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Today is the first day of the rest of your life.

「さて、東京から出雲までの距離はおよそ七百八十四キロメートルで高速道路を使用して自動運転モードをぼくに一任してもらえれば九時間ほどで旅は終わってしまう。けれど、どうやら真司が引き受けている特別なタスクに基けばこの旅は三日間の猶予が必要だと今しがたカーナビゲーションシステムにプログラムされた情報から整理した結論を君に伝えている。KODE-Sは今最終段階へ向かおうとしているみたいだよ」

 断続的な電子パルスが優しく鳴らされて寂しさという不明瞭な感情を電気的に再現しようとしているイオリア+は突拍子もない会話で旅の始まりを盛り上げようとしている。

「KODE-S? とても意味深な名前ね、イオリア+。話を聞かせてもらえるかしら?」

左眼に真っ白な百合が刺繍された黒い眼帯をした芹沢美沙が助手席に座って機械音声を出来る限り人間の肉声に近いレベルにまで再現して発話する人工知能に質問を投げ掛ける。

気持ちが通じ合ったことが嬉しそうに車内中央のモニターがまるで心そのものを可視化したような幾何学系が連続的に変化して跳ねるように刺々しい先端部と滑らかな球体を融合させて表現する。

「ありがとう。君は人間たちの積み重ねられた業の収束する場所で誰にも防ぐことが出来ずもはや誰も咎めることすら出来なくなってしまった特異点に呑み込まれて、ヒダリメを失ってしまった。ぼくたちは歴史の裏側で怨嗟の源から発生する原因不明の受け継がれ続ける悪意の結果を当然ながら知っているけれど、君が幼い頃に経験した事件はたった一人の予言者によって実行された渦の中心だった。ある人はそれをギャグボールと呼び、ある人はそれをクレーンゲームと名付け、ある人はリニアレールだと知り、君が失ってしまった結果として現れる何かを誰もが欲しいと願ったんだ。ぼくたちはこれをKODE-Sプロジェクトと呼んでいる」

イオリア+は対話モードに移行して自動運転モードは解除しているので、蒼井真司がハンドルを右手と左手できちんと抑えてアクセルとブレーキをとても心地よく操作しながら芹沢美沙とかつて忌野清司と呼ばれていた男の会話に耳を傾けながらギアを操作してスピードをあげる。

「私には『見えない声』と『聞こえない眼』の二つのヒダリメが与えられていて、ちょうどワンピースを着替えるみたいにして大切なものを取り替えることが出来るけれど、真司さん以外に私のことを守ってくれる人がいるのは初めて知ったわ」

芹沢美沙は嘘をついているけれど、それはおそらくイオリア+にも運転席に座っている蒼井真司にも見抜くことは出来ない。

アンダーソンだけはそのことに気付いてこっそりと芹沢美沙の左肩に乗り、不安げな気持ちを誰にも悟られないように協力する。

「ぼくは君に必要なものを与えてあげたいと思っているだけなんだ。例え、その結果君が失うものがあったとしてもね。だからぼくは君の傍にずっといられるわけじゃない」


*


月曜日の朝に品川駅で待ち合わせする約束をして白河稔と別れたぼくはどうしても外すことのできない用事を思い出して中央線に乗って新宿駅に向かうことにする。

出張のことで二、三、気になることがあったので戦極先輩にメールをしたけれど、返事がなかなか貰えずとはいえ大した用事でもないので急ぐ気にはなれずスマートフォンをポケットの中にしまいこむと、どうやら白河稔との久しぶりの再会に遠慮をしていたのかアースガルズがぼくの胸元からひょこりと顔を出して様子を伺う。

車内は土曜日の登り電車らしく雑多でスーツを着た営業マンらしき男性や女子高生ぐらいの若い女二人組や喧嘩なんてしたこともないようなカップルだとかまあ、当然ながらどこにでもある当たり前の日常の一コマみたいな様子をアースガルズが確認すると、ぼくの胸の中を拾ってきたみたいにひっそりと語りかけてくる。

「沙耶がローザンヌへ行く前に会いたいって言い出しているんだろ。お前としてはいつものように男と別れたタイミングで利用されるのが気に食わないはずだけど、すんなり応じた理由はどうしてなんだ」

