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国葬も終わったことだし、そろそろアベvs反アベでなく、円安をチャンスに変えるリアルな転換について考えよう。

Photo by Tomáš Malík on Unsplash

安倍氏の国葬も終わったことだし、右も左も延々と「自分とは逆側の政治勢力が全部悪い」ってことにしてそいつらを排除できさえすれば全部うまくいくのに…という議論ばかり続けるのもそろそろやめたいですよね、という話で、昨今の円安状況を日本にとってのチャンスに変えるための方針について考える記事を書いています。

これは「前後編」の「後編」で、前編はコチラ↓

一個前の記事「前編」では、今の円安が起きているメカニズムについての基礎知識と、そこで日本が「変化に対応」していくべき方針について書きました。

前編をざっとまとめると、

・昨今の円安は主に米国との金利差が要因であり日本がもう終わりだ破滅だとかそういう話ではない。
・とはいえ、この円安傾向は当面続くはずなのでそれに対応していく事は大事。
・円安と低金利で、「製造業や観光業」といった「裾野の広い産業」が崩壊しないようにし、「弱者も普通に生きていける環境」を維持することがまず大事。
・それと同時に、世界的に取り合いになるタイプの人材に対して「治安その他込みで納得できる給与」を提供できる”ちょうど良さ”を社会のあちこちで最適化して実現していくことが必要

とはいえ、この「必要な変化に対応」というのが、一筋縄でいかないというか、政府が何かわかりやすい方針をゴリ押ししたり、「抵抗勢力をぶっ潰せ」的に単純に一つの方針を無理やり誰かにやらせるみたいな事では実現できない。

そこで必要になってくるのが「メタ正義感覚」と私が呼んでいる発想なんですね。

私の本からの図ですが、大事なのは「敵の言ってること」じゃなくて、「質問2」にあるように「敵の存在意義」に着目することなんですよ。

誤解されやすいんですが、「メタ正義感覚」というのは「無理やり押し切るのではなくちゃんとトコトン話し合って決めましょう」という風にすることで結局グダグダになってしまう…というような「対話の押し売り」ではありません。

むしろ、「メタ正義感覚」というのは「面倒な対話をせずに済む」方法を考えるという事と言ってもいい。

要は「自分の意見に反対してくる敵」がいた時に、どこにも逃げ場がない押し合いへし合いになったら結局何もできなくなるわけじゃないですか。「対話」して足して2で割った妥協策のようなものになって結局グダグダになったりもする。

その時に、「自分に徹底して反対してくるその敵の存在意義」を考えて、「自分たちの価値観的にOK」なやり方でそれを代理解消することができれば、最終的に「相手が突っ張り続けられる正当性」が根こそぎに崩壊するから押し切ることができる。

「反対する理由」を徹底的にこちらがわで代理解消することができれば、あくまで最後まで反対し続けるような人の正当性を奪ってしまうことができる。

それが「メタ正義感覚」なんですね。

勿論そのプロセスで、その「改革案」がより深く現実に沿ったものにブラッシュアップされる効果もあるし、単に意地で反対してるだけじゃなくて反対者なりの「理想」を持っていた人ならば乗っかってきてくれる事もありえるでしょう。

今日本を「前に進める」には、この「メタ正義感覚」が必要なんですね。

それは、国葬に向かって延々ヒートアップし続けていた「アベvs反アベ」的な不毛な論争を超えて、日本における政策論議がちゃんと実効性を持てるようになるためにも必要な事なのです。

前編でもやった自己紹介を簡単にすると、私は学卒で外資コンサルティング会社に入ったんですが、その後「グローバルな経営手法」と「日本社会のリアリティ」のギャップがどこかで大問題になる気がして(案の定20年たってアメリカではトランプ派vsリベラル派のような社会を真っ二つに割る大問題になってますよね)、その後「日本社会を上から下まで全部見る」と称してブラック企業や肉体労働やカルト宗教団体への潜入フィールドワークなんかをやった後、今は主に中小企業向けのコンサルティングをしています。(なんでそんな事を?といった詳しい話は先日受けた三回続きインタビューをどうぞ)

外資コンサルで日本政府や欧米の国際企業のプロジェクトもやったし、逆に日本に実は沢山あるかなりヤバいブラック企業の内実も知っているし、そして両者を繋ぐところにある優良な中小企業のリアリティも知っている。

クライアントの中には、ここ10年で150万円ほど給料を上げられた例もあり、昨今の「日本人の給料上がらない問題」に対して実地のいろいろな知見を持ってもいます。

そういう視点から見ると、今の日本の問題は「敵を作って非難してみせる」言論は溢れているけど、「結局何が問題なのか」を考える試みにはほとんど力を使えていないことに尽きると考えています。

