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「凍子。お前の言った通りか。和人が本当に俺たちの夢を形にしてくれた。聖杯返還の儀式が済めば、白い羽根大聖堂そのものが『ホーリーブラッド』の管理下に戻される。愚者の聖杯と呼ばれる遺物の存在そのものが此の街には必要がなくなるんだ。ルナ☆ハイムコーポレーションは本当にeSシリーズを完成させるつもりなんだな」
「えぇ。リニアレールを信じたからこそ私たちは誓いを信じることが出来た。私には聖愛党で果たさなければいけない使命があります。ギャグボールの設計図面を『ヒダリメ』から託された日からずっとそうです。もう二度と螺旋獣Ͻは此の街を脅かしたりはしないはずです」
「あぁ、そうだな。マイナスファクターは俺様の悲願の礎になってくれた。だから、もちろん必ず東北連合経済特区を成功させる。奴ら二人もひと足さきに向かっているんだったな」
「はい。すべては予定通り。何も問題はありません。とはいえ、その前に一仕事ですね。街宣車が集まってきています。現聖愛党最高指導者代理『慈覚剣八』の絶対普遍宣言が始まります。見届けましょう。既に私たちは悪鬼を総て踏破したのですから」
 渋谷駅東口方面が黒い霧に包まれている。消防車のサイレンが青山方面と代々木公園の両方面へと向かっていく音がしてこちらもまた黒い煙が立ち上がっている。閑散としたお昼前のスクランブル交差点には普段流れているロックスターやアイドルたちのタイアップソングがなりを潜めていて、大型ビジョンに映し出されているのは縋るように救いを求める『慈覚剣八』をディフォルメしたイラストと『ホーリーブラッド』第三期応援ソングである『ハーレム』であり、広告塔として祭り上げられているピッキーがエロスを強調したルックスで軽快なメロディで街の雰囲気を盛り上げようとしている。
「えー。渋谷駅にお集まりの皆様方。本日は晴天なり。本日は晴天なり。我々、国家の安全保障と完全なる軍備縮小を目論む政治結社『聖愛党』であります。つい今し方、貴方たちの宿願となりし、白い羽根大聖堂において、宿敵『S.A.I.』との前指導者代理の独断による協定『フラックスコンパクト』が完全に解消される運びと相成りました。つきましては、お集まりの皆様より盛大な拍手を頂きたく存じ上げます。えー。それでは、せっーの」
 渋谷駅に集まっている人々はまばらで賑やかさとは無縁の光景で百人にも満たない通行人が拍手を送り、青い円形と白い円形が三つに連なった『ホーリーブラッド』のロゴがプリントされた横断幕の袂で演説を行っている菅野一蹴が深々とお辞儀をして渋谷の活気を取り戻す熱意を誠心誠意伝えようとしている。スクランブル交差点へ煌びやかに装飾された二トントラックに乗ったピッキーが真っ白なAラインドレスで大きな胸を強調するようにして、サビの『私は悪魔じゃないし、好きなことしかやりたくないの』をという歌詞を大胆で振り付けで踊りながら集まった渋谷の人たちにアピールを始める。金色の髪と赤い口紅がとても魅力的で性的アプローチに満ちたピッキーが現れると途端に閑散としていたスクランブル交差点に人が集まり始める。
「へぇ。俺が誰だかわかっていて闘いを挑んできているのか。生きるという欲求に基づいて対峙するのなら喰らい尽くすことだけからは逃れられない。なのに、お前は顔を隠して暴力を肯定しようとしている。絶対不遜であると戯言を俺に吐き捨てて一体何を得る? 教えろ。あいつは今何をしている? 二人がかりでもいいんだぞ」
「あぁ。あいつの母親を欲しい訳じゃないってことが俺にはわかるからだよ。お前たち悪魔には見返りが必要なんだろ。人間じゃないなんてことはわかりきっている。何も手に入れられないのなら俺を殺そうとすらしない。失うことを前提には攻撃をしてこないんだろ。確かに俺様は『マスクマンザレッド』だ。けど、お前たちの本当の敵は十歳になったばかりのあいつらなんだろ。何を奪おうとしているのか分かればそれでいい」
