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鶴巻滝 【探訪編】旭市の滝


【探訪編】などと銘打ってあるのは後で【資料編】を投稿する予定があるから。

見広集落を望む

いたって小さな村、山に掛かって家作がある。飯沼から四里余りある。村内に雷神社があり、この辺りが雷雨の時、ここから雷神が出ると俗にいう。宮の入口によい滝があり、桜の大木もある。桜の木が多く、大変に風景のよいところである。見広坂という坂がある

【海上町史総集編】 『二 地区の歴史 見広村』の項より

江戸時代に記された「安政五年 高崎藩銚子領十七村柄書き上げ」に鶴巻滝と見広集落について記載がある。

鶴巻滝がある見広集落は飯岡台地の東部にあたり、台地から延び出た尾根を取り巻くように集落が形成されている。
その尾根の根本、台地との接続部は少し窪み、谷となっている。
鶴巻滝はその谷奥にある。

集落内を進むと坂にあたる

谷奥といっても木々に包まれた鬱蒼とした処ではない。
谷の緩やかな傾斜を利用して集落と台地上を結ぶ道が造成されており、その道端に鶴巻滝はあるのだ。

鶴巻滝に到着。....と言っても何処に鶴巻滝があるかわからない方が多数だろう。

滝はカーブミラー右横の石像の背後にあった。
鶴巻滝は崖を掘り込んで水を導水した滝、言わば人工の滝である。

残念ながら鶴巻滝は既に渇水して、滝としての姿は消滅してしまった。今は滝の跡が残るだけである。

滝下の不動明王像。寛政二(1855)年の銘文が彫られている。
この石像の作成年代から推測して、鶴巻滝はこの石像と同年代かそれ以前に造成されたものになる。

滝下より見上げる

鶴巻滝は付近の住民と密接な関係があったようだ。
その様子が見られるのが下の資料である。

...夏期は上流より水を廻して水量を多くして村人達は仕事の汗を流して涼を取り、子供等は滝つぼで夏の日を楽しんでいた。昔はこの滝で行屋の人達が精進潔斎して居た所であった。

明治二十二年の村制移行に際し、鶴巻滝より村の名称を選定したとのことである。

 海上町研究 見広夜話 島田午之助 より引用

滝は、時には子供の遊び場として、時には行者の禊場として利用されていたことがわかる。
村制に際し、村名を滝から採るほど村人たちとの結びつきは強かったようだ。

しかし、なぜそんな滝が渇水してしまったのか。
それは上文章太文字、``上流より水を廻して水量を多くして,,の箇所にヒントがある。

先程も書いた通り、鶴巻滝は崖を掘り込んで水を導水した人工の滝である。
その為、夏場など滝を利用する時期はわざわざ水を廻して水量を多くしていたのだ。つまり、平時は滝浴びもままならない程度の水しか流れていなかったのではないか。

さらに、このような導水式の人工の滝は人の手が入らないとすぐ荒廃してしまう。導水路は落葉や土砂などによって埋まってしまうからだ。定期的な管理が必要な滝なのである。

滝浴びや滝行をする者がいなくなれば、滝は管理されなくなり自然と荒廃してしまうのだ。


滝上の導水路を確認するために付近を探すと、台地上へ向かう獣道を発見。

実はこの道、1894年〜1915年の地図には記載されている古道なのだ。
〔↓赤点が鶴巻滝がある位置。赤点すぐ北の道が今回の古道〕

(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)

しかし、少し登ったところで藪に。この先に導水路があるはずだが...

ふと膝をみると何匹かの虫が這っている。思えばもう桜は散ってしまった。
冬にもう一度リベンジしよう。


残念なことに導水路まで到達できなかったので、少し付近の紹介をする。

滝のすぐ近くに「見広大坂」の改修記念碑がある。しかし碑文下部が落葉に埋もれ全体を読むことが難しいので、今回は詳しく紹介しない。

滝の水は枯れたと言っても導水路が遮断されただけで、付近の崖からは今も多量の水が滴る。

そんな中に今も横井戸として利用されているものがあった。

施工したであろう業者名、施工年が彫られている。
横井戸にわざわざ石刻を施している例は初めて見た。


...滝前まで戻り坂を見下ろす。
手前の見広集落の先、蛇園地区で迫り出した飯岡台地と総武線の堤が見える。
ふと、かつて背後の滝で水浴びや滝行をしていた村人たちと同じ風景を見ていることに気付いた。
背後から水音は聞こえなかった。


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