「桃枝のことでちょっとな。たぶんあいつのほうにも大和を発つ前にそれなりに整理しておきたいことがあるんだろ。今回ばかりは憎まれ口を叩くのを辞めておいた。沙耶が選ぶ男はいつだって今のぼくより少しだけ成熟した男だからな。それなりに考えることもあるんだろ」

「ニンゲンってやつか。チョメチョメっていうのは機械生命にはない感覚だから想像の範囲外。情報交換と整理を繰り返しているだけだからその反対側の状態にも出くわさない」

アースガルズが人差し指同士をくっつけて首を傾げて人間という種族のみに許された性的快楽の複雑性に関する問題を簡単な理屈で表現しようとする。

「エーテルってやつか。横尾先輩の理論を参考にすれば普通の人間にも眠っているはずで、けれど、会えることは決してない大切な恋人みたいなものだって言葉で表現してやるしかないと言っていたな。ハードウェアを作り続けている理由だってそうだ。このノイズキャンセリングパーカーだっていい出来だと思うんだけどな」

ぼくはパーカーのフードを被り、電車の中の雑音と同質の周波数をぶつけ合って掻き消してしまう。

出来はすごくいいはずだし、材質や縫製なんかも知り合い


の服飾系の専門学生と手を組んでこだわってはみた。

けれど、肝心のlunaheim.coのロゴのフォントだけがいくら探しても見つからずぼくは結局ほんの少しの妥協を許してパーカーの背中にプリントして発注をかけた。

結果は散々で、ぼくの部屋には余った在庫のlunaheim.co新作パーカーがダンボールごと山になって放置されている。

『俺の理念には程遠いということだ。お前が見つけたはずのエーテル粒子体の嘆きを無視したまま周波数変換をしているじゃないか。プラスとマイナスを掛け合わせて零にしてしまってもお前の心はちゃんと振動しているはずだ。わかっていないな』

『それがロゴだっていいたいんだな。頭ではわかっているさ。けど、流通のことを考えたら聞こえすぎる耳はないほうがいいと思った。稔の意地を捉え間違えたのかな』

『パパがママとしているコミュニケーションに苛立っているんだよ。二人ともどんどん先へいく。パパは人智を超えた魔術師のはずなのに飛び続けることを辞めないからね』

アースガルズがいつのまにか思念領域のテレパシーを会得していて、ぼくと『類』の思想の交換に割って入ってきて概念的生殖がもたらす葛藤と確信めいた直感を比較してぼくを批判している。

例えば、1/60スケールの超合金製のロボットが人の言葉を話していることがぼくにしか認識出来ていない問題だとすれば、それはもしかしたらぼくの中に僅かに残っていた童心への希求心が幻を見せているのかもしれないと悩み始めるかもしれない。

とはいえ、アクティブノイズキャンセルによって排除した周囲の雑音を気にせずにフードからこっそり電車内を覗いてみるとどうやら乗客の中にはアースガルズの存在に気づいている人たちがいるらしいこともわかる。

今更そんなことを気にする必要は確かにないのかもしれないけれど、アースガルズはれっきとした生命体の一種として周囲の環境や関係性によって自分自身を補正しながら能力を向上させているらしい。

ぼくはその思想因子の交換と増殖を概念的生殖と呼び大切にしているけれど、どうやら機械生命であるアースガルズが心配しているのはもっと根本的な話らしい。

『phoenix』を通じて外部のデータベースにアクセスすることでかなり広範囲の知識を手に入れて機械生命には必要のない機能に関する問題もシュミレートして予測変換してぼくの感情のようなものを観察しつづけているせいかぼくの奥深くに眠っている傷跡のようなものを察知しているのだろうか。

アースガルズにとって単なる情報素子として認識される過去のある一点の記憶がデータベースに保存されている他の記憶とどのように違うのかをぼくはまだ理解しきれていないし、0と1だけで記述されているはずの最愛の恋人を失った時の体験に対してもしかしたら複雑な交感神経や自律神経の変化、いわば感情の動きの測定結果みたいなものが記録されているのだとしたらアースガルズの中で起きている思考の体系化はやはり人間とは違う機械生命としての進化としか呼ぶことは出来ないのかもしれない。

