我々が起こすべき「静かなる革命」について・・・または「知性とは文脈力・空気を読む力」という時代の終焉(2017年3月8日のブログ:”日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法”のこぼれ話)

この記事は2017年3月8日の表ブログ”日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法”のこぼれ話です。こぼれ話というのは、一般向けブログは読んで貰える文字数に制限がある上に毎回文脈をゼロから積んでいかなくちゃいけなくて深い話ができないので、”氷山の一角のその下まで読める”文章読解能力のある人向けに、「表ブログを読んだ上で」の話を追加で話すという趣旨の記事です。先に上記リンクの表ブログを読まれた上で以下をどうぞ。

昔、いわゆる外資コンサルティング業界の出身者の結構有名な人がアメリカの名門MBA(経営大学院)に留学中に書いていたブログを読んで、凄く「なるほどなあ、わかるなあ」と思ったことがあります。

当時のブログはもう消されているようで今は読めないので詳細は忘れてしまいましたが、彼は帰国子女なので英語は全然問題ない人なんですが、MBAの教室で「高評価になる発言」をするコツ・・・みたいな話でした。

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とりあえず「今の話題」を「別の角度から捉え直す」発言を組み立てておいて、それを議論が煮詰まってきたところでスパッと取り出し、ついでに「周りから見た自分の立場」ゆえに否定しづらい「現場感ってコレですよね」的なエピソードを追加しておくとバッチリ!

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みたいな話で(笑)

つまり、MBAに集まるような人間の「議論」の中では、こういうフォーマットでこう振る舞えば「凄い!」って簡単に言われちゃうんだよね的なブログだったんですが、この感覚わかるなぁ!と思うと同時に、そういう議論がホイホイできちゃう(しかも英語で)優秀性を持ちながら、こんなのってある種下らないよね!という感覚が消えてない感じの中に、非常に物事に対して誠実な人柄を感じて好感したのを覚えています。

何が言いたいかというと、今回のこぼれ話のタイトルに戻ってくるわけですが、今の時代、「優秀さ」あるいは「知性」だと思われているものが、

「文脈や空気を読む力」

に限定されすぎている過去20年というのがあったし、しかし実際にはそんなものはいわゆる「知性や優秀さ」と呼ばれるべきもののほんの一部の特殊な要素に過ぎないという真実が徐々に抑えきれなくなって噴出してきている時代が既に来つつある・・・・んだろうということです。

ちなみにディスることが目的ではないので個人名は避けますが(わかる人はわかっちゃうけど)、そのMBAを成績優秀者の表彰みたいなのをもらって卒業した彼は、結果として色々あったあげく「非常にクリアーな論理で説明できるベンチャー」を始めたんですが、結果的にあまりにもその論理がクリアーすぎて奥行きに欠け、なかなか伸び悩んでいたりして、「彼ならもっと凄いことがやれたはずなのに??」という彼に凄く期待していた周囲の人間を困惑させてしまう状況になっていたりします。

彼は本当に知的に優秀で、単に狭い範囲でサクサク頭を動かせるってだけじゃない洞察の深さもあって、英語も完璧だし物腰も洗練されてるし、もっと凄いことができたはず・・・なのに、どうもこう、「文脈と空気を読む力が知性」という時代の流れの中に閉じ込められてしまったかのような不幸があるように思います。

怖いのは、引用したブログにあるように、彼本人には「こういう知性の働かせ方だけが真実じゃないということを理解できるレベルに知的」なのに、実際には「世の中の普通のモード」から逃れられなくなってしまうというこの矛盾なんですよね。

例え話として適切かどうかわかりませんが、例えば大学受験の数学で、単に「こういう問題はこう解く」という一対一対応の知識の運用だけができる人と、その問題がある背景や深みまで理解した上で、「そのほんの一例としての運用」としてのその問題を解くことができる人というのがいますよね。前者と後者は似たようなことをやっているようで全然違う知的作用を行っている。

例の彼の場合、「後者である能力がある」のに、社会全体が「前者」のような運営に埋め尽くされてしまっている結果、その中で曲がりなりにも「結果」を万人に認めさせるにはその「狭い範囲の知性の運用」に付き合わざるを得ず、結果として人生全体が「本来もっとできたはずのこと」から非常に狭い領域に押し込められてしまっているように見えます。

「外資コンサル」というと非常に狭い世界のようですが、それに限らず日本において何らかの「国際的なトレンドや標準」を持って日本社会の良くない部分を変えていこうというような方向性で頑張っている人(経営的問題にしろ、社会運動的問題にしろ)にとって、この「形としての成果を出すには良くない囚われ方をするしかなくなってしまう問題」というのは過去20年間非常に良くない作用を産んでいたように思います。

そういう「新しいムーブメント」がすべからく「理屈と現実との間をうまく繋ぎきれていない」結果として、その「不具合」への反発としてあらゆる「国外由来っぽいもの・理屈由来っぽいもの」をすべて根こそぎ排除して国粋主義的にまとまろうという志向だったり、あらゆる資本の論理を排除して共産主義的(あるいは”脱成長”論的)な理想を標榜することであったり、とにかくいろんな「最終的な希望から遠ざかってしまうような憎悪の盛り上がり」を産んでしまっているわけですが。

その今はどうもうまく噛み合ってない志向を、本当のリアリティとのラストワンマイルを彫り抜いて、他の国にはできなかった「資本の論理と現場の論理がガッチリ噛み合ったような世界」を実現したいし、その一歩手前までは来れているはずだ・・・というような話が今回の「表ブログ」の趣旨でした。

単純にまず、「いわゆるポリコレ的なものに反感持ってる層も多くは本当にそれを否定したいわけではなく、彼らの日常の運営のために必要な要素まで考えなしに否定されそうになっているのに反対しているだけだ」というような、こういう「全体的な連環」を理解することで、「悪扱いされるものによって現状維持されているもの」への「敬意」が払われるようになれば、どこまでも平行線の罵りあいの中で怨念だけが無限に膨らんでいくような現状を超える可能性の端緒となるだろうと思います。

