『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味(17年1月1日)のブログこぼれ話

ブログこぼれ話って何なんだという話をまずはします。
この記事の元記事
でも書きましたが、今は本当に世界の現象を語るのがどんどん難しい時代になってきていて、油断するとほんと「右か左の紋切り型」で逆側にいる人を罵ってるだけの話になっちゃう。


だからこう、一歩ずつ丁寧に話を進めたいんだけど、ブログって「初めまして」の人も沢山読むので、予備知識や私の普段の活動からの文脈とか、そういうのを前提としないで、「毎回ウォーミングアップから」始めないといけないんですよね。かつ数千字が普通で、1万字とかなったら「ブログで書くことか?」ってなっちゃう。


でも私がブログ書くとすぐ1万字とかなっちゃうんですよ。で、しかも「毎回ウォーミングアップから」始めてるんで、ノッテきたなあってところで終わりになっちゃうんですよね。本当はもっと色々書きたいことがあるのに(そして私の文章を楽しみにしていてくれるタイプの読者さんなら楽しんでもらえるだろうに)という領域は沢山あるんですよね。


ただそれをブログでやると、その記事を「入口」として入ってきてくれた人にとっちゃ明らかにトゥーマッチだし、思う存分本音を語ったりするとネットはいつ揚げ足取られるかわからないし・・・ってところがあるので。
だから毎回、ブログ一回分に付随した色んな話を「こぼれ話」として記事にして、300円払ってくれた人だけ読めるようにしようかな、と思っています。今後定例化したい。


氷山の一角って言葉がありますが、「氷山の水面上に出てる部分」がブログ記事だとすると、「氷山の水面下」の部分をそのままダァーと「語って読んでもらう」という趣旨でしょうか。


自分で言うのもヘンですが、「ファン向けコンテンツ」ってのは「万人向けコンテンツ」とは別にあった方がいいんですよね。

ミュージシャンの場合ですけど、テレビで歌番組に出た時にはみんな向けの最大公約数的な話をサクッとするけど、ラジオだとエンエン語ってたり、あるいは雑誌で数万字インタビューとかあったらそれをエンエン読むのが楽しかったり。そういうことって、僕が「ファン側」の時も色々ありました。
まあ、そういう感じで、コーヒー一杯飲む値段だし、時間つぶしに倉本圭造に付き合ってやるかという方はどうぞ。
というわけで、以下は300円払ってまで読むぜ!という方向けの話を。実際に書き終わってみると、むしろオモテのブログ記事以上に深掘りだけをしまくれて非常に有意義感のある文章になりました。


・今回のこぼれ話(約一万字超・・・最初の数段落だけ無料公開しておきます)

最近、人間の「可塑性」ってどれくらいなんだろうということをよく考えます。
人間、何歳になってもいつまでもゼロリセットしてそこからスタートできるのが人間だよ!!というようなことを言う人もいるけど、まあ個人差も大きいので一概には言えないものの、大枠で言えば人間はだんだん融通が効かなくなっていく生き物ではありますよね。色んな人を、クライアントや自分自身や親戚や友人、世の中の有名人を観察していると、やはり30代後半ぐらいになってくると、明らかに「昔とは違う融通の効かなさ」が人生には立ち現れてくるように見えます。

それは、既に「脳の回路」は不可逆に焼きこまれてしまっていたんだけど、その「変えられなさ」が何らかの異常(というかなんというか)として見えることが日常生活の中で多くなり始めるのが30代後半なのかもしれない。

要するに、もっともっと早い段階で、それこそ「三つ子の魂」的な話として「変えられないもの」が脳には焼き込まれているんだけど、色々とその「発現形式」にあたる部分、つまりCPUの型式でなくアプリケーション的な部分というか・・・要するに「現実の細部の手練手管」に近い部分ではまだまだ未確定な部分があるので、若い頃の人間は非常に「可塑的」なように見えているだけなんだという話かもしれない。それが、30代も後半になってくると(もっとはやい人も遅い人もいるだろうが人生のある時期には)、その「アプリケーションに近い部分」でも「その人なりのやり方」っていうものが確立してきて、仕事のやり方から人間関係の細部にいたるまで、「変えられないもの」が人生の中で大きな位置をシメるようになってくる・・・のかもしれない。
「かもしれない」ばっかり言ってますが、大枠で言うとそういう風な仕組みで人間の可塑性は失われていくんじゃないかという感覚を、私は最近持っています。

「可塑性を失っていく」ことが「老い」の側面だとして、それが一概に悪いことかというとそうでもない。というか、むしろこの「可塑性を失うことのポジティブな面」を真剣に把握しようとすることで、逆に人生全体として「あの人はいつまでたっても変わり続けることができているよね」という生き方になるんじゃないかという感じがします。
要するに・・・「無駄な可塑性」と「意味のある可塑性」ってのがあるはずだってことなんですが。
例えばピカソって人生の中でどんどん画風が変わっていった人ですが、あの人の「脳に焼きこまれている回路」は、「より本質的なレイヤー」のところにあるので、「自分の深いところにある不変性」を「その時々のあるべき形」に結晶化させるには、「画風」はどんどん変わっていって当然だった(本人にとっては)という構造なんじゃないかという気がする。
要するに、ピカソ的にどんどん変わっていったりしない画家は、特有の絵の具の使い方とか、ある特別な色を使うとか、テーマとか・・・何にせよそういう「ある程度具体的な部分」と固着したかたちで「その人の不変性」というのが焼きこまれているんだろうということですね。だからその「その人にとっての変わらない部分」を追求し続けると、「見た目も似た形」の作品が量産されていくことになる。
だから、人間はあらゆる人が、もう「不可逆に自由度を失っていっている」と考えるべきなんだろうと思うわけです。3歳の頃に可能だったような「次々と変わっていける能力」は失われていく。失われていくプロセスはほとんど色んな人間で変わらないぐらいに「人間の共有プロセス」という感じなんだけど、その「失われ方」は人によって大きく違う。
つまり、「自分をどんどん自由にしてくれる可塑性の失われ方」と「自分がどんどん不自由になっていく可塑性の失われ方」っていうのがあるはずだってことですね。

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『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味(17年1月1日)のブログこぼれ話

倉本圭造

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