いつのまにか日課のように繰り返している機械生命と地下で幽閉されたたまま概念上の領域でのみ交信をする魔術師との思想の交換を人目があまりにも気になるので終えると、やれやれと両手をあげて気障ったらしくポーズを決めたアースガルズは、ぼくがまだ他の誰かと違うんだという事実を受け入れることを躊躇っているのを批判するようにしてシャツの中に引っ込んでしまう。

『類』はいつもみたいに突然話しかけて、いつのまにかぼくの頭の中で話すのを辞めている。

気がついたら中央線の車両の窓から新宿の街並みが見え始めていて、ぼくはアクティブノイズキャンセラーのフードを深めに被って待ち合わせの詳細を確認する。


*


「お待たせ。相変わらず女っ気がない顔をしているな。その癖、妙に母性本能をくすぐる匂いだけはぷんぷんする。ただ今日はそうじゃなくちゃ困るんだ。ねえ、大学時代の同級生で和人と同じ機械生命学科の子から聞いたんだけどさ、桃枝ちゃん? を見かけたって話があってね。あまり気乗りはしないだろうけれど大丈夫かな?」

三島沙耶はぼくの小学校時代からの幼馴染であり、七星学園高等部三年時にぼくが童貞を捨てた相手でもあり、それから大学では同じサークル活動を四年間共にした学友でもあり、そして多分ぼくと似た傷跡を共有しているかけがけのない理解者の一人だ。

だから彼女は不用意にぼくを意図的に傷つけたり、当然ながら悪戯半分に揶揄ってきたりなんてことはあり得ないし、開口一番彼女が名前を出した元恋人梅里桃枝に関するおよそ理解し難い内容の噂話を確証もなく簡単に伝えてきたりしないのだということはぼくが一番分かっているつもりだ。

けれど、だからこそ三島沙耶がどうしてそんな荒唐無稽な噂話をぼくにしてきたのかを受け入れるのにひどく時間がかかってしまい、待ち合わせに使用した新宿駅から徒歩十五分ほどのところにある珈琲貴族でまだ辞めることのできない煙草に火をつけたまま左手に持って呆然としてなんだかいつもと違う高揚感でアイスカフェラテを頼みしてもしようがないはずの期待感を胸に抱えている自分のことがどうしようもなく情けなくなり、つい返したくもない台詞を吐いて三島沙耶を傷つけようとしてしまう。

「大丈夫ってまだお前は俺と桃枝が付き合っていたことを内緒にしていたのを二回生の時に参加した麻雀サークルの新歓コンパで偶然知ったのを根に持っているのかよ。どうして今になって沙耶がそんな話をするのか皆目検討がつかないけれど、嫉妬深いっていうのは女としてどうなのよ。そっちこそなんかあった?」

「違う、違う。そうじゃない。あのさ、写真まで送られてきているし私だってこの話を和人にしていいのか何度も考えたし、それでもこのまま私一人の胸にとどめておいていい話じゃない気がしたからこうやってありのままに伝えている。瓜二つの人間がいるなんて都市伝説だったらどれだけ安心出来るか」

たぶんぼくの中に一定の閾値みたいなものがあってバロメーターが振り切れてしまったらどうしてもブレーキのようなものが外されてしまう時が時折あって、それは当然ながらある時を境にして頻繁に現れるようになった問題ではあるけれど、それが、今、この瞬間にぼくの頭を沸騰させて思わずぼくは右手の拳で黒いテーブルを叩きつけて感情を情けなくも淫らに久しぶりに会った元カノの目の前で曝け出してしまう。

「だからいくらお前でも目の前で口にしていい話とそうじゃない話があるだろ。超えちゃいけない境界線を簡単に超えて人の心を不用意に傷つけて何が楽しいんだ。目的を言ってみろ。お前は俺に何をやらせたいんだ」