まあ元々私はずっとここ10年ぐらいそのことばっかり言ってきたという感じではあるんですが、色々と時代の変化があって、単純に欧米的なトップダウンの仕切り方では切りきれなかったことによる恨みが世界中で、「リアリティからの逆襲」的なバックラッシュを起こしている今、「最初のボタンの止め方にちゃんと真剣になる」日本のやり方の今後の可能性が、追求しやすいタイミングがやってきているように私には思われます。

具体的にどうしていけばいいのか?は、細かくそれぞれの立場なりに習熟していくしかないわけですが・・・・

ヒントになるかもしれない良い本を去年読んだんですがね。

トヨタの自工程完結

これ、凄く良い本でした。キンドル版もあるのでオススメです。でもこの本の「良さ」は、ある種の人にはなかなか伝わらないかもしれない。当たり前のことを、無駄なエピソード込みで曖昧に書いてる本じゃない?というような印象になるかもしれない。

アマゾンのレビューを見てみると、そういう「当たり前のことしか書いてないのになんでこんなに評価が高いのかわからない」というような評価と、「オッス!トヨタさんのやり方、学ばせてもらいマッス!ありがとうございます!!」みたいな(笑)評価が並んでいて面白いです。

つまり言っている内容は、ある種の「(狭い意味で)”知的”な人間」にとってみたら当たり前なこと・・・だったりするんですよね。業務を標準化して一個ずつシッカリ再検討して共有することでもっとラクに成果が出るようになるよ・・・的なことです。なぜ?を5回繰り返して問題の真因に迫って解決するんだ・・・とかね。

ただこの本の良いところは、そういう「欧米なら知的階層の最先端の人だけが使えるロジックの展開」を、「”公文式”的なドリル風のものにしてあらゆる階層で共有できるようにしようとする意志」があるところなんですよね。

公文式ってありますよね。世界中で結構普及してるらしい。ある種の知的な人間はああいう「計算ドリル風の世界観」を徹底的にバカにしがちですよね。

で、そういうのが本来必要ないレベルの、抽象的思考に特性がある人全員に下積みなんだから10年間は雑巾がけからハジメロって言って公文式をやらせるのは愚の骨頂なんですが(ただ、たった一ヶ月でもいいから共有する機会が人生にあることは大事なことだと思います)、一方で「公文式的なものにまで昇華することで、そこに参加できる人間の数が圧倒的に増える」という現実的な効果について、現代社会は過小評価しがちであると思います。

端的に言えば、その「計算ドリル」的世界観を適切に活用することによって、「トランプ派」と「反トランプ派」はあそこまで分断される前に現地現物で、「お互いの良さを出し合える関係」に昇華することができるのに、今はここが分断されすぎているために、後からなんとかしようとしたってもう絶対無理という状況に陥ってしまっている。。

この本の中には、本来トヨタの工場の中で使われていた「考え方の手法」をいろんな事務職の職種にまで展開することで、煩雑でミスが発生しがちな業務が一気にゼロになったり、日々の仕事の中で業務プロセスが自然に改善洗練されていったり・・・という成果が出ている事例が具体的に沢山でてきます。

これって、「欧米風の知的さ」を振り回す「時給の高い人間」を入れたら、うまく行けばそれなりに進むはずの「改革」「変化」ではあるんですよね。しかしそれを「計算ドリル的なもの」にまで高めることで、「それほど時給が高くない人間」の力まで総動員して細部の細部までブラッシュアップすることができる。

この「計算ドリル化する力」こそが、前回のこぼれ話で書いた「遠藤周作&マーティン・スコセッシの映画サイレンス・・・に見るイーロン・マスク的テスラ・モーターズの運営の限界」の話になってくる。そして欧米文明に対して日本文明が、今のところ「とにかく良くない個人への抑圧」が残りつつも一応維持している可能性の”萌芽”があるとも言える。

「萌芽」が「萌芽」のままだと、今回の表ブログで書いたようにダイヤが眠ってるゴミの山みたいなものなんで捨てるわけにもいかない。だから個人主義的な人間の呪詛の声を大量に飲み込んで日本社会は抑圧的な社会で有り続けなくちゃいけなくなる。

逆にこの「末端の力まで吸い上げられる技術」自体を「ワザ」として習得し、適切に「資本の論理から現場の論理まで両側から貫通するメカニズム」が動き始めれば、我々はやっと「過剰なまでの個人への抑圧」から自由になって「やるべきことを普通にやって自然に成果を出して生きていく」ことができるようになるでしょう。

ただしその時、いわゆる「今知性だと思われているもの」が「知性ではなくなる」んではないんですよね。そうではなくて、「人間の知性の働き方の中で色々とある可能性のうちの一つ」として、「適切な重み付け」が与えられることになるんですよ。

それによって、「文脈運用的知性」が「現場的蓄積」を破壊することなく、しかし「現場的蓄積」が視野の狭さゆえに陥ってしまった隘路を「適切なタイミングで適切に大きな社会システムとの連携を成立させる」ことによって活路を開くことができるようになる。

とはいえそれを実現するには、この複雑に絡まりあった経済社会で自由に行動する個々人がちゃんと「全体的連携」を意識しながら動く必要があるわけで、例えて言うなら「個々人が自立して自然に奇跡的に連携し合うバルセロナのサッカーって良いよなあ!」って言ってるような難しさがあります。

この例え話の意味は2つあって、1つには「単純にそういう連携が難しい」というだけでなく、もう1つの意味は「その連携を目指すならまず個々人を自由にしなくてはならない」という難しさがあるっていうことなんですよね。

だからこういう「経済の本来的連携」を生み出そうとするなら、自由な経済活動に対してあまりにも抑圧的な政府の規制を良しとするような志向とはとりあえず距離をおかなくてはいけない。

今の「なんでもありに強欲な」システムが嫌なんだ・・・という志向があったとして、そういうのは簡単に”共産主義的”な無理矢理な統制を良しとする方向へ行っちゃいがちなんですが、それはそれで実際にそうなったら余計に困ったことになることは20世紀の歴史が証明するところです。

