止することが必要になってくるんですね。

つまり、ガンを切除する時に、大事な臓器まで丸ごと削ってしまわないように、適切な場合分けをちゃんとやることが必要なんですよ。

「欧米に対するアジア側からの必死の反撃」という「光」も東アジア全体で共有する。その「必死のチャレンジ」が止まれなくなり暴走をはじめて結果として巻き起こしてしまった惨禍のすべてに対しても、その「影」のすべての不幸に対しても東アジア全体で共有する。
「その両方」を「すべて」、もれなくダブりなく入れ込む神話を作り上げれば、私たちは立場の違いを超えて思いをすべて吐き出して共有する基盤ができあがるでしょう。

とりあえずまずは、少なくとも国内においては、「戦前全否定」という形ではなくて、

「欧米列強の侵略に対して必死で対抗しようとしたのは良かったが、その”無理”の結果いろいろな惨禍を国内外に巻き起こすことになってしまった。私たちは、立ち上がった勇気を誇るべきだが、その力を自分たちでコントロールしきれなかったことを反省しなくてはならない」

こういう「光と影がちゃんとバランスする」言論が安定的に通用する状況に持っていけば、「光」の部分も「影」の部分もどんどんそこに肉付けしていっても崩壊しなくなるので、「影」の部分における国内外含めた色んな問題の追悼もスムーズに行えるようになっていくでしょう。


●時代が下ると、より広域的な物語の共有が必要になっていくのは当然のこと

その「先」の東アジア的共有の話になってくると、ここでいう「光」の中に日清戦争も韓国併合もあるわけだから、そう簡単なことではないとは思います。

しかし、人間の感覚というのは歴史が下るにつれて「より広範囲から見た視点」を獲得していくようになっていますよね?

幕末のあらゆる日本人のチャレンジに対して、その時「敵側」にいた東北の人とかでも、現代になったら好きな人は特にこだわりなく物語として楽しんでいたりする。いまだに会津の恨みが・・・とか冗談としてでなく本気で言ってる人いたらまあちょっと変な人だよねって感じでしょう。(この例でもわかるように、幕末においては”光”がちゃんと扱えているからこそ、廃仏毀釈とか白虎隊の悲劇とか、そういう”影”もちゃんと問題なくみんなで共有できるようになっていますよね?)

どれほど広い現象になっているか知りませんが、最近中国において旧日本軍のコスプレをする「精日」という流行があって、中国政府が公式に非難声明を出すまでになっているらしい。

それはたぶん「よっぽどの変人」のケースだと思いますし、旧日本軍を「アゲ」ることが中国人を「サゲ」ることになっているなら、リベラルな私はあまり嬉しい気持ちにはなれないんですが、なんにせよ、そういう「光」を共有したい気分自体が存在しているんだという風に捉えるなら、そこには希望があると思っています。

「光」の部分をちゃんと共有できれば、逆に「影」の部分も共有できるようになる。問題は例の「モラルハザード」が起きないようにすることだけが必要なので、そこさえクリアできるなら、旧日本軍が行く先々で引き起こしてしまった色んな問題や、その他にも例えば在日韓国人が苦労してきた話で世界的ベストセラーになったイ・ミンジン氏の「pachinko」なんかを日本人が共有できる基盤もできるようになってくる。

今の時点ではなかなか想像しづらいかもしれませんが、東アジアの混乱が終結する唯一の道は、

最終的に例えば司馬遼太郎の「竜馬がゆく」とか「坂の上の雲」を、東アジア諸国でも「わがこと」として読んでもらえるようになるということであり、それが実現するにつれて逆向きの、例えばイ・ミンジン氏の「pachinko」について日本人が「わがこと」として読めるようになるということ

なんですね。

この「光」側の共有というのは、さっきも書いたように私たちリベラルのアジェンダにあるところの、例えば「白人モデル以外の黄色人種の美の基準をちゃんと謳歌できるようになる」みたいなところまで関わってくるので、そこまで一緒くたに切除するプランになっていると押し合いへし合いになって実現しなくなるんですよ。

日本が日露戦争に勝利したあとには、東南アジアからインドなどの色んな国の独立運動や、そしてアメリカの黒人の権利運動にすらポジティブな影響を与えた記録が残っており、「そこ」まで一緒くたに切除することは、リベラルな理想のアジェンダの中での自己矛盾があるために押しきれなくなってしまってるんですよね。