「日本社会の実情を深く知っている側」は「グローバル側の知見や発想」を理解しようとしないし、逆に「グローバル側」からものを見ている人は日本社会の実情と向き合う気もなく上から目線で断罪しまくってるだけだし…というギャップを超えていくことこそが今の日本に最も必要な事なのだという事を、本やウェブ記事などで提唱してきているという感じです。

そういう視点から、昨今の円安局面を日本にとって良い方向に向かわせるために必要な色んな方針について考える記事になります。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●解像度が足りないから罵り合いになっている

先日ニュースピックスというメディアで堀江貴文さんが農業について専門家と語ってる動画を見たんですけど、堀江氏は牛肉で結構農業に関わっているので、単純に「古い考えの奴らが全部悪い」みたいになってなくて凄く良かったんですよね。

北海道の一部農業のように物凄く儲かっている農業と、山間部の棚田のような全然儲けはないがそこに存在する事の社会安定化効果が大きくて、観光などと組み合わせれば可能性がある農業など、そういう「千差万別の事例」に対する目配りがある議論をしていて、「やっぱりちゃんと関わっている分野では違うんだなあ」みたいなことを言っている人が結構いました(笑)

平成時代の「変革」の議論は、この上記の「千差万別」の事例を物凄く単純化して、例えば「農協のジジイどもが悪い」的な謎の勧善懲悪議論にして誰かを叩きまくる…みたいなことばかりやっていたから何も変えられなかったんだと私は考えています。

実際には、「野心的で儲かる農業」をしている層と「農協的存在」が敵対している例はそれほど多くなくて、むしろ補完的になっている部分も多いんですね。

「考えが古い老人どもが新しい考えを潰しているのだストーリー」で売り込みたい一部の非常に偏った考えの論者がそういう視点を押し売りして、「実際にそこにあるリアリティ」が雲散霧消しちゃうという「平成時代の日本あるある」状態になっている。

利害対立がないわけではないが、棲み分けてそれぞれの価値を発揮できるようにしたほうが良い例が多い。なぜなら「農協的存在」をぶっ壊して「ほんの一部の野心的個人」を活躍させると、それで共同体の安定感が崩壊したツケがその「野心的個人」の足を引っ張るようになることは疑いないからです。

同じような話が「企業が参加できるようにすれば全て解決するのに古い考えの奴らが反対して規制されているから進まないのだ」という話があるんですが、ユニクロだとかが鳴り物入りで野菜生産に参入したけどあっという間に撤退した歴史があるわけだし、そもそも実際今だって別に大した規制はなくて農地をリースで参入するなら株式会社だっていくらでも参入できるんですよ。

にも関わらず、”規制緩和できてないからだ!”と延々騒ぐという事を先日の選挙でも維新がやっていて、こういう「ちゃんと細部の利害を解きほぐすことから逃げて、雑に”あいつらが反対しているからできないんだ!”と騒ぐ・・・というモードこそが平成の停滞の元凶だと私は考えています。

農協には農協の合理性があり、そことフィットする形で、時代に合わせてバラバラだった農地が集約されていったり高付加価値産品にシフトしていったりという事は結構起きているんですね。

では何の問題もないのか?というと問題は大アリで、「農協的存在の内側にいる人ができる発想の範囲」では物事が進むんだけど、その先でどうしても変えきれないところがあって、耕作放棄地も増えているし、世代継承も進んでいないし、どこかのタイミングで何か「Xデー」的なことが起きるとは言われている。

冒頭紹介したニュースピックスの堀江貴文氏の話は、

「ダメダメ言われてるけどこういうところは良いし、時代の流れとしてこういう変化はちゃんと起きている。でもこの部分は明らかにダメで、今のままだとどこかで破綻が来るのは目に見えている」

…という感じの(動画では色んな話をしていて数行ではちゃんと要約できないので詳しい内容は動画を見て下さい)、非常に解像度の高い話をしていて、「そうそう、このレベルを出発点にしないと!」と強く思いました。

こういう解像度の高い話↑と、

「農協とかいう既得権益層が変化を拒んでいるからダメなのだ」

↑こういう平成時代の”あるあるトーク”との違いに我々はもっと鋭敏にならないといけないんですね。

「Xデー」的な危機が近づくことは本当に変わるためには結構必要なことだと思っていて、そうやって「集団側の危機感が高まる」と同時に、世の中の論客が「平成時代的誰かのせいにして罵るトーク」でなく「解像度高く問題自体に迫るトーク」の掘り下げができるようになっていけば、どこかで急激に色々と結びついて変わっていける実感が私にはあります。

私のクライアントには農家もいるんで、信じられないぐらい美味しいミカンを作る篤農家の人と、「農地の流通を透明化する仕組み作り」みたいな事をちょっとずつやっていっているんですが、彼は昔ビジネスマンをやってたのでそういうセンスがあるんですね。