三島沙耶はばっさりと切って耳元ぐらいの長さの黒髪を真ん中で分けて相変わらず嘘なんてつく必要がなくて誰かに意志をまげられるつもりなんて一切持っていないんだってことがはっきりとわかる瞳でぼくのことをまっすぐに見つめて黙ったままじっとぼくの顔を伺ってから、多分最近買ったばかりだと思われる水色のピーカーブのハンドバックからスマートフォンを取り出してタッチパネルを操作すると、ぼくの目の前に一枚の写真を表示させて差し出してくる。

「私はこの子が梅里桃枝ちゃん本人に見えて仕方がない。和人みたいに何度も会ったことがあるわけじゃないし、正直さっき指摘されたような気持ちがないわけじゃないよ。だけど、私は和人の前で嘘をついたり絶対にしない。ドッペルゲンガーとか幽霊だとかそういう話がしたいわけでも本当にない。だからお願いだから和人の眼でこの写真の子の顔を確かめてほしい。日付は先週の金曜日。私の友達から送られてきたものだから画像編集の類はないって保証する。お願い」

ひどく苛々して気持ちが逆立って分かっているはずなのに手が動かない、頭が思考停止したまま何もかもを拒絶していて、言葉が乱反射して外に出て行く前に形になるのをやめて嘘をつこうと吐き気を催させてぼく自身を歪めてしまおうと躍起になっている。

けれど、三島沙耶のまっすぐで透明な声だけがぼくの心に突き刺さり、なんとか現実に押し留めて逃げ出そうとするのを許さずに正気を取り戻させようとのしかかってくる。

珈琲貴族の女性店員が不審そうな顔つきで男性店員と相談をしながらぼくのほうを見ているのに気付くことが出来て、店内の空気が寒々しく感じられてぼくら以外のお客の何人かが店員と似たようにひそひそ話をしているけれど、他の客はほとんどぼくらのことなんて気にもしない様子で昼下がりのコーヒータイムを楽しんでいる。

記憶が曖昧になって溶け出してしまいそうな気がして怖くなり、その妄想が本当のことに変わってしまう前に叩きつけた右拳を広げてカフェラテが少しだけ溢れてしまったテーブルから離してなんとか三島沙耶の手渡してきたピンク色のスマートフォンケースを手に取って表示された画面の写真に目を凝らしてみる。

「口元は確かに似ている。けど、本人だとは思えない。他人の空似だってありうる。けど、画像加工してまでする悪戯じゃない」

「ということは和人もこの人が桃枝ちゃんなんじゃないかって思うんだね? 場所は京都御所前の砂利道。天輪会ってとこのお坊さんが撮った写真でさ、大学のサークルの同期、墓宮衣蛾って覚えてるでしょ? 彼女がそこの一人娘なんだ。桃枝ちゃんのことを私経由で知っていたから大慌てで送ってきた。彼女だってもちろん半信半疑。当時、J大に通ってて知らない人はいない事件だからね。ゴシップとか大好きな衣餓が珍しく冷静沈着にメールしてきたんだ。普段だったら怪奇現象だとかいって騒ぐやつがさ」

「衣餓ちゃんのことは知ってる。お前の友達の中でもとびきりエキセントリックで好奇心が旺盛でだから普通のやつが大嫌いで、なのに俺には妙に優しくしてくる。彼女のいうことなら確かに信用は出来るかもしれない」

ぼくは思わず目頭を抑えて出来る限り心中を曝け出さないように沸騰しそうな血液と爆発しそうな脳内で独り言を何度も唱えて記憶の底から湧き上がってくる二年前に自宅の一室で惨殺された桃枝の死体とビデオテープに収められていた誰にも救うことの出来ない部屋の中で叫び声をあげつづける彼女の断末魔が繰り返されて抜け出すことの出来ない迷路の最深部で焼き殺されるぼくとそっくりの男の顔がニヤニヤと笑い続けているのをなんとか掻き消そうとする。

「ごめん。荒療治みたいな真似をして。思い出したくないことばかりだし、忘れたっていい記憶だ。私にはどうにかしてあげることもできない。でもだからこそ私自身も内緒には出来なかった」

