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大相撲のトリビア

見出し画像は国立国会図書館『勧進大相撲興行之図』より
江戸っ子の娯楽・相撲 | NDLイメージバンク | 国立国会図書館

「スポーツの趣味はうつろう」で書いたよう嘗て大相撲の大ファンであったが、大鵬時代→北玉時代(北の富士、玉乃島(改め玉の海))~千代の富士時代をピークに関心が低くなった。しかし、最近はモンゴル出身者だけではなく、朝乃山、琴ノ若、大の里など有望力士登場と相俟って関心が出てきた(最も嘗てのように全取組みを生中継で観ることはもうないと思う)。尚、
モンゴル人力士への偏見はないつもりだが、朝青龍、白鵬のマナーの悪さはやはり頂けなかった。

トリビアについては、現大相撲は江戸時代のものを継承しているので、それ以前の相撲は対象にしない。そもそも相撲に類するものは人類共通であって日本でも先史時代からあったと想定される。日本では大雑把に言えば、

①神事相撲・・神話も含む庶民の間での神事としての相撲
②節会相撲・・奈良・平安期。天皇や貴族の前で宮中儀式として行う
③武士相撲・・鎌倉期以降、武士が鍛錬行う、武力として相撲強者を雇う
④勧進相撲・・主に江戸期に入り、勧進(勧請)するための資金集め興行

と推移し、勧進相撲だったものが勧進と関係なく行われるようになったのが大相撲のルーツと言えよう。

1.「一年を二十日で暮らすいい男」・・興行回数と興行日数

関取のことを「一年を二十日で暮らすいい男」と表現した川柳を相撲ファンならずとも聞いたことがある人も多いだろう。年二場所、一場所10日で20日働けばいいという趣旨である。現在の年六場所、一場所15日制になったのはそう遠い昔ではない。

(1)  場所数の変遷
二場所:~1952年。東京で2回(1月=春場所、5月=夏場所
    これとは別に大坂で関西場所(3月場所、秋場所)が行われていた
    時期も一時ある。東京開催に出場の力士が必ずしも出ていた訳では
    ないので捨象
四場所:1953~東京3回(初場所、夏場所、秋場所)、大阪1回(春場所)
五場所:1957~11月に九州場所を追加
六場所:1958~7月に名古屋場所を追加

(2)  日数の変遷
10日:~1922
11日:1923~
13日:1937~
15日:1959~

相撲の神様・角聖と言われ69連勝の連勝記録を持っていた双葉山は11日制、13日制、15日制を経験している。69連勝は年二場所の時で1936年1月~1939年1月にかけてである。

因みに筆者は、小学生になるまでテレビがなく『三丁目の夕日」の如く他の家で相撲中継(だけ)を見せてもらっていた。当時は双葉山=時津風理事長というイメージしかなかった。

2.本当はよく分からない初代横綱
「元々、番付の最上位は大関で横綱は名誉職だったと」ということは人口に膾炙していると思う。横綱の起源は諸説あるものの根拠レスで、史実として確認できるのは相撲故実(有職故実の相撲版)を仕切っていた熊本の吉田司家(後注参照)が地鎮祭の儀式を相撲に持ち込み、徳川将軍の上覧相撲の際にしめ縄・・これを横綱という・・を最強力士に伝授して四股を踏ませたのが起源のようである。即ち横綱とは縄のことであり地位ではなかった。この時に横綱を伝授された力士が有名な谷風(伝63連勝、98連勝とも)と小野川(今も年寄名に残っている)である。

現代人も名前だけは知っているという感じで一番有名なのは雷電(為衛門)で間違いないと思う。江戸時代最強と言われたこの雷電は横綱を伝授されていない。これは上覧相撲の機会がなかったからのようである。従って、横綱を伝授されるか否かは実力だけなく運に左右されていたことになる。

横綱が誕生した際、第〇〇代横綱といっているのは周知のとおり(照ノ富士は第73台)である。初代を誰にしているかというと明石志賀之介という人物らしい。初代~3代までは確たる証拠はなく谷風を初代にすべきという意見もあったようだ。日本相撲協会は初代~3代を認めている。番付上に横綱が初めて登場(実は一番上位という意味ではなかったが仔細は省略)したのは1890年(明治23年)、協会規則に明文化されたのは1909年(明治42年)である