そうやって「農協外の発想」を「実際の農業の実地の状況」と溶け合わせるような試みが今後もっと沢山必要なんですよね。

でもそれは、「農協とか言う古いジジイどもがいるからダメなんだ」とか「岩盤規制をぶち壊せば良くなるんだ」みたいな話をしていたら実現する話じゃないんですよ。むしろそういう「結局現場に向き合う気がなく、単にオラついて見せて論客としての自分を売り込むためでしかない議論」をある程度抑え込むことによって、「現場と知性の双方向のやり取り」が生まれてくる可能性がある。

そして、「全国一律に」やるという発想からも脱却しないといけないんですよね。

先進国では結構農業はほぼ補助金で動いている例が多いらしく、平成時代に熱情のように「農業補助金叩き」をしていたブーム自体がそもそも問題を履き違えていた可能性が高い。

農業人口って日本の人口の数%にまで下がってるので、下手したら全員を補助金で食わせてその分自給率上げますという政策だって別に大した出費にならない可能性がある。

そして、例えばスイスの農業はもう補助金なしには絶対ありえない構造になってるけど、補助金もらって成立している農業によって、「牧歌的スイスの風景」が成り立っていて、その上に巨大な観光産業の儲けが成立しているらしいという話も聞きます。

そういう意味では、「農協という既得権益を守る岩盤規制がー」という「平成時代あるあるのワンパターン議論」がいかに現実とズレているかがわかるはず。

世界的にもダントツで儲かってるぐらいだという一部北海道などの農業をどんどん邪魔しないように障害を取り除き、一品物の高額輸出商品を作れるところはそれを丁寧に育て、山間部の棚田みたいなのは補助金で支えてもいいからそこに観光業とのマッチングを準備する。

こういう感じで↑全国一律じゃなくバラバラにそれぞれに合った施策をやっていく流れを止めないようにすることが大事なんですね。

こういうのって、少数の頭の良い人が設計主義的にトップダウンにやるだけでは実現できないんですよ。もちろん非常に知的なリーダーシップが必要な領域はありますが、それは醸造食品を作る微生物さんたちの動きを活性化するような特殊な環境整備のようなものが必要なんですね。

2●「誰かを悪者にして騒ぐ平成時代言論」をやめて、「それぞれの個別性を引き出す仕組み作り」だけを考えよう。

ここまでは「規制緩和しろ!」型の平成時代の紋切り型を批判してきたので、「そうだそうだ!」と溜飲を下げてくれたタイプの人も多いと思うんですが、個人的に思うのは、そういう「平成時代の改革派」に反対する「現場主義者」みたいな人の中にもちょっとどうかなと思う人が沢山いるのが日本なんですよね。

むしろ「あまりにも時代の変化に対して聞く耳持たずに、個人の潔癖主義的ナルシシズムに引きこもるような人たち」が頑固に全ての変化を拒否しまくっているからこそ、「平成時代の改革派」はあんな感じになってしまったのだ…というように理解することがフェアだとすら思っています。

例えば、企業の農業参入みたいなのも、耕作放棄地が増えている現状では、例えば他の建設なんかの分野で繁忙差が激しい会社体などが参入してその耕作放棄地が埋まることが結構あるらしいので、最近徐々に増えているんですが、こういうのも

「人にとって根本的な”食”の世界にまで、汚らわしい株式会社の利益追求のネタにするのか?」

…みたいな(笑)ちょっと大げさに書いたからバカみたいですけど、でもこういう感じの偏見昔はかなりありましたよね?

でもさらに一周回って、農地をリースじゃないと株式会社が参入できないようにしているのは、せっかく長年公費をかけて造成した農地を、単に乱開発のネタにする企業が出てくるのを防ぐためだからで、そういう事まで考えると必要な規制ではあるんですよ。

こういうのを実情に合わせて、規制を緩めすぎもせずやりすぎもせず、スムーズに現場の人たちの転換が進むように動かしていくことが大事で、平成時代のイメージと違ってそういう差配を日本の官僚システムは結構うまくやれている分野もあると私は感じているのですが。