勿論、「徹底的に強欲な今の資本主義」と「共産主義」の間には一万光年ぐらいの距離があって、結局「そのあいだのどこか一点」という形で決着するしかないわけですけど。

まあ、その「どのあたりなのか」を神経質に細かくお互いの違いを議論しすぎると果てしなくケンカをし続けることになるので、その辺はナアナアにしつつ、「出来る限り経済のダイナミズムを損なわない形で、再分配とかも頑張ろう」的な世論をまとめていきつつ、我々としてはそこで確保した「自由」の上に、「FCバルセロナのサッカー的な連携」を目指さないといけないわけですが。

実際にこれをどうやって実現していくのか、という意味においては、いわゆる「ミドルマネジメント」の位置にいる人たちの振る舞い方を変えていくことがキーレバーになるだろうと私は考えています。

この「ミドルマネジメント」というのは、単に「課長さん」とかそういう役所が組織の中で付いている人・・・というわけではありません。

大枠で見た時に「資本の論理」と「現場の論理」というのが経済の中で拮抗していたとして、その間を取ってその両者を統合し止揚していく役割を負っている存在・・・がミドルマネジメントなんだと考えて下さい。

そういうふうに考えると、勿論特定の組織の中での「中間管理職」的な人が入るだけでなく、「資本の論理と現場の論理をつなぐ仕事」としてのコンサルタントやファンドの人たちや「雇われ経営者」さんたちも当然入りますし、官僚やメディアといった「風潮」や「環境」を作る役割も、本来的機能を突き詰めるとココの役割を果たすことが求められる時代なんだと思います。

最近、シリコンバレーに住んでるエンジニアの上杉周作さんという人が書いたブログを読んでいて凄く面白かった記事があったんですがね。

メチャ長い記事ですがなかなか読み応えがありました。日本語未訳のこの本が元ネタらしいです。

これ、フェイスブック創業者のザッカーバーグが、ある地域の教育改革に1億ドルもポンと寄付したのに、全然その地域の教育は良くならずにお金を使い果たすだけで終わっちゃった・・・という顛末について書かれているんですが、なんかもう「アメリカ的経営」の長所も短所も「あるある」すぎて非常にグッと来る話でした。

要するに「資本の論理」側から1億ドルとかボンと出して「この地域に注ぎ込み、圧倒的な成果を出してその後は全米に横展開するぞ!」とか、そういう思い切ったことができるのは、とりあえず「強み」になりえる(場合によるけど)要素と言っていいわけですね。

で、その「資本の論理」を執行する役員レベルの人たちも超野心的な人たちが揃ったりする。よしゴリゴリ押し出していって徹底的に改革してやるぞ!となる。

しかしその「資本の論理」側のスピード感が現場無視すぎて、ついていけない人が大量に生まれるんですよね。

で、その「ついていけない人たち」をバシバシしばき倒しながらゴリ押していく「ミドルマネジメント」役として「日給千ドルのコンサルタントたち」がワラワラと出て来るんですけど(笑)

これがねえ、いやほんと、「こういう役割」になっちゃうと、マトモな良心を維持してる人だったら心を病むよなあ・・・と読んでいて思いました。どっかで、「日本人なら維持してることが多い義理の連鎖」なんかは全部捨ててかからないと「ここの部品」にははまれそうにない。

日給千ドルって結構なものですよ。日給で十数万円ということですから、だいたい「数千万円」の年収を取る人たちということになる。で、この「数字の現場感」というかなんというか「ああ、こういう”(あえて言うなら)搾取的”な構造で数千万円になっているんだよなあ」という感じが、もともと思っていたことが明確に可視化された感じで非常に示唆的な記事だったんですが。

要するに、ある意味で彼らは「現場の本当の事情と向き合う」なんていうことをするつもりは全然ないんですね。「短期間でトップダウンに切りきれる方法」だけを模索していて、意地悪く言えば成功すれば俺の手柄ってことにするし、失敗すれば・・・というか”失敗”どころか短期間で成果が出ずにグダグダしてきたらもうその時点でソッコーで転職しちゃってもっと華々しいことができる機会へ逃げ出しちゃう。

で、残されるのは、投下された1億ドルがよくわからないところに流出してしまって消え去った混乱と、「現場の個別的事情を抑圧して”一般的なこと”をゴリ押ししまくるミドル」によって「無力感」を植え付けられた「現場」の人たちが残ることになる。

より深掘りした問題の根本部分をについて述べると、本来的に「それほどの本質的付加価値」がない「日給千ドルのコンサルタント」たちが、ちゃんと彼らの「高給」を正当化するために、わざわざ現場レベルの人たちの自己効力感を奪いまくるような「動き方」をしているという構造が、実はあるんですね。

本来ここが、エンジンからタイヤまでの間に適切に減速ギアやクラッチが入って回転数とトルクの力を最適化するように、「資本の論理」から「現場の論理」までが適切かつ自然に力が伝わるようになっていければ理想なんですが。

それはつまり、「資本の論理」によって成立させた大戦略について、その戦略から課題化された内容を「適切に計算ドリル化」して、ちゃんと「現場の主体的工夫」までシームレスに繋げられるかどうか・・・ということですね。

で、繰り返すように、「そういう本質的なミドルの価値」というのは本当にクリエイティブな知的作用を必要とするので、なかなかできない。そういう本質的価値を出さずに、ミドルマネジメントがアメリカで「まあ俺らもトップMBAスクール出たんだしこれぐらいはね?」というような高給を正当化するには、本来「計算ドリル化」ができればちゃんと「現場の主体的工夫と自己効力感」を涵養しながら自律的な運営に持っていけるところをそうせずに、むしろ「現場の自己効力感を奪うような振る舞い」自体で正当化しようとする作用がある。

この振る舞いってほんと「コンサル」的な立ち位置にいるとついやってしまう問題で、そうしないようにできるかが「本質的に良いコンサルティング会社」かどうかの分水嶺・・・といっていいぐらいですし、さらには「良いコンサルティング会社」だったところもちょっと油断するとどんどんこの「現場をスラム化させる振る舞い」が横行して「それこそが優秀性」みたいな雰囲気になっていっちゃったりする難しい問題なんですよね。(あなたが学校の先生とか塾の先生とか、何らか”教育”に関わっている人で、マトモな感性がある人間であるならば、まさに”そういうふうになっちゃう問題”について常に考えてしまう難しさに日常的に直面しつつ働いておられるだろうと思います)