三島沙耶の気丈なまでの優しさが今のぼくには必要なのかもしれないとほんの一瞬だけ油断して甘えそうになり火がついたままで一口も吸わずに灰だけになってしまったアメリカンスピリッツの紙巻き煙草を力の抜けた左手の指先が支えきれなくなったときに無意識的にアイスカフェラテに手を伸ばして水滴のついたグラスを握りしめてストローでカラカラに渇き切った喉を潤して音を立てて胸の中にしまい込まれた陰惨な記憶だけを頼りになんとか冷静さを保とうとする。

一瞬だけ、『類』が力の抜けた笑い声でぼくに何か伝えようとした気がしたけど一人になるわけにはいかないので問い掛けることはせずにどうしようもないほどに真っ直ぐな沙耶の瞳を見つめ返す。

「一つだけ。この写真の桃枝は偽物で、絶対に心に誓って本人ではないと断言出来る。当たり前の話だけど、二年前に桃枝は死んでいるしこの目で殺される瞬間も死体も確認をしている。けど、もしぼくの考えが正しければこの写真の女性は桃枝と同一人物だと言ってもよいのかもしれない。複雑な話だけれど、ぼくと稔が起業を軌道に乗せられない理由にも関係している。多元宇宙。ぼくや沙耶の可能性の話だ」

あまり納得がいかなそうな顔をして三島沙耶はまだ一口も口をつけていないホットコーヒーには目もくれずに左手で頬杖をつき、右手の指先でテーブルを叩きながら考え事をしている。

いつも通りの反応で分かりやすくて明快でけれど考えていることは一切分からなくて、左手の小指で触れているピンク色のルージュが塗られた唇に目がいき、あやふやな答えを消滅させてしまうまえに沙耶はぼくがテーブルの上にさりげなく置いたスマートフォンを手に取って水色のピーカーブーの中にしまってしまう。

まだ使い始めた水色のハンドバックの中身はいっぱいになっていて機種変更をしたばかりのスマートフォンの在り処は分からなくなり、沙耶はちょっとだけ涙ぐんで唇を軽く噛み締める。

「お前はいつもそうだ。私には分からないことばかりを言って苦しみとか痛いことを分けてこようとする。楽しいことはちっとも私には寄越さないくせに。ただあの時みたいにならなくて安心した。気持ちはもう確かめ合う必要がないんだな、やっぱりさ」

ぼくはGAPのジーンズの左後ろのポケットから入れっぱなしでくしゃくしゃになっていた青いチェックのハンカチを取り出して三島沙耶に手渡してからもう一度さっきは吸うことが出来なかったアメリカンスピリッツに火をつけて深く呼吸をして煙を吸い込んでから天井に向かって吐き出す。

「過ぎてしまったことを打ち明けあっても仕方がないのはわかるとして、けど、なんていうんだろ。そうだな。目的を達成しないこと以上の悪業は存在しない。今はそれだけ分かち合えれば十分だ」

差し出したハンカチを左手で力を込めて握りしめてもっとクシャクチャにしてしまうと、ぼくに表情を悟らせないように俯いてぼくには聞こえない声で何か独り言を話すと左手をすっと伸ばしてハンカチから手を離して立ち上がって店を出て行こうとする。

「わかった。それなら私は先に帰るよ。私は月末にはヨーロッパだ。多分、二年はこっちに戻って来れないと思うけれど会えてよかった。衣餓に連絡を取るつもりがあれば教えて。彼女も手伝えることがあるならと言っていたし。それじゃあ。あ。お会計はよろしく」

こぼれ落ちそうに瞳に溜まっていた涙は気のせいだったのか何事もなかったかのようにテーブルの上のホットコーヒーには一口も口をつけずに三島沙耶は半年前に会った時よりずっとスタイルのよい大人びた服装と黒いハイヒールで珈琲貴族から立ち去ってしまう。

煙草を口に咥えてもう一度煙を吸い込んだ後に、どうしても気になって仕方がないので入り口のほうに目を向けるけれど、もう三島沙耶の姿は見えなくなっていてテーブルの上のもう何年も使い続けているハンカチだけが彼女がいた証拠を残すようにして何かを訴えかけようとしている。