3.相撲と角力、関取と年寄
相撲界のことを角界といいい、相撲ファンを好角家という。これは、相撲のことを角力と書くことで分かるよう、角力に由来するものである。古代中国では力比べ(武芸・諸芸全般の力量比べ)のことを角力、角觝と呼んでおり日本では古代より角力という言葉(孔子の『礼記』由来?)が浸透していて何時しか相撲だけのことを指すようになった。相撲も中国由来。語源は諸説あり。日本では、すまひ→すもうに転訛したとされる。

現在の関取は十両以上の力士を指す。関取の関は元々は関門のようである。室町時代、相撲で相手を次々と破ることを「関を取る」といいこれが関取の語源。関=関門を取るものは強者であるという意に対応させた模様。この中で特に強い者に「大」を付けたのが大関と考えられる(平安時代は一番強いものは最手(ほて。最も強い取り手)といい、その次のものを脇といった。関の脇が今の関脇という具合である)。

年寄は、大名など召し抱えられていて老齢になり現役を引退した力士のことで、力士集団の統制・監督にあたった。これがやがて株仲間と同様の機能を持ち相撲興行を仕切るようになり現日本相撲協会へと移り替わった。年寄株を持たないと親方にはなれない(親方でないと部屋を持てない。但し、部屋所属の親方も居る)のはご存じのとおり。

年寄株は正式には年寄名跡といい現在の定数は105である。年寄名跡を取得する条件は色々あるので割愛するとして、例え条件を満たしても空きがないとなれないので、誰かが持っているものを譲り受ける(=買い取る)ことが必要である。例外は一代年寄で大横綱と認められたものは一大限りで四股名の年寄となることができる。具体的には大鵬、北の湖、貴乃花である。千代の富士は九重部屋を継ぐため辞退。白鵬は対象外(品格の問題か?)

オマケ:
(1)  東西の意味と個人優勝
現在は東西(東方、西方)に殆ど意味はないが(同番付なら東が上程度)、元々東西対抗戦で個人優勝はなかった。1909年、時事通信社が最優秀成績者を対象に個人優勝額を掲額するようになった。成績が同じ力士がいれば番付上位者が優勝とされた。同一成績者による優勝決定戦制度が導入されたのは1947年。

(2)  天皇賜杯は何時から?
1925年(大正 14 年)、摂政宮 (後の昭和天皇) から下賜された金一封を元に作製されたもの。1926 年1月場所から幕内最高優勝力士に授与された。授与といっても「賜杯にその名を刻し永く名誉を表彰する」ということで持回り制である。代わりに小型の模杯が贈られる(賜杯も模杯も純銀製)。

(3)  ルール上は今でもあり得る引き分け
両者相譲らずない「水入り」があるが、それでも決着がつかず両者の動きが止まった場合(これ以上動けない場合)は引き分けにするルールがあるので今でも引き分けはありうる。実際は幕内では1974年(三重ノ海・二子岳戦)を最後に出ていない。蛇足乍ら、三重ノ海は。相手がまわしを取っても力が入らないようわざと「ゆるふん(ゆるまわし)」にしていたのが気に入らなかった。

(4) 国技館とプロレス
江戸での相撲興行を行う場所は一定ではなかったが、やはりメッカと言えるのは回向院である。その地(両国)に最初の国技館が建造された。第二次大戦で占領軍軍に接収されたため(その前に関東大震災で被災したり、日本軍に接収されれたり空襲で被災したりしている)、国技館は蔵前に建造された(仮設は1950年)。接収された旧国技館は返還された後、1958年日大に譲渡され日大講堂となる。

筆者にとっては、国技館と言えば、現在の両国国技館ではなく蔵前国技館であった。蔵前国技館、日大講堂ともにプロ格闘技の試合でよく使われ、ジャイアント馬場率いる日本プロレスとアントニオ猪木率いる新日本プロレスが同じ日に隅田川を挟んで両所で興行した際、「隅田川決戦」と言われたのが懐かしい。

注:吉田司家
相撲故実(有職故実の相撲版)を牛耳っていた吉田家のこと。司家とは相撲を司る家、家元という意である。前述のように横綱の考案も吉田家がしたと言われている。細川家に仕えていたことから、熊本市の総鎮守、藤崎八幡宮の参道脇に同家があったので筆者を始め熊本に縁のある人には馴染み深い。嘗ては横綱の授与権を有し、横綱昇進、その他のイベントで奉納相撲が熊本吉田家で開催されていた。不祥事により1986年以降横綱授与権はなくなり、日本相撲協会とも疎遠となっている。今は熊本市内→阿蘇に移転している。

参考図書:
池田雅雄(1977)『相撲の歴史』平凡社
新田一郎(2010)『相撲の歴史』講談社


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