 十字架に磔にされた神原沙樹の母親は神原真江という。暴食のベルゼバブは『マスクマンザレッド』の猛攻を一切寄せ付けたりはしないけれど、ただ時間だけが過ぎていくことに焦りを感じ始めている。黒い霧が白い羽根大聖堂を包み始めている。様子がおかしいことに気づいてしまう。愚者の聖杯さえ手に入れれば、神にも匹敵する力を手に入れられる。嫉妬と色欲と憤怒の悪魔たちが聖杯に満たされた信徒の血液によって浄化されたカラビヤウが顕現することを望んでいる。だが、いつまで経っても『S.A.I.』の信徒たちによって穢された聖杯が手元にやってこない。断罪の塔が消え去ってしまえば、夢と希望は破壊されるはずだ。計算し尽くされた作戦に誤算が生じている。白い羽根に集まっていた求心力そのものが消え去っているのだろうか。暴食のベルゼバブが捉えて猿轡をしていた神原真江の口元に笑みが溢れる。
「んがふふ。んがふ。しゃき。しょうしょうきへしまったにょね。あにゃたはきっとこにょのひょきのにゃめにうみゃれてきひゃのね」
 母であることは血が繋がっているということ。意識が同化して私の一人であるということを自覚すること。ベルゼバブによって身柄を拘束された瞬間から神原真江は確信をしていた。決して切り離すことの出来ない肉親という呪いが私の娘をきっと救ってくれるはず。理英樹お父様を愛して貴方を宿した時からずっと逃れることの出来ない運命の輪を生きているのだと神原真江は知っていたと正気を取り戻して笑い始める。
「そうですね。お母様。私は理英樹お父様と二人で一つの血を分けたたった一人の娘なのです。逃げるなんてことは出来ない繋がりだけが『九琶礼』を同化させてくれました。『ヒダリメ』を今解放することができます。あの日、私にプレゼントしてくれた本の匂いを未だに覚えています。貴史さん、今行きます。神原家を決して途絶えさせるわけにはいかない!」
 『スイーツパラダイス』の星屑が光り輝き始める。決して挫けぬ意志が燃え上がり、全身を熱く穢して神原沙樹だという思いが胸に圧倒的な光を持ってして宿っていく。私にはお前が必要だ。絶対に逃げてなんかやらない。何処までいったって結局お前が私のことを台無しにする。だから負けて悔しくて涙なんかを流してお前なんかを認めてやる気にはならない。砕け散れ。私は大切なものを何一つお前なんかに与えてやらない。
「あぁ。そうだ。お前がやるんだ。俺だって死ぬ気になれた。俺の名前なんて伝える必要はない。最後の一撃はお前が喰らわしてやれ。必ず夢を叶えろ。信じていてよかった」
 『マスクマンザレッド』の右拳がとうとう暴食の悪魔ベルゼバブの頬を届いて一撃を喰らわせる。どうだ、痛いかと真っ赤なマスクをつけたまま鉄錆の味を確かめながら見下ろしている。もう逃げるんじゃない。助かろうなんて気にすらさせない。俺たちが必ず勝って平和を手に入れてやる。暴力になんて屈しないとはっきりと宣告する。壱號雲母はミサイル兵器とバリアによって戦意を失っていくルシファーにトドメの一撃を決意する。誰にも認められない傲慢な欲望が満たされないってことを思い知らせる。円城緋色は手に入らないって悔しさがどれほど自分を強くしてきたのかと泣き叫びアモンを睨みつける。鞄から取り出した一振りのナイフで最後の一撃を決心する。絶対にお前の思い通りになんかなってやるかって必死な形相に絆された強欲な感情だけで沸騰した血液で干からびた身体を嘲笑う。久遠寺哀莉はもう知らないふりを辞めてしまった街の人々をどうにもならない鬱屈した寂しさが届いているんだって歯を食い縛り、アスタロトに現実の存在を肯定させる。貴方ではダメなんですって間違っているんですって確かに産まれた本当の気持ちを信じて虐げられ続けてきた過去を振り切るために、悪意の存在を認めて血に飢えた獣の影で全身を覆い尽くして最強の一撃を結構する。私は折れてなんかやらないんだって今まで封じ込めてきた誰にも打ち明けることが出来なかった心の声を最大限の音量で吐き出す。
「ありがとうございます。私は『ネオンテトラ』総大将神原沙樹です。必ず勝利を。化け物どもを一層します。貴方たちは罪を贖うべきです。私の『ヒダリメ』に従え!」
「わかりました。きっと私は自分の力を信じ切ることが出来なかったんですね。最大出力で全弾をルシファーに! 絶対に逃げる隙すら与えてなんかやらない」