要は「誰かを悪者にして騒ぐ平成時代の言論あるある」をいかにやめられるかってことなんですよね。

3●「ホリエモン」と「日本社会」までのラストワンマイルを掘りぬけば「鬼滅の刃」レベルの成功が生まれる

これは色んなところで言っていることなんですが、平成時代の堀江貴文氏のテレビ局買収劇と、鬼滅の刃の成功には実は共通した狙いがあったんですね。

例えばこのインタビュー↓で詳しく述べているので、リンク先を読んでほしいのですが。

https://www.minnanokaigo.com/news/special/keizokuramoto/
以下、上記リンクより引用

先程の「平成と令和の違い」という話としてわかりやすい対比として、「平成時代の堀江貴文氏によるテレビ局買収」と「令和時代の鬼滅の刃の大ヒット」が、読者の人にもわかりやすいのではないかと考えています。
実は鬼滅の刃の大ヒットをつくったビジネス面での仕組みには、堀江さんのテレビ局買収の「本来の狙い」と共通するものがあるんですよ。
日本のコンテンツビジネスはテレビ局がアレコレ丸抱えにしてしまっていて、動きが鈍いのが問題だというのは昔から言われてきました。堀江さんはそこを資本の力で無理やり引き剥がして合理化しようとしたんですね。
しかし、やり方が強引すぎて実際に日本社会の現場レベルで「コンテンツをつくる人たち」にそっぽを向かれてしまって買収も失敗することになった。
アメリカ型に「一握りの知的エリートの力」だけで社会を動かそうとして巨大な抵抗にあってしまった「平成時代」の典型的な一コマだったと言えるでしょう。
一方で実は『鬼滅の刃』も、資本関係を合理化することでテレビ局の支配を脱し、コンテンツそれぞれに合った最適な売り方ができるようにした事が大ヒットに繋がっています。
つまり、平成時代の堀江さんのチャレンジと、根っこの発想としては全く同じことをやっているんですね。
しかしそのプロセス全体に、「アニメ制作の事がちゃんとわかっている」人が深く関わっているために、「社会の現場レベル」と対決関係になっておらず、むしろ協力してお互いの一番良い部分を出し合って大きな成功を掴むことができている。
さっきの例え話で言えば、「水と油」という本来混ざるはずのないものが混ざってマヨネーズをつくれているわけです。
「アメリカの良い部分」を見習いつつ、単に「ディズニーみたいにできない日本は駄目だ」と言って終わるだけでなく、「日本社会の事情」と深く向き合ってオリジナルな対策をつくることができた事例なんですよ。
この「平成時代のホリエモン」と「令和時代の鬼滅の刃」の対比を見れば、日本社会がちゃんと「アメリカ型のエリートによるトップダウン」ではない独自の意思決定の文化を着々と育ててこれていることがイメージできると思います。

要は、平成時代の「ぶっ壊す型の改革」にも「意味」はあったんですよ。

日本社会が受け入れて変わるべき方向性を示してはいた。

一方でそれがちゃんと「日本社会のコア」と噛み合って無くてただ「ぶっ壊せ」というだけだったので、現場レベルで必死に反対する人が出てきて前に進まず、なんだかんだとグダグダどこにも進めないまま漂流し続ける20年を送ってしまった。

大事なのは、いわば「ホリエモンと日本社会との間のラストワンマイル」をオリジナルな工夫で埋めることなんですよ。

そういう部分は、堀江氏のような人はわからないし、配慮しすぎると彼のような人は美点を失ってしまうから、別の人が埋めていかなくちゃいけない。

彼のような人が嫌いな人は、この記事冒頭で書いたように、「彼の言っていること」ではなく「彼の存在意義」を理解し、それを代理解消することによってのみ、「堀江氏によってかき乱されている」と感じているその人の課題は初めて解決できるわけです。

「両者の美点」をシナジーできるようなオリジナルな工夫さえ動き出せば、世界レベルのヒットになった鬼滅の刃のような成功がポンと出てくるんですね。

当然そういう流れになれば堀江氏本人も乗ってこれる可能性もあるでしょうしね。

彼のやってることを全部見ているわけではないですが、和牛に宇宙ビジネスに…といろいろと実地にやってる今は、ライブドアでマネーゲーム的な事をしていた時よりもかなり「令和モード」に彼も変わってきているように思います。

面識は全然なくて動画とかウェブ記事とかの印象でしかないですが、もっとヤバい無責任な事を言いまくる「インフルエンサー」が沢山いる時代において、彼はそういう意味ではかなり世間イメージよりかなり実直な部分のある人だと私は思っています。

4●昭和の幻想に戻るのでなく令和の新しいスタイルへ

繰り返すようですが、平成時代に吹き荒れた「既得権益をぶっ壊せモード」に対しての批判がここまで多かったですけど、その「改革派に反対する現場主義者」みたいな人たちもかなり問題があるのが今の日本なんですよね。

「ホリエモンイズム」みたいなものがそのままでは日本社会のコアの紐帯を破壊してしまうからそれに対する危機感がある。それはいいんですが、それが「昭和の時代への牧歌的幻想」に戻っていくようなものになったらそれはそれでほんと大問題で、そうなったら色々と破綻するから余計に必死に「平成的改革派」が大暴れしなくちゃいけなくなってしまう。

例えば、中小企業の賃上げがいかに実現するのか?