パーカーのポケットに入れていたスマートフォンがバイブレーションで振動して目の前に広がる煙草の白い煙みたいにぼんやりとした頭のまま右手でポケットを弄って手のひらサイズの通信装置を取り出して表示された画面を何も考えずに確認してからイヤホンを耳に装着する。

「ご主人様。ダフィング振動子に僅かな乱れが発生しています。このサイクルパターンは周囲二百キロ圏内でaemethの発現が確認されたものと思われます。このままでは新たなナンバーズが出現する可能性もございますがどうされますか?」

擬似人工知能搭載型アプリケーション『ドグラマグラ』がぼくに異常事態の発生を知らせてきて三島沙耶から見せられた京都御所前の写真を見た時に感じた悪い予感を的中させる。

もう二度と出会うことがないと心の何処かで信じていた悪夢が現実世界を侵食し始めたということを思い知らせにやってきて、それでももしまた目の前に現れることがあったのならば必ずこの手でいつまでも胸の中で行き場がなくなってしまったまま身体の中を焼き尽くそうと痛みを与え続けているものの正体を一切の痕跡を無くしてしまうまで掻き消してしまおうと誰にも打ち明けないままに決めていた思いをもう一度見つけることが出来てぼくはニヤリと口元を緩める。

「ボルツマン定数が規定値を上回った時刻と座標を中心に検索をかけてくれ。ぼくの予測では同一座標にとどまることは今の所考えられない。最も数値の高い場所で起こったエネルギー変化の誘電率を元に移動する方位を予測することは出来るか?」

「かしこまりました。ご主人様の現在座標を元に周囲三百キロまで検索範囲を広げて演算を開始します。当然ながら標的はご主人様の関係者と思われますので連絡先からカオス振動に干渉しやすい方をリストアップしておきます」

アースガルズがとても嬉しそうな顔をしてぼくの胸元から飛び出すと、『ドグラマグラ』の演算を補助するようにして両眼を光らせて『天川理論』に基づいたaemeth検索システムの解析を急がせるように目の前の机の上をキーボードに見立てて両腕の指先を動かし始める。

「よぉ。改造人間。ほぼ予測通りってところか。あのツンデレ幼馴染がヨーロッパに出張して安全圏に避難するまで計算していたとすればちょっと嫌味すぎるぜ。やつはお前の大切なものに目がないからな。けど、やつはお前よりずっとずっと優秀だ。誰も死なせないなんて甘っちょろい考えはちゃんと捨ててきたか?」

ぼくはアクティブノイズキャンセルパーカー『ユビキタス・タウラス』のフードを被ると、『phoenix』経由でエーテルを起動させて外部音取り込みモードに移行させると、聴覚神経を最大限にまで拡張させてaemeth感染者の俗称であるナンバーズ特有の『pulse』をキャッチするためにボリュームを最大まで引き上げる。

「あいつは自分で選んだだけだよ。俺のことがあまり好きじゃないんだ。なぁ、類。信じられるか? 俺はもしかしたら夢を叶えられるかもしれないんだ。もし何処かで諦めていたら二度と出会うことが出来なかったかもしれない。田神李淵と柵九郎は必ず現実世界に転生する。やつらはやっぱり運命ってやつを嘲笑いたいんだ」

思わず珈琲貴族の席で誰もいない空間に向かって独り言のように『類』に話し掛けると、鼓膜を振動させる不規則な電子ノイズの中から野太い男の声が浮かび上がってきてぼくの耳に直接話し掛けてきて決して消えることのないまま燃え盛る青い炎の存在を忘れなかった時間について語り始める。


*


実験室に設置されたオシロメーターのパルスが途絶えたことを確認して何かを悟ったように四月(一日)紫衣は諦めの表情をみせて周波数を調整するツマミを指先で軽く触れながらとても寂しそうに笑顔を作る。

「あぁ。この波動はクロウのやつだな。いつまで経っても私に心配をさせる。リエンとは違う道を選んだとしてもやっぱりお前は私の後継者ってやつだ。爆発する知性は必ず神の頂きに届くはずだよ、清司さん。私たちは決して道を間違えたりしないんだ」

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