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三国史 聖地 1800年前に白帝城で劉備死す

新年明けましておめでとうございます。
新年から三国志のお話です

日本人は中国人よりも三国志好きと言われています。
以前、三国志検定というものが日本には存在していました。
三国志ファンなら1度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

三国志検定運営委員会が主催し、川本喜八郎人形美術館やゲーム会社のコーエーが参加し大東文化大学の教授だった渡邉義浩先生が問題を監修した三国志検定試験です。

 2008年12月の第一回および2009年7月の第二回は、映画「レッドクリフ」とタイアップして開催。その後映画が終わり第三回を最後に資金難から終了しています。検定は100点満点で70点で合格です。

検定クラスも4段階あり、
➀赤壁クラス(初心者向け)
➁3級は三国志好きレベル
➂2級は三国志知識人レベル
➃1級は三国志研究者レベル(上級者)

第二回の合格率は赤壁88%、3級59.2%、3級22.5%、1級41.6%となっていました。今でもNETで問題集を見る事ができます。
例題問1
『三国志演義』の「三絶」に含まれないものは誰か。
①関羽 ②曹操 ③劉備 ④諸葛亮

例問題2
後漢の末期に権力を握った董卓によって焼き払われたところはどこか。
①南京 ②北京 ③長安 ④洛陽

このような問題が100問でます。今でも問題ならNETで検索できて挑戦できます。

3級三国志検定試験

僕は試験をする程、三国志に詳しい人ではりませんが横山光輝さんの漫画原作のアニメを見たり、中国のドラマを見たりして触れています。

中国で生活するようになり、何かと三国志は話題になります。
それもそのはず「三国志演義」は西遊記、水滸伝、紅楼夢と並び中国4大名著の一つだからです。上海は呉の孫権ともゆかりある土地です。当時はまだ大きな村ではありませんが上海市内にあるお寺で龍華寺という場所が寺になる前は孫権が母親の為に建てたお堂があった場所と言い伝えられています。

孫権は今でいう南京市の方に城を構えています。上海では、それほど三国志に絡むものは残されてなく唯一龍華寺くらいしか僕も耳にしません。

日本で三国志で人気なのが蜀の劉備玄徳と家臣たち。
関羽、張飛、諸葛亮公明がやはり人気で名前は知っている有名人です。

劉備玄徳を訪ねる遺跡は蜀に集中しています。蜀と言えば今でいう四川省、重慶市の位置にあたります。

上海からはかなり遠いんです。大阪に飛行機行くより遠いんです。
上海から大阪まで2時間30分
上海から成都まで3時間30分

四川省、成都市には三国聖地として「武侯祠」(ぶこうじ)があります。
ここは元々、劉備玄徳が諸葛亮孔明の為に建てたお堂が始まりと言われていますが、この中には、劉備玄徳の陵墓(お墓)があるのです。


小さな小さな古墳のような丘です。発掘調査はされてないので中に何があるかは分かりません。1735年10月8日 - 1796年2月8日に皇帝に在位した清の第6代皇帝にあたる乾隆帝(けんりゅうてい)が陵墓として整備しなおして今に至ります。

この武侯祠には劉備玄徳と関羽、張飛が兄弟の契りを交わした桃園の契りの場所が再現されています。有名なセリフの「同年同月同日に生まれなくても同年同月同日に死すことを願う」省略。と言った場所です。
しかしこれは作り話なんです。


史実ではこの話は出てきません。三国志演義で書かれたお話です。

ここでもう少し深く書くと、
三国志は2つの書物があります。
「三国史」
「三国史演義」

「三国志」は歴史書です。三国時代の蜀漢に仕えた陳 寿(ちん じゅ)が残した本は曹操の魏を正統にした本ではあるけど、3国を平等に扱おうとして書いているお話。その当時、魏の国の事を書いた本ですが敵国として蜀や呉が登場しています。陳 寿の書いた三国志は珍しく3国を分けて紹介。「魏書」「呉書」「蜀書」と区別されているのが特徴で後世に引き継がれ高く評価されている歴史書です。