「そうや。私の気持ちなんて微塵もわからんやつなんかパパからもらったナイフだけで十分や。心臓を一突きでおわらせたる。誰にも認められなかったんだって教えたる」
「うん、そうだね。私はこのまま我慢なんてしていちゃダメなんだ。痛いなら痛いって伝えなくちゃいけない。もう誰にも頼らない。こんなやつ私が絶対に殺してやる」
 空気圧調整シューズ『ガイア』が重力定数を反動にして圧縮熱を最大限まで増加させる。『スイーツパラダイス』が星屑の光によって全身を覆い尽くしていく。悪魔とは一体なんだろうか。神という概念がある。地上を創り自分と同じ形をした模造品を誕生させ楽園を追放した張本人だ。だが、当然ながら実態は存在しない。超常性を言語として再構成して暗闇への畏怖を全体性に内包された一部として理解するための手法であり、法則だ。だが、人間という自己存在を肯定出来るほどの強さを持ち合わせていなかった。神の合わせ鏡として彼らの宿敵として存在する悪魔は翻って弱さを象徴する。否定的な側面を現象や物理的問題として擬人化することで、人間は神への憎悪を愛へと変える前に吐き捨てる。決して叶わぬエデンへの扉を妨げる自由意志の具現化として至高への快楽手順を悪魔として定義する。だからこそ、『ネオンテトラ』は十歳という大人への階段の分岐点に至る過程において重要な儀式を遂行する。決して拭えない原罪を自らの力で脱却する為の武器を手にいれる。走り出す。利き腕を振りかざす。必死に血液を巡らせて、思考を回転させる。不適な笑みを浮かべる悪魔を追い出すために全神経を集中させ、未来への不安、過去への後悔を何もかも受け入れて神原沙樹と壱號雲母と円城緋色と久遠寺哀莉は逃げ出すことなく脅威をぶち破る。
「うふふ。言った通りだったでしょ。パパ。この子は強くなるって。これで私の勝ちね。誰にも負けないっていうのを自分でちゃんと決めたのよ。私たちはちゃんと愛の結晶を育んでいたの」
 神原沙樹の見事なまでにお手本通りの正拳突きの風圧で、神原真江の猿轡が切り裂かれると、汗と涙が星屑を洗い流して彼女たちの前に立ち塞がった悪魔の化身どもを粉砕する。『ネオンテトラ』の三人は初めて自らの力で掴んだ勝利を祝福して友情を確かめあい、希望が輝き始める瞬間について語り合う。忘れえぬ出会いが奇跡のように訪れたことをきっと彼女たちは忘れるはずがなく、十字架から降ろした母の安堵の表情を見て神原沙樹は成長を実感して自信を漲らせて無事を讃えあう。
「お母様。私がこの場所に来たことを恨む必要がなくなりましたね。きっと理英樹お父様も天国で憂いているに違いありません。あの、貴史さんが私を助けてくれたんですよ。白い羽根大聖堂の野望はもう消えてなくなりました」
 息切れをして膝を抱えた円城緋色は両手の平がナイフを突き刺して溢れ出た血液で真っ赤に汚れている。目的を完全に消滅させてしまった壱號雲母は御茶ノ水博士が搭載した高精度心性誘導合成機能が状況を分析する為に演算を繰り返して一時的に制御不能に陥っている。殺意が眠っていたことを知ってしまった久遠寺愛梨はようやく取り戻した理性と本能の境界線を今度こそきちんと受け入れてどうしても抑えきれない微笑みを覆い隠そうとしている。
「うちらが勝ったんやな。お母さんのことよかったな! あいつらの目的は結局なんやったんっておもっとったけど、うちらが負けんかった。掴みたいものがないやつなんかに負けへんよな! うちらは『ネオンテトラ』!」
「あの、誰も傷つけないでって私は我侭を言っているのかと思って、誰の気持ちも考えないで生きているのかなってそう信じてしまう時があって。けれど、貫けばいいってそう教えてもらってしまいましたね! 私は『ネオンテトラ』」
「私もしかしたらこの声が嫌だったのかもしれない。他の誰かの考えていることばかりを気にして嘘をついていたのかもしれないって。けど、どうしてもやらなくちゃいけない時は必ずくる。だって私は『ネオンテトラ』ですからね」