その「根本的なアンフェアネス」が含まれている断罪を、戦争の勝ち負け的な「権力勾配」を利用して押し切ろうとすれば、感情的な反感が行き場を失って募って、ありとあらゆるヘイト表現に結実してしまうという、この「一周回ってくる論理」を全体として把握した上での解決策が必要になっているわけです。

逆に言うと、日本側からは大変「言いづらい」ことだけれども、近隣諸国にも「この点」を共有してもらわないことには、本当の意味で「大人の関係」にはなりえないですよね?

人類の大きな歴史の流れとは関係なく、「巨悪」の大日本帝国が真空空間から突如出現してきて各地を蹂躙して回った・・・みたいな話は、まるで「なぜか世界征服を企む悪の組織」が出てくる子供向けアニメみたいな世界観じゃないですか。(いまや子供向けアニメでもこんなベタな設定ないですよ)


●日本語できる中国人のあなたへのメッセージ

では、最近日本語できる中国人と韓国人ってめっちゃいっぱいいるんだな・・・と実感しているので、どちらの人々にもメッセージを送っておくことにします。

まず、中国人のあなたにとってみれば、あなたがたの国は今「欧米諸国のあり方」を相対化しつつ社会のあたらしい理想の運営のあり方として、自分たちの理想像を世界に発信していっている最中にあります。

そして米中冷戦が今後も激化していくであろうことを考えれば、自分たちの「建国神話」が、単に1945年の戦争の勝ち負けといったレベルではなくて、「欧米諸国的なあり方にあたらしい調和をもたらすビジョン」としてのよりビジョナリーなものに転換していくことが必要なことはご理解いただけるでしょう。

こういう「戦略的必要性に応じて大義名分を書きかえる」というような発想こそ、伝統的に中国人エリートがオリジナルの発想というところがありますよね?

今後とも、日本人の中の盲目的なナショナリズムは激化するところはあるでしょうが、しかし今の「意識高い系の仕切り」が、アジア的な知恵であり本来的なフェアネスを持った「7対3」を超えた「100対ゼロ」を目指しているために、彼らは多少の無理をしてでも異議申し立てを続けざるを得ない状況にあることは否定できません。

しかし、その結果として近隣諸国へのヘイト感情を撒き散らす結果になってしまっていることを心苦しく思っている、「ナショナリスト側の日本人」も実際には多くいます。孫子の兵法の国である中国人のエリートが、米中冷戦の時代に「はたらきかけるべきパートナー」はそこにいるはずです。

日本人は細かい事実関係がどうしたこうしたという話は得意ですが、本来的なこういう「ビジョナリーなストーリー構築」にリソースを割くことが苦手なために、もちろん私個人は今後とも妥協なくここの地点に「旗」をたてていくつもりですが、中国人のがわからも、この東アジアの「光」も「影」もみんなで共有するストーリーづくりに参加していっていただけると幸いです。

最終的に米軍基地もあるから日本と中国は「逆側の陣営」に残り続けてしまうでしょうが、しかしむしろ逆側の立場にいるからこそ、「ストーリー」のレベルにおいて日中が共有できるものを持っていることは、ある意味で大げさでなく「第三次世界大戦を避けるため」といっていいほどの重要性を今後持っていくでしょう。

そして、プライドの高いあなたがた中国人はこんな話は聞きたくないかもしれませんが、そうやって「自分たちの社会の国際的正当性」を日中で守り合うことができたら、近隣諸国や少数民族や香港や台湾について、まわりの「中国人とは違う考え方をする人びと」がギョッとするような行為は避けていただければと思います。

中国人は政府が凄い強引なことをしても全然慣れっこみたいですが、その他の国の人は凄いビックリするんですよ。

そういう行為がちょっとでもあるだけで、アメリカ一強時代の終焉にあたって、「中国でもいいかな?」とふと思ったりする瞬間もなくはないあらゆる世界中の人間が一気に「アメリカ側」にシフトしてしまうことを、ご自覚いただければと思います。

そういう状況の中で、ある意味で中国人側から見ると、日本側の盲目的ナショナリストに対しての「離間の計」的なチャレンジとして、この「東アジアのあたらしい調和」のビジョンを提示していっていただければと思います。