実際に10年で150万円ほど平均給与を上げられた事例に関わってみて思うんですが、何らかの「効率化」なしにこういう変化はありえないんですよね。

ってそんな凄い難しいことをする必要はないんですよ。

・「その事業のビジネスモデルにとって非常に重要な部分の売り込みを、片手間でなく専門要員を養成して組織的にちゃんとやる」

・「提供価値のクオリティが客から見て下がらないように丁寧にコストダウンをやっていく」

・客から見てウザくなくポジティブな価値が感じられるアップセルの仕組みを整え、少額でもリカーリングビジネス(サブスク的なモデル)的な売上の立て方を作っていく

…、みたいな、ビジネス関係者なら誰でも思いつくようなことを、丁寧に現場的な人の輪と協業しながら「あこぎ」な感じにならずに長期的に一貫して浸透させていけるかどうか。

私はこういうのを、「スマホゲームをYou Tubeで配信者に教えてもらわずにできる程度の優秀さを持っていれば誰でもできるようなことをちゃんとやることが大事」というようによく言っていたんですが、最近もっと色んな人の実感に合う言い方として、

食材買ってきて定期的に自炊すれば食費を抑えられますよねというアタリマエのことができる余裕があるかどうか

こういう感じ↑だなと思っています。

SNSでよく話題になる、

貧困層はコンビニでカップラーメン買ったりしないでせめてドラッグストアでまとめ買いするとか、もっと言えば自炊すれば圧倒的に食費抑えられるのに・・・・ってそういうことができる余裕も失ってしまうのが貧困っていう状態なんですよ!

この感じ↑、日本の多くの限界的な零細企業にはかなり当てはまる例が多いように私は感じています。

最近出した私の本で詳しく述べましたが、こういう「自炊もできない状態」になっている中小企業はだんだん余裕があるところに統合していく流れを推し進めることは、給料を平均的に上げるためには必須であるように私は思えますが、この程度の事でも大反対する人がいるんですよね。

そういう人は、もう完全に例の「国債財源で財政支出をしまくることで力押しに全部解決する」以外の方策を受け付けない頭になっていて、そういうのはちょっと非現実的だと思います。

なぜそういう「昭和の時代に戻ろうとする牧歌性」に限界があるかというと、昭和の時代と違って、ちゃんと投資を継続できていない日本の中小企業ができるようなことは、韓国や台湾や中国どころか、東南アジアやインドですら簡単にできちゃう時代になってきているからなんですよね。

昭和の時代とは「グローバル中間層の爆発的成長」という情勢変化があって、単に昭和の幻想にすがるだけでは戻れないんですよ。

最近は東証一部上場の大企業の仕事を依頼されることもあるんですが、やはりあの程度の大きさになったら、「市場の圧力」的なものがないとちゃんと勝てる分野にどんどん動いて積極投資をして…みたいな合意形成は無理なんですよね。

それこそ船頭多くして船山に登るというか、右往左往しているうちに10年たってしまって外部環境が全然変わっちゃったのにずっと同じことをやり続けている平成時代の日本企業あるあるみたいになってしまう。

それに対して「株主資本主義の横暴を許すな!」みたいに言う人もいるけど、でもそういう人も、日常生活でiPhoneなら別ですけど大してブランド価値がなく中華製の三倍の値段のスマホを買うかって言ったら買わないですよね?

そういう意味では情勢変化に応じて「勝てる見込みのあるところ」に移動していくというのは、ちゃんと「高い給料を出す」「雇用を守る」ためにも必須なことなんですよね。

もちろん「それが行き過ぎて日本社会のコアを破壊しないようにするにはどうすべきか?」というのは真剣に考える必要はあるけど、「株主資本主義は是か非か」みたいなバカでかい議論をしていても仕方がない。

そうでなく、以下記事で書いたように日本社会が自分たちの強みを失わないように変化対応していくための実地のいろいろな工夫の集積をもっとエンパワーしていかないといけないんですね。

5●「反効率化ナルシシズム」が余計に「良くない効率化の暴走」に繋がってしまう

平成時代には「無配慮な改革派への防衛」という事情があったとはいえ、日本社会には「あらゆる”効率化”的な要素に反対してみせるナルシシズム」みたいなのがあって、それが余計に「血も涙もない効率化が大事な部分を破壊する」的な結果に繋がっているんですよね。

さっきの「選択と集中」にしても、企業分野では「選択と集中」は凄い大事なんですよ。

その「選択と集中するべき部分でも選択と集中を全然しない」から、なんか逆に「選択と集中しちゃいけない分野」で余裕がなくなって妙な「選択と集中」が暴走してしまうような最悪の展開になってしまっている。

なんかSNSを見たら学者さんたちが「間違った”選択と集中”が日本の研究力を破壊した」みたいなことをよく言ってますが、それは多分本当なんだと思うんですよ。

「薄く広く変な書類書かずに安定的に研究できる立場をいかに用意できるかが大事です」ってほぼ皆言っているのになぜ実現しないのか?

