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たくさん遊ぶことを生きる意味と設定するならば

人間は遊ぶために生まれてきた。

あくまでもひとつの考え方ではあるが、それが出来るとすべてがとても楽しいことであるように感じる。

色々なことを遊びとして捉えることが出来ること、それはとても素晴らしい捉え方の技術のひとつ。

どのような苦労であっても、どのような困難であっても、すべては遊びの一種と考えることが出来る。

課題をクリアするまで試行錯誤することは、まさに謎解きという遊び。

さらに1秒ごとに死が迫るという制限時間がある中の遊びであるため、より一つ一つの選択がとても大切になってくる。

何を選択するのか、どのように過ごすのか、それらはすべて遊び方に大きな影響を与えてくる。

自由を得るために、無限にお金を沢山稼ぐための遊びという捉え方も良い。

幸せな家族を作るという遊びもいいかもしれない。

借金まみれの不幸のどん底という環境から脱出するための遊びかもしれない。

逆に最高の状態からどんどん落ちぶれていくというのも、ものすごい遊びかもしれない。

相手を如何に騙してに出し抜けるかということも、遊びの一種かもしれない。

そしてそれを以下に見破るか、見破られないようにするのかということもスリリングな遊び。

物凄い発見をしたりして、偉人として名前を歴史に刻むという遊びもすごいもの。

歴史に名を遺すということのみであれば、時にはものすごい悪人として名前を刻むことが出来てしまうかもしれない。

どのような出来事も遊びに変換できるポテンシャルを秘めていて、その考え方がいつでも満ち溢れているかどうかということは、その人の人生の質を大きく変化させる。




時には遊びが思いつかないということもあるかもしれない。

とても暇で暇で、どうしようもないということもあるかもしれない。

もしおもちゃがなければ、そのおもちゃを作ってしまえばいい。

考えることそのものが遊びになるのならば、色々と考えて妄想することそのものも素敵な遊び方になる。

その遊び方には物理的なものは全く必要ない。

そして遊びの枠として設定されているモノだけが遊びではない。

趣味のジャンルとして様々なゲームが存在するかもしれないが、その枠を超えて自分で勝手にルール設定してしまえばいい。

もし目の前に何もなかったとしても、生きていることそのものがとても素敵な遊びになるに違いない。




沢山遊ぶこと、それを人生の意味として設定すること、それが出来ればどのような状態になっても楽しむことが出来る。

昨今のコロナ騒動やそれに伴う情報戦・言論封殺であったとしても、それらをいかに乗り越えられるかという遊びになる。

学んだことが全部嘘であり全部がひっくり返るということも、もしかしたらものすごい手の込んだ遊びなのかもしれない。

それこそ如何に騙されずに生き残るかという、なかなかスリリングなゲーム。

もしそのゲームに大失敗したとしても、捉え方によってはそれも遊びの一種にすぎないようになってしまう。

もちろんそのことに対して重く深刻にとらえようと思えばそうできるし、遊びだと捉えられればすべてはゲームになる。

いかにこの人生そのものを遊べることが出来るか。

どんな環境に追い込まれたとしても、それを遊びとして全力を持って取り組めるか。

人生そのものはもしかしたら、全ては遊びを真剣に楽しんだもの勝ちなのかもしれない。




ありがとうございました。

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