 三人の十歳の女の子は初めて勝利を手にした神原沙樹と出会いを祝福して自分たちが最強への道程を歩き始めていることを讃えあう。どうにもならない困難にぶつかったとしても必ず乗り越えられるという実感そのものを手にして仲間であるという自覚を深く認め合う。白い羽根大聖堂という概念存在は渋谷の街から消失して大型複合商業施設『ヒカリエ』が渋谷駅前に聳え立ち、再び若者たちへの平穏無事な流行の最先端都市としての機能を取り戻させる。
「とうとうやったな。お前がこれから先、絶対に負けないんだってそう決めたからなんだな。俺にはまだわかっていない。きっとこれからもわからないかもしれない。俺がレベルゼロだからだ。だけど、よくやった。沙樹。これで俺は心置きなく『真紅の器』に──」
 ごほっと真っ赤なマスクとした『マスクマンザレッド』は口から血を吐いてその場にしゃがみ込む。肉体の限界に達していることを大量の汗と過呼吸状態の姿が訴えかけている。脳髄へ直接送られるブレインインターフェースからの刺激で感情が抑制されていた影響で仮面を脱ぎ捨てる。
「あ。やっぱり貴史さんなんですね。とても大変な思いをされて、そうまでして私のことを守ってくれたとは思いませんでした。ありがとうございます。けれど、すっかり血の気が失せています。お身体に差し障りはありませんか?」
「お前にはやっぱり隠せなかったか。あぁ、ちょっとだけ無理をしたよ。『マスクマンザレッド』は俺の能力を完全に引き出してくれる。普段出せない力だって出し切ることが出来る。あぁ、けど、やっぱり負荷が異常なんだ。身体中が軋んでやがる。ちょっと肩を貸してくれるか」
 しゃがみ込んで苦しそうな密ノ木貴史の姿をみて、神原沙樹は母親の様子を確かめて元気に飛んだり跳ねたりしている様子を微笑ましく思ってから赤い仮面を脱ぎ捨てた恋人の様子を気遣う。立つのもどうやらやっとのようで、路上で泡を吹いている悪魔たちの姿にやっぱり渋谷の若者たちは気にも留めていないことに苦笑いをして肩を貸して腕をかけて密ノ木貴史を立ち上がらせる。
「あら。やっぱり私の見込んだ通りのいい男じゃない。あなたの為に命を賭けられるというだけでその人を選ぶだけの理由があるわ。他の男には出来ないってことを証明見せてくれているのは大切なことよ。大切にするのよ」
 失うことの苦痛を気丈さを持って神原真江は最愛の娘に伝えようとして地下牢に閉じ込められて陽の光を浴びるのが実に数年ぶりという事実をまるでなかったことにするようにして笑顔を振り撒き、身体中に痛みが走っている密ノ木貴史を勇気づけて悪魔たちの戦いを勝ち抜いたのだということを娘の友人たちと喜びを分かち合っている。
「そんなことより笛の音が聞こえなくなりました。PINKSLIMEBURGERに立ち寄った時から聞こえてきた諦めの詩がもう何処にも見当たりません。世界を救うという使命を帯びた勇者が彼ら若者たちを見放していたのですよね。どうして彼はもう私たちの邪魔をしたりしなくなったんでしょうか」
「はは。多分黒猫と従者の仕業だろう。俺たちもハチ公口に行ってみよう。予定通りであれば、『真紅の器』より『ホーリーブラッド』に『愚者の聖杯』が返還される。『カラ=ビ⇨ヤウ』の源泉たる象徴が神楽坂に安置される予定だ。『S.A.I.』が目論んできた国内メディアの完全な破壊はきっと阻止される。俺たちは勝ったんだ。勇気を持ってそう言おう、沙樹」
「お父様はやっぱり無念だったでしょうか。貴史さんが小さなナイフであの人を刺殺した時はどんな顔をされていました? 『S.A.I.』の信徒たちを騙して偽物の罪を教えることで手に入れたかったもの。私が『ヒダリメ』として産まれたことをやはり心の何処かで苦しんでいたのでしょうか」
「答えはきっと霧の中だ。俺たちにはまだ知る由もない。もっとずっと後になって何度もこんな思いをしてようやく手に入れることが出来るはずだ。それでも俺たちは間違っていたなんて口が裂けても言うことは出来ないんだ。俺もあの人と同じを思いを抱えたまま生きてやる。これからも付き合ってやるよ、沙樹」
「あはは。貴史さんが『レベルゼロ』と言われる理由が少しだけわかってきたかもしれません。強くなんてなくていいって私はずっとそう思ってきたけれど。守れる力がないことがどれほど悔しいのか私が知りました。悪魔たちはまた現れて私たちの心を惑わすのでしょうね」