日本のナショナリストの中には「世界で一番原理主義的な反中の立場」みたいな人もいて、彼らは自民党政権の中で常に勢力拡大を狙っている状況にありますから、だからこそ今回の私の提案が今後の中国にとって戦略的重要性が非常に高いことは、あなたがたならご理解いただけるはずです。


●日本語できる韓国人と在日のあなたへのメッセージ

次に韓国人および、韓国側に常にシンパシーを持っている在日韓国人の人に対するメッセージなんですが、まあ私がやっているようなことを、いわゆる「政治的な韓国人」に賛同してもらえそうか・・・というのは結構難しいかもしれないと思うところはあります。

とりあえずまあまずは日本国内で、次に日中で・・・という広がりになっていくことは仕方ないかもしれないと思っている。

しかし、実はこういう話を「一番わかってくれる」人が韓国のどこかにいるんじゃないか、って思う時もあるんですよね。

私は結構韓国映画が好きなんですが、「1987,ある戦いの真実」でも、「JSA」でも、北朝鮮がわに関わる「世界の矛盾の中でスジを通す男」がよく韓国映画には出てくるじゃないですか。”パク所長”とか、”オ・ギョンピル中士”とかね。私は韓流男性アイドルグループはあんまりイイなと正直思ったことがないんですが、韓国映画に出てくる「そのタイプの矛盾を抱えた男」はメチャクチャかっこいいと毎回思います。

「パク所長」というのは、学生側が単純に理想化する「共産主義」というものが、実現すれば本来家族同然に育った人間同士でも殺し合いに発展してしまうような悲劇が起きることを北朝鮮出身だけに身を持って知っているからこそ、あえて過激な反政府運動を弾圧する役どころですよね?

つまり、韓国人は、いまだに20世紀的なドグマで国境線自体が分断されているために、国全体の視点で見るとかなり単純化された100対ゼロの視点しか政策化しづらい状況にあるけれども、「国民」レベルにおいては、実際に親戚とかが分断された状態に置かれ続けているために、「単純化したドグマで敵側だけを非難しつづけることの無理」を体感としては深く理解しているはずの国民なんではないか、と思う時があります。

韓国映画を見ていると、一方的な正義の断罪が行われる背後において、こういう「断罪自体が持っている無理」を本当に血をもって知っているからこそ出てくる表現みたいなのがあって、政治レベルで出てくる「韓国人っぽさ」とは違うなにかが民族の記憶の中に深く共有されているのを感じます。

ベタベタな「断罪映画」のように見えて、その「断罪の独善性」を血肉のレベルでわかっているからこそ出てくるキャラクターやセリフが映画のそこかしこに隠されているような気がする。あるいは主人公がなんかなぜか最後死んじゃうパターンとかにそれを感じる。

その点ではこういう「最近の韓国映画の文法」に乗っかって作られたと思われる最近の日本の左翼映画の、薄っぺらい陰謀論みたいなのとは全然レベルが違うし、韓国の最近の政治状況に熱狂して、それに比べて日本じゃあ・・・って言ってる日本の左翼過激派さんともかなり違うなにかがある気がする。

私個人は、そういう韓国人の性質にはすごく共感するところがあって、東アジアの中で最も自分と近い性質がそこにあるんじゃないかとすら自分では思ってるんですよ。なにはなくともとにかく「正義」みたいなものにこだわってしまいがちなところがね。

このnoteをここまで読んで、あなたが怒りを覚えたのか共感したのかわかりませんが、「政治的な韓国人」の間で日本語が得意な人の中で、できれば私の本を読んでみてもらいたいと思っています。

ある意味で「一番の仲間」になれるか、それとも「不倶戴天の敵」になるかはわかりませんが・・・・「味方」だと思うあなたは、ぜひ話しかけてきてほしいと思っています。「敵」だと思ったあなたとは、妥協なくこの世界における影響力競争を戦うことになります。私は決して妥協することなく徹底的にやっていこうと思っていますから、あなたがたも全力を尽くしてください。

ただ個人的には、こういう「あたらしい東アジアの共有軸」を作っていくにあたって、ある種の「功利主義」というか戦略論的にこれに取り組む日中のエリートよりも、「本来あるべきフェアネスがどこにあるのか」みたいな青臭い話としてこれに取り組んでくれる韓国人の仲間ができることを、私は心の底から望んでいることは知っておいていただければと思っています。


