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【033】ブッダの生涯-【9】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)

鉢で受けた物だけで生きるということ

前回は仏伝に話が戻り、お釈迦さまの物語が語られました。
お釈迦さまは悟りを開き、しばらくは楽を味わっていました。そこにタプッサとバッリカという二人の商人からお布施をいただきます。
これが悟りを開いてから最初の食事でした。
仏伝による描写には、二人の商人の元親戚の神からお布施を促され、
お布施を受けるお釈迦さまには天の四天王より献上された鉢が使用されました。
このようにお釈迦さまが食事をいただくまでのエピソードが「他人からの提供に依存する」形で強調されています。
今回は、この「依存して生きる」ことの大切さについて解説されています。

このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
主な教材は仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座の内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


ブッダの生涯9

https://youtu.be/wnOS2HMjpTE?si=LhhoBIm_meXA743X

AIによる要約

このスクリプトは、お釈迦様が初めての食事を通じて仏教の基本的な生活原則を確立したエピソードを語っています。お釈迦様と弟子たちは、他人から与えられた食物のみを摂取するという原則に従い、完全に他者依存的生活方式を選びました。この原則は、修行を第一目標とする彼らの精神的な成長を支えるとともに、依存するということの重要性を示しています。また、この原則がなぜ2500年も続いているのかについても説明しており、今後お釈迦様が仏教の説法を始めることにつながる舞台設定となっています。

学習した事

悟りを開いてからの出来事

仏伝により語られるお釈迦さまの物語。
お釈迦さまは、悟りを開いてしばらくの間は楽を味わっていた。

そこにタプッサとバッリカという二人の商人からお布施を受ける。
これが悟りを開いてから最初の食事となった。

このエピソードでは、他者に依存して生きるという事が象徴的に描かれており、元親戚の神による商人二人へのお布施の勧めと、受けるお釈迦さまには天の四天王からの献上として鉢が用意される。
ここで初めて二人の商人からのお布施を受けた。

他者に依存するという基本原理

このエピソードが元になり、以後の仏教ではお布施はすべて鉢の中に入れてもらうという原則が生まれた。

これは現在でも続いている基本原理であり、
他者が好意を持って
鉢の中へ入れてくださった食べ物しか食べてはいけない。

という事である。
これは同時に完全に他者に依存せよという意味となる。

仮に道端に食べ物があったとしても、僧侶は自分で拾って鉢に入れて食べることはできない。
必ず誰かの好意によって鉢に入れてもらわなければ食べることはできない。
また、落ちている食べ物を誰かに拾って入れてもらう事を指示することもできない。
これは好意で入れたという事にならないからである。

これほどまでに他者の好意に全て依存して生きるという仕組みを仏教は設計している。

これはなぜかというと、
修行に全力を注げられないからである。
朝から晩までずっと修行したいのが修行僧なのだが、そこに食料を得るための自給自足などを始めてしまうと修行がおろそかになってしまう。

また、一度自給自足のような対応を始めてしまうと、人間は本能的にもっと良くしようという工夫を始めてしまう。

物を作るという欲求に負けないように、はじめから一切の生産を放棄する。
生きている間のエネルギーを全て修行に注ぎ込む。
これを人生のただ一つの目標とする。

これをお釈迦さまは最初から設計していた。
仏伝におけるタプッサとバッリカの物語はこのスタンスを象徴する理念である。

他者に依存する生き方

これはじつは仏教には限らない。
科学者や芸術家をはじめ、これまで「偉人」と呼ばれる人々は大抵がパトロンがついていたり、貴族の援助を受けている。

誰でも自分の力だけで生きるというものにはとても大きなエネルギーを必要とする。
そのような状況では人と違う事を行う余裕はない。
結局、普通に生きて普通に死ぬしかなく、世の中を変えるような大事業を行う余裕はない。
どうしても誰かの力を借りる事でしか歴史的な偉業を果たすことはできないのである。
お釈迦さまもこのような事実をよく理解していたと思われる。

放浪の天才数学者エルデシュ

20世紀で最も多くの数学論文を残したハンガリー人の天才数学者、ポール・エルデシュはかなりの変わり者だった。
彼は死ぬまでトランク一つで生活し、財産もなく生活に必要なわずかなお金だけで世界中の色々な数学者の家に泊めてもらいながら生活していた。
それも、彼が優れた数学者であったことから、滞在中はエルデシュと共に研究できるということで多くの数学者たちに歓迎されていた。

ポール・エルデシュ

研究がひと段落すると、泊めてもらっていた数学者に、次の滞在先を交通費からお世話をしてもらう。
このような生活を続けながら生涯で500人以上という数多くの数学者との共同研究を行った。

