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村社会的な空間で群れていることが、無思考につながっている

集団でいることが好きな人、一人でいることが好きな人、人それぞれ志向が異なる。

その中でも両方のバランスを取っていることで、精神状態を安定して保つことが出来る人が最も多いと感じる。

そして一人、集団、それぞれの場面に応じて臨機応変に自分自身の行動対応を変えていく。

個人が好む志向と現実のバランスが崩れると、ある時は「一人の時間がもっと欲しい」となり、ある時は「もっとみんなと一緒にいたい」という気持ちになる。

その感覚は人それぞれであり、それを誰かから強制的にバランスを崩される環境になく、自由に選択できるのが最も良い生き方のように感じる。





集団の中にいることのメリットとしては、人によっては考えなくても良いという面がある。

というのも誰かと一緒にいると、ある人が考えてくれるからそこに身を任せておくと楽というのがある。

そうすることによって、自分の考え・決断をする必要がなくなることでエネルギー消費がなく、より無思考で物事が進んでいくのは楽である。

その場合はチームの中で役割が徐々に決まって行って、この人が方向性を示す、この人はアイデアや方向性に従うなどといった形に収れんすることが多い。

結果的に思考する・発言をする傾向のある一部の人が全ての方向性を決めることになり、その人の判断でほぼ全体の傾向が決まってくる。

結果として考えなくてもある程度自分の好みになる方向性に進む場合は、その中はとてもありがたい空間というは認識は間違いない。

そして集団の意見に近い意見を発するだけで、周囲は簡単に承認してくるから、さらに気持ちよくなることが出来るというメリットもある。

そのメリットを存分に受けられるからこそ、集団というのは居心地が良い空間と思うことが多いかもしれない。





ただ時と場合によってはその逆もあり、集団の方向性が自分の考えや生きている軸と乖離するケースもある。

多くの集団では全体方針(トップの鶴の一声)が決まるとそれと異なる意見は聞かれることはあっても、少数意見として聞かれるのみで、実際は尊重されてその通りに進むことはあまりない。

また所属する人も意見を言い慣れていない、もしくは対立を好まない場合は、そのまま自分の考えとずれたままの状態でそのまま進むことでストレスがたまってくるのが常。

結果的に何も発言せずに気が付いたら従わざるを得ないような形になってしまうと、自分が思うことと逆の行為に及ぶ可能性もあるかもしれない。

なので、自分の意見とは異なる部分がありながらもその集団と共に進む場合は、相当の高ストレス下に置かれる覚悟が必要。






集団と個の意見が異なった場合に、個が取ることが出来る選択肢は2つ。

それは
①集団から離れる
②自分の考えを捻じ曲げる
というもの

個人主義が強く、考えが自立している人が多い社会文化では①を選ぶことが多いかもしれない。

一方で村社会的な群れでは、①は多くの人は集団から離れると再び受け入れられることについて難しいというリスクを恐れることで、②を選ぶことが多い。

②をより合理化するために、自分と異なる考えが自分にとって合理的な理由を証拠として何とか探し始めるようになる。

証拠となるものはあらゆるもので、メディア・権威から情報から身近な人のまた聞きのうわさまで真贋を問わず、あらゆるものを証拠として採用するようになる。

これがより顕著なるのは、その集団に入るときに厳しい通過儀礼を伴った場合。

集団に入る段階で大きなコスト(サンクコスト)を払ったのだから、その分をわずかな考えの違いで離れてしまうのはもったいないというものもあるかもしれない。

結果的に自分が間違っていたのではないかという事にして、とりあえず違和感を封じ込めることで通り過ぎる。

それが繰り返されているのが、村社会の強い国の特徴。

そこでは思考しないことが最も合理的で低ストレスにつながり、誰もが最も選ぶべき選択肢になる。

それは現在の学校教育を経験すれば、誰でも身に付ける常識でもある。







このような状態が何を引き起こしたかは、最終的にどのような状態になったかについては、歴史が何度も証明している。

戦時中の出来事から、現在に至るまでの過程、最近の出来事まで、色々な例があるのは言うまでもない。

もちろん集団全体でいわゆる正解に辿りついていれば、何も問題なかったかもしれない。

だが、客観的に見て不正解に辿りつく場合がかなり目立っている。

その場合について、過去の場合はいわゆるトップ(思考する人)が目に見える形で責任を取るという形で何とか収めていたから、何とか収まっていたものが多い。

それが現在は不正解にたどり着いても、トップはその現実を受け入れず、責任の所在を有耶無耶にすることで責任を取らないし取りたがらない。

この状態を生み出したのはトップではなく、その環境を作った無思考側の問題、より厳密には無思考が合理的という環境・仕組みが機能した結果が今の状態と考えるのが合理的。

だからこそ、このようになってしまった仕組みそのものを今一度本気で問い直すだけでなく、見える化した仕組みとして変化させることが必要だと感じる。

なぜならこの目に見えない仕組みが見えない形で現状のまま機能している限りは、これから何度でも繰り返すことは目に見えているから。









ありがとうございました。

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