●「日本のナショナリスト」のあなたへのメッセージ

そして最後に、日本の「ナショナリスト」さんへのメッセージなんですが・・・

まあ本来、私はこれ以上ないほどの「愛国者」でもあると思っているし、そういう意味では私とあなたがたの間に対立する問題はそもそもないはずだとも言えます。

本書「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」の視点から見ていけば、日本人1億数千万人の「本来的な善き意志」を、留保無く世界の中で示せるチャンスが向こうからやってきています。

ただ、日本のナショナリストさんは、たとえば「歴史戦」とか言った時に、凄い細かい歴史的事実を延々述べるみたいなことになりがちで、そういうのだけでは、よっぽど興味ある人以外には決して響かない。そこは中国や韓国の「競争相手」から学べることが多いと思います。

日本のナショナリストさんから見れば、これを単に歴史問題云々の話ではなくて、「100対ゼロに果てしなく”敵”を断罪し続けて混乱する欧米社会の悪癖」を超えた、「お互いのフィードバックを受け合いながら、ちゃんと理想を一歩ずつ現実化していける社会」にしていくんだ・・・というような「あたらしい理想を語るモード」で対抗していくことが必要になってくるでしょう。

自分たちの良さを世界の中で堂々と訴求できる、あたらしい普遍性を持った正義の旗を、みんなで協力しあって生み出していきましょう。

私は半分思想家、半分経営コンサルタントのキャリアを歩んできており、インテリ世界内の議論を参照しあったりするのがあまり得意ではないので、ここまで述べたような論理を、ハンナ・アーレント的な問題の捉え返しから、欧米的な思想の最前線として再生するような試みを、私のようなエセじゃない本式のアカデミックなインテリの人たちにはぜひともやってほしいと思っています。

たぶん色んな欧米思想だけでなく、キリスト教神学みたいなものも動員して、この「新しい調和の共有軸」を欧米人の論理の先に構築していくことが、今人類の喫緊の課題だと思いますし、日本人のインテリが「わがこと」として挑戦できる大きな課題だと私は思っています。

そして最後に、現行の意識高い系の論理自体が取りこぼしている「ゆがみ」があるので、多少は強引なやり方で日本のナショナリストの立場をねじこんでしまわないといけない情勢にあることは理解できますしその点においては大変敬意を抱いていますが、しかし同時にだからといって関係ない韓国人や在日韓国人のSNSアカウントに悪口雑言をぶつけにいったり、国内の韓国人街でやたら威圧的なデモをやったりするのは、徐々にやめていっていただければと思っています。そういう行為は今後日本人が胸を張って提示していくべき本来的な正義の旗を汚すことになってしまいますからね。


●東アジア諸国の本国民とアジア系アメリカ人の相互作用の中から生まれるあたらしい世界的潮流について

また、「まぼろしのあとがき」部分には、最近私と妻がいつも趣味で見ている「アジア系アメリカ人の文化」の話も紙幅を割いて書いてあります。

アジア系アメリカ人ユーチューバーの日常紹介動画を見るのが私と妻の趣味なんですが、彼ら「親と会話出来る程度には東アジアの祖国の言葉ができるが、基本的な母語は英語」という層は、アメリカ人風の個人の権利意識は当然持っているけれども、日系なら日本の漫画だったり、韓国人なら韓流コンテンツ、中華系なら色んな中国のコンテンツに「言語バリアなし」で触れて育っており、「アメリカ的な個」と「アジア的な調和」を同時に内的にかかえて生きている感じなんですよね。

マイケル・ジャクソンの「ブラック・オア・ホワイト」の時代には、「名曲だとは思うけど、イエローは?」みたいな扱いだったアジア系アメリカ人が、世界経済全体のアジアシフトなども経て「あたらしい声」を獲得していく大きな流れの中で、防弾少年団や映画「Crazy Rich Asians」のヒットなどが見られるようになってきている。

そういう「アジアの声」がアジア系アメリカ人を通してアメリカ社会や世界に浸透していく中で、過激化してフラグメント化した派閥同士の罵り合いを超える視点を提供していく「なにか」が求められるようになっていくだろうと私は感じています。