エルデシュは1日16時間以上毎日朝から晩までひたすら数学のことだけを考えつづけ、最終的には生涯に約1500篇の論文を発表し、83歳まで生きた。

依存して暮らす人間の自由な姿

このように、一切の仕事も財産も家も持たずに全てを人のお世話になりながら人生を全うする。
その結果、人生の全てを数学に注ぎ込むことができ、数多くの偉業を達成することができたのである。

これが「依存して暮らす人間の自由な姿」である。

もちろん怠けてばかりでダラダラと過ごしたいだけの人に依存させるなど虫のいい話はない。

これはあくまでも普通の人とは異なる立派な人、
一心不乱に全身全霊をかけて邁進している、その後ろ姿が援助やお世話をしてあげたいという動機となるのである。
同じようにお釈迦さまが悟りを開き、立派な姿で座っておられる佇まいを見てタプッサとバッリカはお布施をしたいと思えたわけである。

立派な姿で誠実に生きている人間だからこそ
依存して生きることが可能になる。
依存して生きることによってその人の人生の目標を全うすることができる。

お釈迦さまは最初から組織設計として仏教修行者は皆このような生き方をせよという形に決めた。
これは周りの人々のコンセンサスが取れており、仏教修行者は一切働きもしないし、食事も作らないということが周知されている。

社会に完全に依存してはいるが、修行者たちが目指している道は我々一般人には真似のできない崇高で立派な生き方であるから援助しようという話になる。

この方針は仏教が2500年存続できていることからお釈迦様の作った体制は正しかったと言える。

この問題は、例えば仮に社会への依存を半分程度にしたりすると破綻する。
これは人間の性質上、欲の方に傾いてしまうからであり、そのうちに本来の目的である修行そのものよりも、稼ぐ事や、組織の拡大へと意識が向いてしまう。
このような中途半端な組織は必ず腐敗する。

あくまでも鉢に食事を入れてもらったものだけで生活する、という大原則が仏教が2500年間保持し続けることができた原動力である。

鉢で受けたものだけで生きる

鉢で受けたものだけで生きるとする仏教だが、その内容に関してもルールが存在する。
それは
他者からの布施でなくても口に入れることのできるものは、
水と歯磨きの木だけ

飲み水に関しては、
川の水や湧水、井戸水だけはお布施で受けなくとも自分で口にすることができる。

歯磨きは当時のインドで使われていた木で、ミントの香りのする歯磨きの木が存在していて、それを利用していた。
これは落ちているものでもあったのでそれに関しては自分で調達してもよいことになっている。

このように、水と歯磨きだけは自分で手に入れても良いが、それ以外のものは全て他の人に鉢の中に入れてくださったものだけを口に入れて良いとしている。

仏伝に登場するタプッサとバッリカによる最初のお布施の物語は、あまり有名なお話ではないが、仏教という宗教組織を守る非常に重要な原則を語ったものである。

感想

今回のお話は以前の第一シリーズの第17回目でもあった。
生き方として他者に完全に依存することによって、人生のリソースを極限まで修行(自分の心の苦しみの消滅)にかけることができる。
そして、他者に依存するにはそれ相応の姿勢が必要になる。ということ。

考えてみればこのような道を選ぶのは相当な覚悟が必要だと思える。

とはいえ、現代の一般社会の価値観から言ってお布施を受けるというのはなかなか難しい気がしている。
僕も含めて個人の幸福を求めることに精一杯だし、仏教徒がどうなろうが知ったこっちゃない人の方がほとんどだと思う。

じゃあ仏教徒も一般社会の価値観を導入して仕事をしてお金を稼げば良いか?というと、それでは本末転倒だろう。

一般社会に依存する組織が厳密にルールやストイックさを求めたとしても、依存先の一般社会が変容してしまえばそのルールは崩壊する。
社会の変化は特に20世紀に入ってからは加速度的に変化するようになってしまったので、いかに仏教の価値をアピールしようとも、なにかしらの方法でルールも変えざるを得ないのかもしれない。

難しい事ではあるが、一心不乱に修行には励みつつも、依存先である一般社会から尊敬される姿とは何か考え直さなければならないだろう。

ところでミソをつけるような話で申し訳ないが、今回登場した数学者のポール・エルデシュ氏はWikipediaによるとアンフェタミンという覚醒剤の一種を常用していたようだ。

これも現在の倫理観としては微妙なところだと思う。

尊敬を受けることによる依存と言って良いのかはわからないが、プロ奢ラレヤーさんの事を思い出した。
この方は様々な人から食事を奢ってもらうことで生活しており、
その食事中?のお話が面白いということで注目され、依存することができているそうだ。
その内容は有料のnoteで読めるそうなので興味のある方は読んでみると良いと思う。
現代においては、寧ろそのような奇特な人のお話の方が共感や気づき、そして脱力感を得られて有難いと思われるのかもしれない。


次回は「ブッダの生涯10」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
仏伝の非常に重要なエピソード梵天勧請について。


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