「三国志演義」が作られたのは、ずっと後の時代。明の時代です。明の時代は中国が華やかな時代で色んな文化が生まれます。中国4大名著も明の時代に生まれ、後に改編を繰り返し現在に至ります。

三国志演義は大衆にウケがいいように演出がかなり入った歴史小説のお話です。それが現在では歴史のように日本では理解されやすいですが小説です。

日本で言うと司馬遼太郎の「竜馬がゆく」と似た感覚じゃないでしょうか。

そんな劉備玄徳の陵墓がある武侯祠ですが、劉備玄徳が亡くなったのは、ここではありません。白帝城と呼ばれる場所で亡くなっています。
劉備玄徳が亡くなったのが223年ですから今から1800年前です。

亡くなった白帝城と成都市は直線距離で530kmほど離れています。
白帝城は「奉節」というみかんが産地の町です。長江沿いにある町で三峡ダム建設に伴い村が半分沈んだエリアで住民は高台へ移住するか、他の省へ移住をした村の一つです。ちなみに、奉節より少し東側(上流側)に僕の知り合いも住んでいました。その方も三峡ダムで村を出て遠く離れた他の省へ移住しています。

山峡ダムが建設されたことにより水位があがり白帝城は島になりました。昔は山の端で陸が繋がって3方が川で囲まれる城でしたが、今は全て川に囲まれる島になりました。高台にあった為、水の中に消える事はありませんでしたが、昔の景観ではありません。残念なのが、水の中に消えた遺跡があります。それが諸葛孔明が作った八卦陣跡地です。3方が川なので1方の守備を守れば敵は侵入しにくくなります。その1方に仕掛けたのが八卦陣と呼ばれる仕掛け(迷路みたいなもの)簡単に敵が侵入しにくくする壁です。

僕は重慶市から高速鉄道(新幹線)にのり2時間半ほど移動して奉節に行き、そこからタクシーで白帝城に向かいました。そのタクシーの中で運転手が教えてくれました。子供のころは八卦陣が見えたよと。

この白帝城は劉備玄徳が亡くなる時に息子の劉禅を諸葛亮孔明に託した場所で有名です。息子の劉禅に諸葛亮孔明の指示に従うようにと言い残しています。そして多くの家来に見守られながら命が付きました。

さらにここから見える長江の景色は中国の10元札の裏に書かれた絵になります。

劉備玄徳の墓は四川の成都市の「武侯祠」とされてます。
かなりの距離があるので運ぶとしたら船で長江を上流に進み重慶市を経由し楽山へ行き北上し成都市の方へ船で行くルートだと思われます。

そして皆さんは諸葛亮孔明のお墓がどこにあるか知っていますか?

諸葛亮の墓は西安より左下に位置する陝西省勉県の武侯墓にあります。ここは、かつて劉備が曹操と漢中を巡って激突した定軍山(ていぐんざん)の戦いの舞台でした。老将・黄忠(こうちゅう)が魏将の夏侯淵(かこうえん)を敗死させた場所でもあります。

諸葛亮は、この場所を自分の墓とするようにという遺言を残し、ここに葬られました。遺言により、墓は質素に造られ副葬品などもなかったとされています。

ただ、この武侯墓の敷地内に墓が2つあるのです。奥にあるものには「真墓」という石碑が建てられていて、1799年頃に風水や歴史に通じているという人物がここに本当の墓があるとして建てられたもの。が今言われているお話ですが、今回、白帝城に行く時に聞いた話では、諸葛亮孔明の墓はその2つとも違う。そこではないという説を聞きました。実際の墓は発見されていないというのです。というのも墓を埋葬する時に8人の家臣が埋葬をする事になり、8人とも埋葬後に謎の死を遂げているという話を聞きました。自分の墓を教えない為に孔明が仕掛けをして埋葬後に土砂崩れを起こし墓と共に8人も埋めたというのです。そんな伝説的なお話を聞きました。確かに諸葛亮孔明の墓は正式にここという記述は存在しません。今ある墓は、一応定説では武侯墓になっているのですが、調査はされてません。諸葛亮孔明ともなれば死に方も伝説でした。

最後までお読みいただきありがとうございました。
今年もよろしくお願いします

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