個人的に見ていて思うのは、全体の資金配分を考える段階で「東大や京大に資金を集中してやらないとできないタイプの研究もある」という事に対して、「メタ正義的」に考える人がいないからだと思っています。

自分が普段の仕事で合意形成を働きかけるならそう考えるというかね。

私はコンサル業の傍ら「文通」をしながら色んな個人の人生を考える仕事もしていて(ご興味あればこちら)、そのクライアントで東大で産学連携に関わっている人と最近話しているのですが、

「地方大と東大で同じ仕組みを作ろうとするから問題があるんじゃないか」

…という意見で一致しています。

要は天文学的予算がある米国名門大学の半分とか4分の1でもいいからなんとか対抗すべき分野で対抗できる部分が日本国内のどこかにはある事も必要だし、一方で「広く安定的に無作為にばらまく」資金も大事だし・・・っていう「それぞれの事例」に即した対応ができていないんじゃないかということです。

そして、

東大でできる産学連携の仕組みと同じものを地方大でも全部作るのは無理があり、それぞれのサイズ感に合わせた仕組み作りと、より大事なのは「必要な時に必要なヨコの連携」をして、東大にある機能を全国の大学も使える仕組みが必要なのではないか?

…というような話でした。

この記事冒頭で書いた、北海道の儲かりまくってる農業と山間部の棚田を同じ仕組みでやろうとするからオカシクなるって話と同じですね。

SNSで遠目に見ていて思うんですがこれは、「選択と集中を一切するな派」の人が、「東大に資金をある程度集めることの必要性」ごと否定してかかり、「ガクモンのなんたるかをわかってないバカどもめ!」みたいなことしか言わないから進まないのではないでしょうか?

こういう「反効率化ナルシシズム」みたいなのも、「平成時代風のぶっ壊せ改革派」と表裏一体の問題だし、平成時代には「防御」のために必要だったかもしれないけどそろそろ辞めていかないといけないんですよ。

「選択と集中は是か非か」みたいな大上段の議論に持ち込んでしまうと、さっきの「オレサマはガクモンの事がちゃんとわかってる知的な人間だけど、文科省の人間はそれがわかってないクズの小役人でしかないから」みたいな話を延々と内輪ですることになるじゃないですか。

そこで「メタ正義的」に「相手の存在意義」に向かっていって、「文科省がこういう風にする意味は何か?」ということをちゃんと考えれば、国全体のエコシステムとしてある程度「選択と集中」している事が必要な分野があるってことなんだなと理解できるはずで、あとは

「東大京大にこの程度の額集中させるのはいい。国際競争上それが必要な分野もあるだろう。一方で地方大が地方大としての役割を果たせるようにここの部分は書類や面倒クサイ手続きなしに確保する制度にするべき」

こういう全体像↑に向かって両側からトンネルを掘っていく「メタ正義感覚」があれば、かなり噛み合った議論に持っていけるはずです。

文科省?側の人も、「ある程度集中させないと崩壊する部分も悪平等的に破壊されるのでは?」という警戒感があるから、「薄く広くばらまく」案に抵抗すると考えられるので、「一色で塗りつぶす」のをやめて「メタ正義的」に解きほぐしていけばあるべき着地点は見つかるはず。

この問題はそんなに詳しくないからまだまだ細かい問題はあるでしょうし、これは議論の入り口にしか過ぎませんが、それにしてもみんな「知的」な人たちのはずなんでしょう?

SNSで”いつもの嘆き節”をずっと続けてないで、全体の構造がどうあるべきかメタ正義的に解きほぐして着地点を見つける動きを誰かやってくださいよ。やっぱ学者さんは頭いいなあ、って思わせてくれるのを期待してますよ。

6●「老人福祉を大事にするからこそ、福祉・医療分野の”効率化”は真剣にやるべき

既に相当長くなってきてるので最後に簡単に述べますが、この「反効率化ナルシシズム」は、「平成時代のぶっ壊せ言論」への防波堤としては大事だったから今まではまあいいとして、今後はできるだけ変えていってほしい最大の課題なんですよね。

その最大にして喫緊の課題が、増え続ける老人医療費と福祉予算の問題なんですよ。

ここを何らか”効率化”することは常に考えるべきで、なぜなら老人にかけている金額は今の日本で超莫大で、その1%とかを効率化するだけで、子育て支援とか学術支援とかで「こうなってたらいいのに」的にSNSでブツクサ言われているようなことは3つも4つも札束で殴ってお釣りが来るぐらいの規模感だからです。

国葬の費用が16億?東京オリンピックが1兆数千億円?でもそれって一回だけの出費ですよね。

社会保障費は”毎年”130兆円以上、さらに毎年数千億円とか増え続けているんですよ!