ここまでの話をまとめると下図のようになります。


で、上図の一番下の指差しマークのところで書いたように、普段の日常の経済マネジメントが「こういうスタイル」で行われているのに、後から「政治的課題」として扱って「分断を乗り越える相互理解を」とか言ってもこりゃ無理だろうという感じがします。大河の流れを手酌ですくって移し替えようとするような感じで。

で、さっきも書いたように、日本においても・・・なんですが、特に現在グローバルに共通化が進んでいるMBA的なマネジメントスタイルが通用する世界においては、もしあなたがこの「ミドル」の位置に入った時に「個人の収入」のことだけを考えるとこの「単なる無思考的トップダウン」でバッサバッサ切りまくることが「合理的」であることは多いです。

ただ、「個人として合理的」であっても「全体として合理的」かどうかはそうでないことが多い。あるいは「場合による」というぐらいの言い方が適切かもしれない。

「場合による」という言い方は非常に控えめですが、その意味は上図の左から二列目のタテ列で書いたように、「アメリカ風の典型的なダメ例」も問題だけど一方で「日本風の典型的なダメ例」もまた、確実に誰のためにもならない不幸に陥るからなんですよね。

ミドルが「バッサバッサ切りまくる」ことで「今までになかった価値」が社会の中に実現していく”時もある”。

だから単純に、じゃあこの「日給千ドルのミドル」層がやってることを何らかの強制力で共産主義的にガチガチに縛り付けてしまえばいいんだ・・・というふうになると、それが余計に経済のダイナミズムを損なってしまって全体として経済の熱量が不足し(つまり不況)結果として誰のためにもならない可能性はある。

さっき貼った図の二列目の「日本」の場合で言うと、上から下に切っていく力があまりに弱すぎて、現場に張り付いて必死に細部まで詰めるのはいいけど誰もそんなこと求めてないし!というような領域でそれが行われるために成果が出ないのに悲惨な過重労働が必要になる「バンザイ突撃」状態になってしまっているのは誰もが認めるところです。

だからこの「分断」を乗り越えるには、上手の一番右の列のようになるように持っていくしかない。そのためには、「ミドルの位置にいる個人」として見た時に、「単なるトップダウンで押し込むより、あるいは単なる課長さんで終わるより、全体的な構造を見た上で両者がシナジーするように持っていく仕事をした方が個人としても儲かるという状況」を作り出せるかどうかがカギということになります。

勿論、高潔な個人の意欲によって乗り越えることが必要な部分が当初はあるでしょうが、それが上記のように「個人の収入としても合理的」な状況をいかに作り出せるかどうかが、大きな社会全体の問題が自然的に解決していく方向に動くかどうかでは分水嶺となってきます。

で、日本の場合、現在「課長さん」側にいる人は企業内でほぼ終身雇用的な立場にいることが多いですから、「個人の収入においても合理性が」といっても別に「日給千ドル」レベルに到達しないといけないわけでもないわけですね。

その意味ではマトモな企業で出世していくには「全体的戦略と現場的事情の2つの言葉を使い分けながらシナジーさせる力が必要」だという話で言うなら、既に結構そういう状況にはなりつつあると言えるかもしれません。(少なくともマトモな文化が生きている企業においてはね)

今は、本当に「現場代表的な課長さん」と「マクロな事情しか見てない意識高い系」の2つのロールモデルがせめぎ合ってる過渡期的混乱にある組織も多いでしょうが、いずれ混乱が収まって日本企業ならではの勝ちパターンが見えてくれば、上図の「左から三列目」の状態へ「課長さん」経由で至る「個人の合理性」は徐々に固まってくるだろうと思います。

一方で、「資本の論理」側に生きている人・・・それこそコンサルタントとかファンドの人とか「プロ経営者」の人とか、ちょっと違うところではメディアとか官僚の人も「援護射撃」的な意味ではそれにあたるんですが・・・の場合はそう単純ではありません。

とりあえず、もしあなたがコンサルとかそういう「資本主義の犬」たちがキライな人なら、その怨念をぶつける圧力を今後もバンバンかけていくことが必要かと思います(笑)

その「怨念」の暴走は社会を共産主義的なガチガチの統制主義に陥らせて余計に不幸になる可能性をも秘めてはいますが、「危うくそうなっちゃうほどの怨念の暴走」こそが、「単なるトップダウンでは駄目ですね」という方向性に金銭レベルでのリアリティを与えるだろうという感じもします。

日本というのは、世界のコンサルティング業界の中でGDP比での売上が物凄く少ない地域なんですね。コンサル嫌いというか。この前ある外資コンサルタントを名乗るネットの匿名の人が、「日本のコンサルティング業界の売上は他国に対して圧倒的に小さい。それはマネジメント後進国である証拠だ」みたいなことを言ってて、「よくそんな独善的なことが言えるな(笑)」と思ったことがあるんですが。(そのレベルの”抑圧者”の方が活躍しやすい段階に、不幸にも今の状況はある・・・ということなのかもしれません。気をつけましょう)

ただ何がその「売上の小ささ」に繋がっているかというと、日本に生きていると「思う存分現場を無視して下まで切りきるようなことはできない」ために、アメリカだとあっちこっちにある「日給千ドルで現場をバッサバッサ切りまくる仕事」みたいなものが成立しづらいからなんですよね。

その「難しさ」にちゃんと「逃げ場なく向き合わせる」圧力さえ今後かけていけば、ある段階からそれこそ本当の意味での「神の見えざる手」が働いて、「日給千ドルを安定して得るには、単にトップダウンに切りまくるだけじゃ駄目だね」という方向に自律的回転が始まるのは結構近いだろうと私は感じています。

例えばコンサルだと「切りまくってハイ終わり」で逃げてもOKな状況はまだそれなりにありますが、これがファンドになってお金を入れて一緒に成長して・・・となるとそれでは済まないことが多いですしね。

大前研一氏が現役だったころのように、大昔は物珍しさで重宝されたコンサルビジネスも、日本企業側も色々と「賢く」なってしまって色々と難しくなってきている・・・という話もよく聞きますし。日本国内でそれなりにちゃんとやっていけているコンサルタントなら、この「資本の論理と現場の論理」をシナジーさせるための「自分なりの考え」に、当然ぶつからざるを得ない中で頑張っている状況は共通して存在します。

