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成長を努力義務にする雰囲気が、おかしくなっている原因なのでは?

多くの人がより上を目指すために、日々成長目指して勤めている。

多くの人が昨日よりも豊かになるために、毎日努力して生きている。

以前の自分よりも成長した状態を生み出すこと、それはとても素晴らしいこと。

過去の不可能が現在の可能になっていることは、とても楽しいこと。

そして毎日の成長や努力について、それを周囲の雰囲気として努力義務としている文化が存在するのも間違いない。

ただ、成長そのものを努力義務のような雰囲気にすることは果たして健全と言えるのか。




会社や学校からすると、その人が成長を目指すこと、それを絶対的に肯定する。

それによって、その人の幸せにつながると考えているから。

ただ、その雰囲気を強制されることを嫌がるのはあたりまえのこと。

本人が成長を望んでいないのに、成長を無理やりさせることほど過酷なことは無い。

それは小さい頃に親から「勉強しなさい」「宿題やったの?」と言われることほどストレスになって勉強嫌いになるのと同じような仕組み。

もちろんそれが結果として成長につながることにもなるかもしれないが、そのことは自分の意思と反しているという事も多くある。

世間に求められる成長そのものが自分の意思と反した成長を求められることは、ある意味不幸の源であるように感じる。

周りから頑張れと言われても、そもそも頑張る気がない分野に頑張れと言われても、どうしようもない。

本当に頑張りたいようになること、自主的に成長したいと感じるような状態になることが最も大切である。

もし周囲がある方向への成長を望むなら、本人が自発的に成長したくなるような環境をいかに周囲が作ることが出来るかどうかが大切。

それが出来ない中で勝手に成長を義務化することそのものは、とても不健全であるように感じる。




そもそも成長は、ある軸で見たときにその軸の方向に向いて出来ることが増えるという事。

そしてその軸というものは、その環境や社会において都合が良い方向性。

ただ、それは逆方向から見ると逆成長ということもできる。

平時の環境と戦争中の環境では、人を傷つける能力の成長そのものの評価が真逆になる。

他にもあることが出来るようになることが、逆に何かが出来なくなることにもつながったりすることに目を向けていない。

視野が狭い中で、ある軸に適した方向に向いて進んでいるだけで、能力のカスタマイズにすぎない。

もしかしたらその方向の成長そのものは別の分野においてはとても大きな障害になることもあるかもしれない。

だからこそ、成長そのものをどの方向にするのか、そしてそもそもしないということについては、本人がしっかりと意思を持って決めて行くべきであるように感じる。




生きることにあたっては、そもそも成長する必要もない。

頑張る義務もないし、努力して上を目指す必要もない。

それは周囲が勝手に軸を決めて、勝手に望んでいるだけに過ぎない。

だから、本人の意思として遊び、それを楽しんでいればそれで何も問題ない。

より高いレベルのことや難しいことをやりたくなって、初めてそれに向けて成長するで何も問題ない。

成長は強制的ではなく、自主的に向かうようになるもの。

その人が成長に向かわないのは、そもそもの個人の関心が向いていないだけで、そのこと自体が良い・悪いということは何もない。

成長そのものを絶対的な善とすること、それを努力義務化する雰囲気、それによって色々とおかしくなっていることが世の中には沢山溢れているのではないだろうか。




ありがとうございました。

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