アメリカ黒人の文化がジャズやヒップホップその他を通じて米国社会に染み渡っていくとき、それは「それまで」とは全く違う行動様式や考え方を生み出しました。

一方で「アジア発のもの」はまだそこまでの「独自性」を獲得できていない場合が多く、むしろアメリカ黒人の運動の影響を抜け出しきっていない部分もあります。

これからの「アジアならでは」の価値が、アメリカ的な個人主義と干渉しあい、「どちらかを否定するのでなくあたらしい文化的調和を生み出していく」時に、そのコアなっていく「欧米にないアジア・オリジナルのなにか」は、まさに「毛沢東に対する7対3の態度」に象徴されるものであると私は考えています。

そういう流れの中での巨視的なレベルにおいては、いつまでも「加害・被害」といった関係性だけで東アジア三国を見る構図では限界がある。

日本人が中国や韓国に対して反発心を覚えるようになったのは、彼らを「下」に見ていたのが、経済的繁栄において並んできたからだ・・・という議論がある。まあそうなのかもしれません。

しかしそれは逆にいえば、「下」の立場なら許されていたことが、先進国レベルの繁栄を享受していくことで、よりリアルな「国際社会的事情」に対しても我が身で引き受けてもらわないと困る・・・ということでもあります。

つまり、巨視的に見れば「純粋な被害者」とか「純粋な加害者」という設定自体に無理があり、「大きな歴史の流れの中で、どこかの誰かがとんでもない加害をしないように持っていく責任は、その加害者をとりまくあらゆる人にある」というレベルで物事を考えてもらう必要がでてくるわけです。

アジア系アメリカ人を通じて世界に還流していく「アジア的なソリューション」の元ネタを、おおもとのアジア本国がわが彼らとの連動性の中で獲得していくことが、今求められているのだと私は考えています。


●ぜひ「みんなで豊かになる社会」の本全体をお読みいただきたいと思っています。

この「まぼろしのあとがき」の無料部分は以上です。

これで興味を持ってくれた方は、ぜひこの「まぼろしのあとがき」単体ではなくて、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか」全体を、マガジン形式で購入いただければと思っています。

この「まぼろしのあとがき」の部分にも本の中で導入してきた色んな用語や文脈が使われており、本書全体でトータルに読んでいただかないと意味がわからない構造になっていますので。

東アジアは果てしなく混乱している状況ですが、今までのような「20世紀的な無理やりのタガ」が吹き飛んで、元には戻らないところまで紛糾しているのは、ある意味で「チャンス」だと思っています。

東アジア的調和を求める、日中韓それぞれの人々の本能が果てしなく発揮されていくとき、「20世紀的な分断のタガ」を超えたあたらしい共有点は姿を現してくるでしょう。

立場が違う色んな人がこの文章を読んでいると思いますし、これから先も決して妥協できない一線がそれぞれにあるでしょうが、その妥協できなさを最後まで押し通す時に、私たちが共有できる「もっとも大きなビジョン」は具現化していくのです。

あなたと私は今は敵かもしれませんが、わかりあえる日を私は夢見ています。

ここまでの無料部分だけでも、共感された方には、感想など、聞かせていただければと思います。私のウェブサイトのメール投稿フォームからか、私のツイッターに話しかけていただければと。

以下には、「まぼろしのあとがき」本文が掲載されています。

だいぶんお安くなりますので、「はじめに」のページに戻っていただいて、ぜひ一冊分まるごとの「マガジン」形式で購入いただければと思います。


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倉本圭造の5年ぶり新刊、『「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?』についての先行公開noteです。一章ごとに分割してno...

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新刊先行公開「まぼろしのあとがき」の部分。「21世紀の東アジアの平和のためのあたらしい”メタ正義的”な解決法」について。

倉本圭造

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倉本圭造

最新刊『「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?』先行note公開中!原生林のような豊かでタフな経済の実現を目指す、経営コンサルタント・経済思想家。著書に『日本がアメリカに勝つ方法』『21世紀の薩長同盟を結べ』。

倉本圭造の5年ぶり新刊先行公開note

倉本圭造の5年ぶり新刊、『「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?』についての先行公開noteです。一章ごとに分割してnoteにしてあります。
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