「必要がなければ発明もない」というわけで、日本以外の「グローバル資本主義が普通に動いている世界」においては、この「日給千ドルのコンサルタントたち」が、特に問題意識もなくトップダウンに切りまくって平然としておいて、休日にボランティアでスラム街の教育問題に心を痛める・・・みたいな構図に「疑いの差し挟む余地がなくなりすぎて」しまっているんですよね。

一方で日本でこの「ミドル」の位置に入れば、マトモな感性がある人なら四六時中「資本の論理と現場の論理」の間の矛盾を常に現地現物にサバキ続けなくてはいけない非常に難しい立場に置かれますから。

その「難しさ」自体を濃密に味わってきた層が分厚くいることが、今後「果てしなく2つに分断されていく世界」においてユニークな貢献を生み出すでしょう。

結局どういう形になるのが理想かというと、さっき言ったように「資本の論理の回転数」を、減速ギアをいくつか噛ませて「現場の回転数」とうまく合致させていく・・・みたいなことが大事なんですよね。

そうやって「アメリカ型に無理にすると消えちゃうような強み」について充分配慮し、その「強みの発揮方法」について習熟し、「我々もなかなかヤルじゃないか」というような成果に繋げられていけば、今の日本でありとあらゆる個人主義者が憤懣やるかたない思いを抱いている「馬鹿馬鹿しい集団志向や旧例墨守主義」みたいなものをバッサバッサ捨てていけるようになるはずです。

過去20年の間は日本社会の「集団的志向性」に対して特に留保なくディスりまくって「個として生きる俺カッコイイ!」ってなってれば良かった時代があったわけですが、”そういう個人主義者の人生ですら”逆に「集団的志向性ゆえに確保されている良さで下支えされている因果関係」はどうしてもあるので、単に「ダイヤが混じってるゴミの山全部」に対して大雑把に「ゴミ!」と言っちゃうような誰でも言えちゃう論理がカッコイイ時代はだんだん終わっていくでしょう。

大事なのは「ゴミの山からダイヤを取り出すという苦労」をちゃんとした上で、「ハイ、残りはゴミなんで捨てていいですよね?」と言える存在です。

一個前のこぼれ話で書いたような、「踏み絵を踏んでも残る真理と、テスラ・モーターズの限界」みたいな話まで理解の射程に入れた上で、細かい決断をしていく必要があるわけなんで、これは単に「実務家」としてのミドルの人だけじゃなくて、さっき言ったように官僚とかメディアとか、あと経営経済だけでなく人文系の学者さんとか、そういう「広い範囲の視野から方向づけをする」存在の力も必要になってくるでしょう。

ある意味で「オールジャパン」的に「この部分」に圧力をかけていけば、巨大な加速器でエネルギーを集中して与えていくことで普段見れない微粒子が観察できるというような、そういう「特異な条件の生成」によって資本主義メカニズム全体が、上手の「一番右側の列」のように転換していくキッカケにできるはずです。

この話で言う「ミドル」には該当せず、俺は一生ゲンバの人間よぉ・・・って人からすると、「あんな奴らのことは信用できないぜ!!」と思う文化の人も多いかと思いますが・・・(さっきも言ったようにその怨念は怨念としてぶつけまくることが適切なプレッシャーになるというふうには理解していいはずですが)

ただ、この記事の冒頭で書いた「ある有名コンサルタントの話」でも書いたことですが、「今はとりあえず成果を出すために”狭義の知性”の運用だけをしているが、このままでいいとは本当は思ってない」という人は多くいます。これは実感としてある。特に日本ではね。

ただそれを単に言い出すと、今度はどんな時でもゲンバ側を守る発想でどこまでもグダグダになっちゃう前時代性と区別がつかなくなっちゃって余計に不幸になるので、今はお互い警戒しあいながら過剰にタフぶってしまっている。

一歩ずつ、適切な「バランス」を個々人が必死に模索しながら、全体として上図の「一番右の列」の状況へと転換していければ、日本経済にとってだけでなく、「トランプvs反トランプ」的な世界的混乱を止揚して超えるあたらしい文化を世界に提示できる貢献ができるようになるでしょう。

とりあえず「いくつかの事例」において、ちゃんと「一番右の列」になることがミドル役の個人にとっても収入における合理性があるように持っていければ、そこからは自然な転換にまかせていくことで、いずれ「マクロ的な指標」においても優秀性が認められるようになり、全体的な「革命」が静かに成就していくことになる。

まあ、焦らず、自分たちがどうして過去20年グズグズと傷つけあってきたのかの「本当の意図」がここにあったんだと信じて、一歩ずつ変えていきましょう。

また、それは結局あらゆる「理屈的言明」と「社会のリアリティ」との間のラストワンマイルに対して、「ちゃんと丁寧に扱う」ことを人類が学んでいくプロセスなんですよね。

余談ですが特に今後、ビッグデータとかAIとかの普及で、「トップダウンに形式的な理屈だけでつなぐ」ことが捨象しすぎてしまうリアリティの豊かさを、人類は「直接的に」扱えるようになってくるんですよ。

込み入った議論の詳細を全部書くことは難しいですが、囲碁やポーカーの人類のトッププロを次々と破った人工知能を作った「ディープラーニング」という技術は、全体的にさっきリンクした「映画サイレンス」の話で「踏み絵を踏んだ人まで浸透する論理」を使っているように私には感じられます。

つまり、「文脈的言明」で直接繋がっている因果関係だと、抽象度が凄く高くなった「言葉」のレベルでいちいち判断しなくちゃいけなくなるので、「リアリティ」のほんの一部しか取り上げられなくなるんですよね。

ディープラーニングは、グーグルが猫の画像を大量にAIに見せ続けたら自分で猫の画像を識別できるようになった・・・という事例が有名ですが、この手法の新しいところは、「猫というのは耳がこうなっていて目がこうなっていて」といった「文脈的言明」の情報は一切入れずに、「ただ猫の画像を大量に見る」ことの蓄積として判断が可能になったという点です。

