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【035】ブッダの生涯-【11】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)

梵天勧請の内容

仏伝によると、お釈迦さまは悟りを開いた後、初めは誰かに教えを説くつもりはありませんでした。
そこに梵天から悟りの道を衆生に教え説くことを要請されます。
このエピソードを「梵天勧請」といいます。
今回はその様子が仏伝にどのように描かれているのか解説されています。


このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
主な教材は仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座の内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


ブッダの生涯11

https://youtu.be/4cDzcPBxwQs?si=mbxm5Jfn25GwYYqF

AIによる要約

このスクリプトは、仏教の創始者である釈迦が悟りを得た後、説法を開始する前に躊躇していたストーリーです。釈迦は、自分が得た教えを世に広めることが難しく、多くの人たちがその教えに耳を傾けないだろうと考え、静かに過ごし、涅槃に入ろうと決意しました。しかし、梵天が釈迦の心の動揺を知り、彼を説得して世に教えを広めるよう頼みました。釈迦は最終的にその言葉を聞いて、人々に教えを伝えることに決め、有名な「水中のハス」のたとえを用いて、不同程度的で教えを受け入れる人々の例えを語りました。

学習した事

一人で安楽を味わいながら涅槃に入るつもりだったお釈迦さま

悟りを開いてから初めてのお布施をもらったお釈迦さまだったが、まだその時は世の中にその教えを広めるつもりはなかった。

自分の修行の果てに体得した悟りというものは厳しい過程を経てようやく手に入れた物であり、一般の人に説いたとしてもそれが受け入れられることはないだろうと考えていた。
そのため、そのような無駄なことはせずに、静かに自分は寿命がくるまで自分の心の安楽を噛み締めながら涅槃に入ろうとしていた。

この段階ではまだ仏陀ではなく、悟りを開いたものの誰にも教えを説かない独覚の状態であった。

「梵天勧請」はそんなお釈迦様の前に梵天が現れたエピソードである。

梵天勧請の内容

私の悟った法は、普通の人には理解し難い。
法を説くことは私にとって疲労であり害である。

これは、
私の悟った法は普通の人には理解しがたい。重要性も理解されないし、ついてくる人もいないであろう。自分の教えは世俗的な価値観によると、あまりに乖離しており、意味のないものとして捉えられるだろう。
とお釈迦さまは考えていた、ということである。

もし仮に世界平和など世俗の人々にとって耳障りの良い言葉であれば、このような事は考えない。最初から世の中の為の教えであると主張するだろう。

しかし、仏教とは一般社会に対してアピールするものではない。
一般社会においてその価値観の世界のなかでは生きづらい人を救い上げるものであり、ある意味では非社会的な教えだと言える。

これを一般社会に広めようとすると、場合によっては批判や非難を受けることになる。
このような事情からお釈迦さまはこの教えを説き広めることに対して躊躇しており、そのような事をこれから行ったとしてもそれは無駄骨にしかならないと思っている。

お釈迦さまはこれが自分にとっての疲労であり、
害であるとまで思っている。

お釈迦様の心の内に気づく梵天

天の神は人の心の内を窺い知ることができる。
お釈迦さまの心を天上にいる梵天が知る。
お釈迦さまは悟りを開いたけれども、
それを誰にも言わずに無くなろうとしている。

このようなお釈迦さまの心を察知した梵天はショックを受けて
「ああ、世間は滅びる。ああ、世間は壊滅する」と嘆く。

これは人間が滅びるという意味ではなく、
このような素晴らしい考えが世の中に広まれば、多くの人が救われるはずであるのに、それがもし叶わないのであれば、多くの苦しむ人々は絶望するしかなくなるだろう。
という意味の嘆きの言葉である。

すばらしい教えが世の中に広がろうとしているというのに、誰にも知られずに立ち消えてしまおうとしている。
なんとしてもお釈迦さまを説得し、世の人々に教えを説いてもらわなければならない。