既に財務省が高額医療費制度を見直すべきみたいな事を言ったとかいうニュースを読みましたけど、ほっといたらそうなっちゃうんですよ。これから団塊の世代が後期高齢者になっていったらさらに大変なことになる。

「そこの効率化を考えるべき」というと、

「命を効率で測るな!お前ら氷河期世代だってそのうちお世話になる制度なんだぞ!」

…みたいなことを言われるんですが、氷河期世代代表として言わせてもらうと、今の制度のまま突き進んだらいざ自分たちが老人になった瞬間に突然物凄い制度改悪されるのは目に見えてるから言ってるんですよ!

日本社会が「見かけの安定」を無理やり維持するためのバッファーとして辛酸を舐めてきた氷河期世代の運命をなめるなと言いたい(笑)

ここにあるのはまさに「反効率化ナルシシズム」に浸っているうちに、「最悪の形の”ダメな効率化”が暴走する」っていうメカニズムなんですよ。

今までは「平成時代風のぶっ壊せ型改革派」への防波堤として必要だったのはわかるから、個人的な非難をしたいわけじゃないんですよ。

だから今までそういう意見だった人も、やり方を真剣に考えてほしい。ヤクタタズの老人どもにカネなんか使うな!みたいなことを言いたいんではなくて、老人に対して悲劇的な扱いを近い将来する事にならないために今考えなくちゃいけないことがあるっていう話なんですよ。

日本の医療制度凄いじゃないですか。アメリカみたいに金持ち以外まともな医療が受けられない仕組みでもなく、欧州でよくある無料なのはいいがメチャクチャ長期間予約を待つ必要があるわけでもない。医療従事者の高いモラルで支えられた医療へ安価に日本全国でアクセスできる。

「この制度」を守るためにこそ、むしろ真剣に「効率化」の事を考えないと、逆に「良くない形で破綻」するんですよね。

今なら、「ここなら削っても国民のQOLは落ちないだろう」という知的な配慮とともに変えていけるはずですよ。でもそれを拒否して、「命を効率で測るな!」みたいな事ばっかり言ってると、どこかのタイミングで問答無用の切り下げがやってくるんですよ。それでいいんですか?

ほんの1%程度、同じ福祉・医療効果を出しつつどこかを効率化する方法が無いと思いますか?ほんの1%とかでも全っ然違ってくるんですよ。それぐらいここには莫大なお金をかけ続けているのが日本だからです。

ほんの1%とかでも、国葬800回分(笑)以上の金額が出てきて、子育て支援だとか学術予算だとか介護職や保育職の給料とか、なにかそれらの「国の未来」に関わる問題を3つ4つまとめて札束で殴り倒せるほどの規模になってるんですね。

「シルバーデモクラシー」だから無理なんだよ、って言う人いるけど、この

「今の日本は”あまりにも巨額の”費用を高齢者向けに使っていて、同時に子育てとか研究開発とかには”あまりにも少ない”投資額になっている」という現実

が理解できれば、高齢層でも「そりゃちょっといかんな」と思う人も結構いるはずですよ。

こういう部分でも、人は結局「自分個人の利害だけで動くはずだ」みたいに思ってしまわずに、国としてどうしていくべきか、リアルな議論をしていくべきタイミングなんですね。

●まとめ

なんか、駆け足にあっちこっちの課題について「メタ正義的に解きほぐすとはどういうことか」を概観する記事みたいになっちゃいましたけど、扱った分野によっては僕自身詳しいところもそうでないところもあるので、個別の問題については多少誤解も含まれてると思うんですが。

ただ、「敵と味方に分かれて罵り合い」みたいなのを続ける余力はもう日本には残ってないぜ、って事なので、ぜひその「精神」の方を引き継いでそれぞれ読者の皆さんの詳しい分野で「メタ正義的」に動いていく議論をちょっとずつでも始めてみていただければと思っています。

私はいつも言ってるんですが、平成時代の日本が煮えきらずに必要な変化を起こせなかった理由は、「アメリカ型の改革」の副作用の部分もちゃんと見えていたからで、アメリカのように「強いところはほんと強いがダメなところはほんとダメ」みたいな社会にならないように昭和の経済大国の遺産を食い延ばしながら必死に自分たちで自分たちを傷つけ合いながら引きこもっていた意味は確実にあると思っています。

今後「アメリカ一強時代」の終わりとともに人類社会全体の空気が過去20年とは全然違ってくるんで、「アメリカの良い部分を取り入れつつ、ダメな部分を取り入れない」という適切な「令和のスタイル」の改革を実行していける準備がやっと整ったのだと理解しましょう。

昨今の円安構造は、問答無用にそれの「後押し」をしてくれると思いますし、インテリが絵を書いて末端が言われた通りに動く形でなく、「醸造食品を作る微生物さんたちの動き」のようなものをいかに活かせるかを考える新しいスタイルを見出していきましょう。