同じように、「資本の論理」を経営の言葉に転換した段階ではそれは抽象度が高すぎて、「猫というのは耳がこうなっていて目がこうなっていて」と言うレベルで物事を捉えているわけです。

そして、今までのようにその「抽象的な言葉」をそのままサクサク末端まで運用して現場をなぎ倒せる「日給千ドルのコンサルタント」的な資質では、「猫という存在に対する細部のリアリティ」を引き出しきれないんですよね。

これは欧米由来の社会運営システムが第三世界で大混乱を産んでいる原因とも共通していて、つまり「現地現物のリアリティ」の部分まで「猫というのは耳があって目があって・・・レベルの言明」でマネージしようとしすぎると、「末端」に近づけば近づくほど、「新聞を読むのに天体望遠鏡を取り出す」ような齟齬が生まれてしまっているんですよ。

だから「抽象度の高い思考」と「現地現物的リアリティ」との間の分断によって「その場その場の責任を持ってまとめる人間がいなくなる」ことで、カオス的状況かそれとも暴力的独裁か、どちらかでしかまとめられないということになる。

前回のこぼれ話で書いたように。そこを「踏み絵を踏んでも残る論理」を利用することでそこを「重層化」して、「何度も何度も本能レベルのすり合わせが自然的に行われる」ように持っていくことで(単なる比喩のようですがディープラーニングでは数学的統計的にこういう感じのことが実際に行われます)、「抽象的言明」が「肉付け」されるんですね。

そうやって「本当のリアリティ」レベルの情報を扱えるようになっていく。
AIが人間の仕事を奪う奪わないという話が最近は喧しいですが、理想的にはこの流れが、「日給千ドルのコンサルタント」的に現場をなぎ倒す役割を優しく排除していって、「本当の現場の人間」と「AI的な知」が相互作用の中で次々と発見改善を行っていけるような仕組みになっていけば理想だと思います。

そしてそういう「理想的関係」を取り結ぶためには、いわゆる「ロケットサイエンティスト(凄く頭の良い理系の天才のことを言う言葉)」の範囲内だけで閉じてしまうことなく、「現場レベルの人間」に対して「ニンテンドーDS」レベルまで降りてきて相互作用するような組織全体のデザインにすることで、「アカデミックソサエティの内側にいる人間しか何も言う権利がない欧米社会」以上の価値を生み出せる流れにできれば日本という社会が世界の中にある価値は揺るぎなく存在すると言えるようになるでしょう。

ちなみにさらに連想だけで数行書きますが、宇宙に関する物理学で巨視的な論理だけで切りきった式がミクロの世界で破綻してしまう現象も、似たような「知的課題」に人類が直面していることを表しているんだと私は考えています。

さて、今回はここまで「経営」「経済」的な話をいつもより深く書いたので、あまり興味のない人には遠い印象だったかもしれません。

経営レベルのこの話を、社会運営レベルの話まで置き換えると、リベラル的な存在の現在の世界における難しさ・・・へと繋がっていくわけですが。

最近、上野千鶴子さんという有名なフェミニストの人が、日本は移民を入れたらどうせモメる社会だから、入れずに衰退していくしかない的な(超おおざっぱにまとめると)意見を新聞で述べて、いろいろな立場から議論が紛糾していたのを見たんですが。

まあ、簡単に「衰退すればいい」とか言ってくれてんじゃねえよ!移民入れずとも色々努力できる領域は沢山あるんだよ!という話は置いておいて、この「移民をどの程度入れるのか」的なことについて、「フェミニスト」の人が「多少は制限しよう」と言ったこと自体が既に問題だ・・・というような論調が吹き上がっていたのは非常に興味深く思いました。

究極的には、「国籍」というのは「生まれによって違いが出る」領域の話なので、そういう要素で決まる部分を徹底的にゼロに近づけて、どこでどういう状況で生まれても制限なく好きなところに移動しそこで成果を享受して生きられるようにするべき・・・というのが、「最も理想主義的」な左翼的見解ということになるらしい。

どんなものでも「無限大に発散させてみる」というか「一番の極論で言うとどうなるんだろう?」と考えてみると示唆が得られることがありますが、上記のような意見を切々と述べて上野さんへの批判にしている人たちの一群を見て、「なるほど、そういうふうに考えるのか!」と”発見”した気持ちになりました。

話としては理解できるというか、「生まれによる差がゼロになるには」的なことだけを純粋に考えてそれ以外の要素を徹底的に排除するような発想で望むとこういう結論になる・・・というのはわかるんですが、しかし実際にこれをやると凄く現実的な問題が起きるだろうと思います。

端的には、こういう運営にすると、「その時々にホットでキャッチーな流行が集まってるところ」にみんなが行きたがる反面、「そうでないローカルな問題」に対して「あまり世間的注目が集まってない時期でもちゃんと責任感を持ってその問題を取り組んで破綻させないようにする」ような人に対してちゃんと「敬意」を払う仕組みが破綻するんですよね。

だから、「あまりパッとしないけどローカルな問題」に対して「個別的に責任を深く感じる論理」を持つ人を育てて、それを社会的に相互承認して「敬意」を払える仕組みづくりは、どれだけ「生まれ」を否定したい人もちゃんと現実的対処として考える必要がある。(で、その問題について考えれば考えるほど、どの程度かはともかくある程度”生まれ”ベースで考える要素が残っていたほうが問題に対処しやすいという結論に達することは多いだろうと思います)

これは、この前「人はなぜ差別するのかを根本的に考えてみる」という表ブログの記事で書いたような話に近いんですけど。

端的に言うと、「社会問題」を抽象化して関心を持つような知的なタイプの人間は、この世界の「どこのローカルな特有の問題」についても本当の意味では全然関心を持ってはいないんだということを、それ自体は「悪い」ことじゃないが「自省」する必要はあるってことなんだろうと思います。

「生まれによらずちゃんと評価される社会にしたい」というのは非常に抽象度が高い言明で、その「言明の具体化」には興味があるけど、●●国●●県●●市に生きる何十万人が日々滞りなく生活できるかどうか・・・というのはそういう「知的な人間」の脳には全然ひっかからない。