梵天はこのように考えて、お釈迦さまを説得すべく天上から降りてきた。

梵天勧請のAIイメージ

なお、最初期の仏伝(律の冒頭に書かれたもの)では梵天は一人で降りてきたとされているが、後の仏伝では梵天より下位の神である帝釈天などを引き連れてきたとされている。

こうして
神である梵天がお釈迦さまにお願いするためににやってきた。
気をつけなければならないのは、神よりもお釈迦さまの方が立場が上という点である。

梵天はお釈迦さまに頭を下げて、

世尊よ、法を説き示したまえ。
智慧の眼で、悩める衆生を見て、法を説きたまえ。

とお願いする。

悟りを開いた目でもって一度俗世間に生きる人々を見てほしい。
どれほど多くの人々が俗世間の価値観のなかで悩み苦しんでいるのか。
ですから、どうぞその人々の為にあなたの悟りの道を説いて広めてください。

このように梵天はお釈迦さまに要請した。
お釈迦さまは悟りを開いた眼でもって世俗を見て、たしかに苦しむ人々がいるとわかる。しかしそれでもお釈迦さまは躊躇する。

たしかにこの世には苦しむ人々はいるが、私の教えを聞かないであろう。
ほとんどの人間はこの世界では幸せに生きており、そのような人々に向けて
我々の生きるこの世界は苦しみに満ちており、その中から安楽を得る為に自分の心を自分で変えていくという作業を延々と続けていくなどという話を聞くはずがない。

こうしてお釈迦さまは梵天からのお願いを断る。

このようなやりとりを3回繰り返し、最後にお釈迦さまはついに梵天からのお願いを聞いた。

水中で咲く蓮
水面下で咲く蓮
水上に顔を出して咲く蓮

水中の蓮の喩え

教えを聞かずにいた人を、水中にて咲いた蓮に。
教えを完全には理解できていないがもう少しの人を水面下の蓮に。
お釈迦様の教えを正しく理解した人を水上に咲いた蓮に。
同じ蓮の花でも咲き方に違いがあるように、聞く人にも違いがあるという事をこのように喩えた。

このように、水上に顔を出して咲く人のためにこそ教えを説こうとお釈迦さまは考え、決意した。

甘露の門は開かれた。
耳ある者は聞け。
信を捨てよ。
私は、かえって害になると思って敢えて法を説がなかったのである。

甘露(アムリタ)とは甘い不老長寿の雫のことで、人々を本当の幸せに導く最良の薬を分け与える道が開かれた。という意味になる。
耳ある者とは、お釈迦さまの教えを聞く気がある人に対してという意味であり、信を捨てよ。とはこれまでの間違ったものの見方を捨てよという意味である。

反発があったり、聞く耳を持たないであろうと考えていたが、梵天からの提言通り確かに苦しむ人はいるのだから、聞く気のある人に対しては教えを説くことにしようという意味の決意表明である。

このように、天の神である梵天からの要請によってお釈迦さまが仏陀として活動する決意を固めるエピソードが梵天勧請である。

感想

偉い人(神)からの要請を3回断るというのはそういうお約束なのだろうか。
前回の感想にも書いた中国における「禅譲」と非常に似ている。
まあ、これがアジア文化かの特徴と言ってよいのかどうかはわからないが、とにかく何かしらの正当性を表現するにあたり、「お願いされたので仕方なく決意した」というプロセスが必要になるのだろうか。
同時に「救ってくれるだけの力を持つ人から見捨てられたくない」という気持ちを誘導するレトリックなのだろうか。

例によって後の時代の仏伝では梵天のみならず配下?の帝釈天などぞろぞろと総出でお釈迦さまに勧請しに行ったことになってるのが笑える。

いずれにせよ、このようなエピソードをわざわざお膳立てしなければならないほど多くの人にとっては信じるに値しないのだろうか。
今だと投資系YouTuberとか副業系YouTuberとかが実績を見せびらかす手法に近いのかもしれない。

「自分で自分の心の苦しみを解消する」というそもそもの主張があるというのに、結局なにかしらの超常的な存在の影をちらつかせているのがどうにも理解できない。

・・・というか、仏伝によると過去生で別の仏陀と出会ってお釈迦さまは仏陀になることを誓ってなかったっけ?
なんでここで仏陀になるかどうかをお願いされる話になってるのだろうか。

これは一体どういうことだろうか?
お釈迦さまは盛大に記憶喪失になったのだろうか?
それとも梵天に対する嫌がらせだろうか?ツンデレ的な。


次回は「ブッダの生涯12」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
梵天勧請というエピソードの持つ意味について語られます。
梵天とはブラフマンのこと。つまりバラモンを意味します。


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