より詳しい話は、最近出した私の本などをよろしくお願いします。

日本人のための議論と対話の教科書

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここ以降は、ちょっと変なネットバトルに巻き込まれそうで躊躇があるんですが、「日本国債は無限に発行できるのだから全てそれで解決すればいいのだ」という発想について、より踏み込んだことを書きます。

何度も書いてきてますが、私は日本国債は自国通貨建てで、日本は世界一の経常黒字国なんだから、伝統的に思われていたよりもかなりの発行余地がある・・・という説自体には賛成なんですよ。必要な時にそういう「非伝統的」な使い方をすることを否定しない。むしろ賛成ではある。

しかし、「全く何の副作用もなく打ち出の小槌のようにいくらでも使える」という感覚が、徐々に通用しなくなってきたのが昨今の円安と諸外国との金利差がもたらす諸々の問題であるとは言えるんじゃないかとは思っています。

これも「メタ正義感覚」が大事で、今すぐ突然「額面レベル」で潔癖的にあらゆる事を考えて徹底的に緊縮しはじめるみたいなことは問題外だけど、「いくらでも発行可能なのだあああわはははは!」的にあらゆる事に対して強弁しまくるから「反効率化ナルシシズム」に陥ってしまっている現状自体は徐々に変えていくことがぜひとも必要で、その「ちょうどよいプッシュ」のために今回の円安の刺激を利用すればいいのではないかと私は思っています。

この問題については過去記事があって、基本的にコレ↑と考えは変わっていないのですが、特に上記記事から以下に引用した部分が、今後かなり重要になってくるんですね。

そもそもそういう宣言自体が、今後、円の価値を人工的に無理やり下げていく公式宣言みたいなものなので、それに応じて日本円を持っている人がみんな全財産を一気に外貨に変え始めたり換え始めたりしたら大変なことになる。
さきほど最終的には「印象」とか「人々の空気」の問題だから細かい数字の議論にハマるのはよくないと言ったのはそういうところで、そういう宣言をしても日本円を持っている(多くは日本人)が、国へのミサオを立ててというか、単に惰性でということなのか、我慢づよく円を持ち続け、円で預金をし、円の価値が目減りしていくのを我慢づよくボンヤリと眺めていてくれるのなら・・・しかしそうなるかならないかの「分水嶺」がどこにあるのか、私たちが前もって「わかる」というのは無理がありますよね。同じ金額の国債発行でも、「雰囲気」によっては大きく風向きが変わってもおかしくない。

要は、ヘッジファンドが買い叩いてきて云々みたいなのは、全然大したことないんだと思うんですよ。

そうじゃなくて問題は、”日本人が日本円を見限る時”が来ると全ての状況が変わってしまうってことで。

「日本人が日本円を見限る」って凄い大げさな言い方ですけど、例えば今後米国国債が5%とかになって、日本国債が0%のままで、

「銀行預金してても金利つかないけど、米国国債買えば5%にもなるのよ!」

…みたいなことがある瞬間日本で大ブームにならないとも限らない。その時の資金移動の規模感とかは、小賢しいヘッジファンドが自分が取れる範囲のリスクの中でチョロッと「売り浴びせ」とかするレベルではない地殻変動になってしまう。

そういう「限界」もあるので、「果てしなくありとあらゆる事がノーリスクで国債で…」みたいなのの説得性は徐々に落ち着いてくるというのが今回の円安がもたらす効果だと思っていて、でもそれは「今すぐ潔癖主義的に緊縮しまくらねば」という事を意味しないし、むしろ「限界を理解した分理性的にちゃんと使いやすくなる」効果すらありえると思っています。

要は「アレもコレもいっくらでも大丈夫なのだああわはははは!」って言ってる時は危なくて使いづらかったけど、「限界を意識しつつ長期的に見て少子高齢化で国が縮む一番たいへんな時期を乗り切りましょう」的な理性的視座が安定してくればむしろ使いやすくもなるんじゃないかと。

長年「MMT」を推進してきた方はちょっと「今までと違う意見」にぶつかったように感じるかもしれませんが、でも今まであなたがたが必死に推進してきた立場によって、日本社会は「グローバル市場の中の孤独な砂粒」みたいにバラバラに分解されずに自分たちの紐帯を守りきれたわけで、私はそこには凄い敬意を持ってるんですね。

そして、この問題は「そう信じる人が沢山いること自体がその信任を作り出す」みたいなレベルの話を含むので、今後も強くその立場を主張する一団がいることは、拙速な緊縮に走って大怪我しないために大事なことだとすら思っているんですよ。

だからここまでを読んでもあまり意味がわからなくて、「こいつはMMT理論にケチをつけてるぞ!」と思った方は、お願いなので僕につっかかってくるのはやめてくださいね。僕はあなた方の敵ではなくむしろ味方ですからね!

というわけで、以下の部分では、この「日本国債が破綻しない理由」の背後にあるのは何なのか?を本質論的にもう少し考えてみようと思っています。

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普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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