別にそれは「悪い」ことじゃあないんですが、「自分の興味関心の純粋性を維持するためにその場の安定性を破壊しておいて、多分その人は来年はその街のことを日常的に思い出しもしないだろうな」という点について自省することをちゃんとやれば、「抽象的言明としての原則」と、「ローカルな運営が破綻しないための配慮」をどちらかがどちらかを押し切って完全否定することなくうまく「良い状態」に維持できる工夫を積んでいくプロセスがやっとはじめられるようになるでしょう。

例えば、上記の表ブログでも書いたことなんですが、「移民に対する忌避感は、それをそのままやってると社会的治安が崩壊する瀬戸際にいるからだ」的なことを書くと、「移民の犯罪率はむしろ国内の貧困層よりも低い」的なデータを持ってきて「ハイ論破」ってなる人がいるんですけどね。

そのデータ自体は非常に興味深くはあるし、そうやって偏見を一つずつ解きほぐしていく作業の重要性も否定するわけではないものの、でも「移民反対派との対話」という意味で言えばそのデータを出してくること自体が非常に「まとはずれ」なんですよね。

移民っていうのは元々比較的貧しい国から渡ってきていて、たいていその「母国のローカルな文化」をキチンとまだ保持しているわけですよね。だから端的に言うと「貧乏耐性」があるんですよ。多少貧しくたって、「家族」の単位でガッチリまとまって協力しあって生きていく共通了解がしっかりしている。

それに対して「先進国内の国内貧困層」は、「経済的貧困」になった時に「移民の人たち」のように「貧乏を楽しめる文化」を持ってない脆弱な状態に置かれていることが多い。なぜならその時に「貧乏を楽しめる文化」を再生しようとすると、現状ではいわゆる「意識高い系」の個人主義的な人たちにボッコボコに批判され軽蔑されるような要素に頼らざるを得なくなるからです。

「多少の格差がある貧困状態」の中でも治安を崩壊させず、普通の男女が普通の恋愛して安定した関係を構築し、次世代に命をつないでいける文脈が確保され、アブレ者が過激化しないで済むような「敬意」が払われる必要がある。

この動きは、「その場」における「個」に対してどうしても少しは抑圧的な形式にならざるを得ません。そしてその「抑圧される側」にどうしても立ちたい気持ちを持っている知的な個人主義者から見ると、その「社会全体から見てローカルで末端的な場」においても、自分が暮らしている中心部におけるのと同じように、「集団の抑圧」から「個」を解放しさえすればその「個」は自由かつ豊かに謳歌して生きられるような気がしてしまうんですよね。

しかし、「そのプロセス」自体が、そのローカルな場をギリギリ破綻せずに運営するために成立させていた「共有文脈」自体を過剰に破壊してしまうと、その「救済対象だった個」の人生自体も余計に酷い状況に陥る可能性がある。

だからこそ、「現場レベルの安定」を維持できる”最大の”ペースで「個の解放」を行っていく・・・というような、両ニラミの配慮が必要になる。急ぎすぎても遅すぎても良くない結果に終わる。

だから単純に「国内貧困層は純粋な賃金格差で言うと移民より優遇されている」とか、「移民の犯罪率は国内貧困層よりも低い」とか、そういう「データ」で「ハイ論破」したつもりになっている人は、問題の本質が全然理解できていないんですよね。

単純化して言えば、そういう志向の人がトランプ支持者にこれだけ恨まれていること自体が既に「純粋なファクト」として大問題だということになる(笑)

なぜならどんな基準もその社会の「一番野蛮な人間」にも「納得してしたがって」もらわないと現実には「具現化」しないからです。

「啓蒙主義の光がサンサンと降り注いでいる大都市の中の知的階層の内側」でなら大量の恨みを買う形でも無理やり成立させられる「標準」があったとして、それはその「その時代的にホットで巨大資本がうなっている世界」からどんどん外れていった辺境において、「巨大な恨みが渦巻いている世界」においても維持できるかっていうと、非常に難しい。

でも、今回の表ブログで書いたように、「老害」さんから「現場の良心」さんを引き剥がして、「現場の良心さん」は「改革派」に参加できるような算段で動かしていけば、「啓蒙主義の光」がサンサンと照っていないような辺境の地においても「弱者」に対して過剰な抑圧が暴走することを抑止することも可能になる。

そう考えると、さっきのデータの読み解き問題でいえば、「これ以上移民を入れると”国内貧困層の方で”犯罪率が増加するから問題だ」というような「一周回ってくる因果関係の問題」も含めたデータや数字の見方が必要になってくる。単純に抽象的な論理だけで言うと無茶苦茶言ってるようですが(笑)、実際に移民に対して反発している人たちは実質的には「そのこと」を懸念しているわけです。

だから、経済的格差自体よりも、格差があっても安定的に人生に満足を得られる文化の形成こそが彼らにとっては重要で、それを「反移民派」の人たちがやりがちな「復古主義的でいろんな差別を内包した方法」でそれをやるのが嫌ならば、「新しい時代なりの」彼らへの社会的敬意の担保の仕方や共有了解の成立させ方について、「反移民の人たちよりも何倍も真剣に」考えるぐらいでなくてはいけません。

それは取りも直さず「抽象化されたきれいな論理が取りこぼしたリアリティってのは沢山あるんだ」という事実への感覚を閉じずにいられるかどうかというチャレンジなんだといえます。

「暴動も犯罪も起こさず大人しく社会に参加してくれてるだけでそれは凄い貢献なんだ」というふうに言うと非常に暴論のように聞こえますが、もしあなたが普通に先進国の大都市に生まれて周りには大卒しかいないような「特権的環境」で育ったなら想像もできないような世界において、「リアルな隣人たち」とどうやって平和的な安定を維持しながら暮らしていこうか日々真剣に考えている人たちへの想像力を持てば、ゆるがせにはできない問題がここにはあることが理解できるはずです。

そういう「特権的環境」ではない、ローカルなコミュニティに生まれついて、そのコミュニティ内に存在している「暴力性」をいかに問題ない範囲に飼いならして社会生活を運営できるかどうか・・・について「真剣な責任」を感じようとするならば、これほど重要な問題はない・・・ぐらいの話がここにはあります。

私の経歴の、「学歴的・システム的に守られた世界の外側のリアリティ」を知らなくちゃ・・・ってなってあれこれやってた時期(色んなブラック企業やカルト宗教団体やその他に”生身で本当に一員として潜入して”実際に見る時間を持ってきたというような)のことを結構いろんな人がバカにするんですが、そういう人は「啓蒙主義の光」がちゃんとあたってないところで人々が暴走せずにちゃんと毎日生きるためにどれだけ必死に自分たちをコントロールしているかが実感としてわかっていなさすぎるところがあるように思います。

比較的「末端のスラム化」が他国よりマシなことが多い日本でも、それは無料でいくらでも手に入るものではなくて、ギリギリのところでうすーく切れずにまだ繋がっている義理の連鎖でなんとか維持されているような現実はあります。

繰り返すように、「啓蒙主義の光」がサンサンと照りつけているような「世間的注目が集まりやすい特権的な空間」でのみ、大量の恨みを買いながらなんとか維持できている「優しさ」は、その「啓蒙主義の光」が薄くなってしまう末端のローカルな地域では「そのムーブメント全体が買った恨みの総量」が大きいとちゃんと維持できなくなるんですよね。結果として怨念が暴走して余計にひどい状況におかれる人たちも出てくることになる。

本当にその「優しさ」をユニバーサルに維持できる状況に持っていきたいのならば、つまりその「末端のローカルな、啓蒙主義の光が届きづらいところ」でも「ちゃんとある程度の良識的な優しさ」が維持できるように持っていくには、ムーブメント全体が「恨みを買う総量」ができるだけ少なくなるように、しかし理想は諦めずに・・・というあたりを注意深く狙って育てていく文化が今後必要になってくる。

結局そこには「抽象的な概念」と「リアリティそのもの」との間の齟齬の問題があり、「末端のリアリティそのものを代表している存在」への「敬意」を払いながら理想を失わない全体的なマネジメントの手法に人類が習熟していくことが求められているという現実があるわけですね。

実際問題としてシリアに住んでる人が全員そこから逃げ出して先進国で住めるようになるべき・・・というわけにはいきません。シリアのことはシリアの人が責任を持って「適切にまとめる」意志を持ってもらわないといけない領域は否定しきれずにある。

日本人が移民に対して冷淡なのは、少なくとも彼らは「日本国」に対しては「そのレベルの他にはない責任感」を超絶持ってるからなんですよね。シリアの治安が崩壊したのはアメリカのような大国の論理に翻弄されたからだというような擁護論は当然あるべきではありますが、「そうはいっても」、その中でも「逃げるやつは逃げればいいが、でも俺はこの地をなんとかするのに力を注ぐぞ」と言う人がいてくれて、かつその人に対してちゃんと敬意が払われる仕組みになっていないと、果てしない無責任の連鎖が世界を覆っていくことになります。

「大国の論理」云々で言っても、例えば日本国が色んな「誇り高い人」にバカにされながら対米追従してること自体も、「彼ら自身が自分たちの安定に責任を持って、”韓信の股くぐり”のように屈辱を甘受しているのだ」というふうに理解するのなら、彼らの「努力」には敬意が払われるべきだと私は思っています。

その点の「敬意」さえ適切に払われるならば、経済のダイナミズム上避けられない経済格差がある程度あっても、「満足感」は広く行き渡るような形にできるはずです。逆に言うとこの「敬意」の問題から逃げ続けて、単に「抽象的な概念からのトップダウンだけ」で切りきってしまって生身のフィードバックを拒否し続けているならば、この問題は決して解決しないでしょう。

私は自分が結構「知的」な人間だと(笑)自認しているので、逆に「知的な人間」の取扱いには意識的に注意が必要だと真剣に考えています。

さっき引用したザッカーバーグの教育改革の話も似てて、いわゆる「知識人」が「知識人のエゴ」として「現場の人間」を「自分の世界観のコマ」扱いしてあれこれやろうとし、すぐに結果がでないと飽きちゃってほっぽりだしてどっか行ってしまい、残った「そこでずっと生き続けている人」が無力感の海に飲み込まれる様子・・・は、アメリカだけの例じゃなくて自分が知的であると思ってる人なら「真剣に自分がそうなってないか」を常に点検する必要が21世紀にはある。なぜなら20世紀の巨大な「不幸」はたいていそこが元凶となって巻き起こされてきたからです。

「知的な人間」は、自分の活動が「本当に現場の人のためになってるのか、単なる自分のナルシスティックなエゴなのか」について考えなくちゃいけないんだという圧力が高まりつつあることが、現在の「リベラル派への風当たり」として生まれている状況なんですよね。

まあ、前回引用したジョジョの奇妙な冒険のジョルノのセリフじゃないですが、「生き残るのはこの世の真実だけだ。真実から出た誠の行動は決して滅びはしない。お前の行動が真実から出たものか、それとも上っ面だけの邪悪から出たものかはこれからわかる。果たしてアンタは滅びずにいられるかな?」的な状況に今後どんどんなっていくことは、人間の「知性」というものに対する適切な「宿題」が与えられていくプロセスだと言えるでしょう。

諦めず、「紋切り型によく言われててわかりやすいけど結局知識人のナルシスティックなエゴにしかなっていない論理」を慎重に避け、「本当に現場のためになる知性ってなんだ?」という課題に真剣に向かっていきましょう。

さて、今回の無料部分はここまでです。以下は300円払ってもいいぞという人のためのゾーンになります。

ここまで書いたようなトータルな世界観を持とうとすることは、単純な「個人のエゴ」のレベルでナルシスティックに他を抑圧して生きていくことが難しくなっちゃうということでもあって、色々と大変な思いをするわけですが。

その中で、「今の世の中的に普通な文脈」を超えて、本当に「個」としてインパクトを与えようと生きるためには何が必要なのか・・・ということについて考えてみたいと思います。(以下さらに約8500字弱続きます)

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我々が起こすべき「静かなる革命」について・・・または「知性とは文脈力・空気を読む力」という時代の終焉(2017年3月8日のブログ:”日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法”のこぼれ話)

倉本圭造

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倉本圭造

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