「あぁ。仕方がない。俺たちが人間である以上、神の意志には背けない。けれど、自由を手に入れることを絶対に諦めるわけにはいかないんだ。悪魔たちが手助けをしてくれる。奴らと対等の勝負が出来るまで俺もお前も戦い続けるしかない」
 密ノ木貴史はいつの間にか成長した神原沙樹が貸してくれた肩から離れると、誇りを振り払い、地面に落ちていた『マスクマンザレッド』を拾って渋谷ヒカリエ前からハチ公口へと向かおうと声を掛ける。
「なぁ、沙樹。ほんまにほんとにありがとうな。東京に来てうちはよかったってほんまに思たわ。西成に住んどったらわからんことも今日だけでたくさん知ったわ。なんちゅーか、その、お前はやっぱり私の親友や」
「あぁ。緋色さん。私の方こそあなたがいなかったらどうなっていたか。母を奪われてしまったことに諦めを口にして前に進もうとしなかったかもしれません。成長することを忘れてしまうところでした。これからどうするんですか?」
 円城緋色の大きな青いリュックサックはいつの間にかパンパンに膨らんでいて悪魔との戦闘で傷だらけになってしまった顔を綻ばせながらも勝利を手にした事実を噛み締める。
「あの。もし沙樹さんが旅を続けるなら私も一緒にいてもいいですか? タイムドライブは一度きりしか出来ないって博士には教えられたので、未来にはもう戻れないんです。この時代で生きていくしか私にはなくて。だからもし私が間違っていないのなら共に。きっと変わらぬ想いだけを大切に出来るはずです」
 壱號雲母には迷いはない。人間らしく生きていく機能は自分に必要だったのかどうかを確かめながら核融合回路を搭載した最新鋭の機体である自分の力を確かめながら前を向こうとする。
「だから、私にはどうにもならない瞬間があったことをやっぱり思い返してしまうんです。たくさんの人の声が傾れ込んできて感情だけが私を制御しようとしていた時から逃げ出すことすら出来なかった。強くありたいってお兄様に泣いて縋っていたことが悪いことなんだってきちんとわかったんです。だから、もう心配なんていりません。掴み取れる明日のことを信じられるかもしれないですね」
 久遠寺哀莉という人間がエーテルという可能性から脱却していることはもう既に頼ることが出来なくなってしまった兄様
からの思念とは繋がることが出来なくなってしまった現在にようやく気付く。『ネオンテトラ』ならばもしかしたら本当の夢が手に入れられるかもしれないと胸に秘めた思いを強く抱き締めて、神原沙樹が密ノ木貴史に続こうとする。
「えぇ。それではPickyさんの熱い思いが皆様に届きましたところで、『ホーリーブラッド』現指導者代理であられます『慈覚剣八』様のご入場です。えぇ。盛大な拍手を持ってお出迎えくださいませ」
 Pickyの煌びやかなステージショウが終わり、まばらだった人の群れが大挙して押し寄せてきた影響で緊急出動した警官隊が交通整理を始めている。鳴り響くホイッスルの音が日常から脱却した光景に異様さを付け加えている。何が起きるのか分からないと言った顔で聴衆は簡易的な音響でマイクから発せられる『ホーリーブラッド』幹部の煽るような演説に聞き耳を立てている。色とりどりの電球で飾り付けられた改造大型トラックが渋谷駅スクランブル交差点の北西側に停車するとパワーゲートが開いて、紋付袴姿に真っ白な頭髪とハンドルバー型の口髭を蓄えた『慈覚剣八』を周囲に威厳を振り撒きながら中央の演壇に現れる。左側には真っ赤な布地に白い胡蝶蘭が刺繍されたチャイナドレスで黒い長髪のサゲカウ、右側には青い布地に黄金の鳳凰が刺繍されたチャイナドレスに金色の長髪のアゲウルがそれぞれ大きな虹色の扇で『慈覚剣八』に仰ぎながら聴衆の割れんばかりの拍手に応えている。中央に添えられた金色のスケルトンマイクと彼の背後に貼られた
『性愛』と達筆な筆文字で書かれた垂れ幕が彼の威厳に説得力を加えている。『慈覚剣八』の声に反応してハウリングしたマイクを渋谷駅に集まった聴衆に向かって投げ捨てると、演壇を蹴り飛ばしてアゲウルとサゲカウの祝福を尻目にステージトラックの最前面に出て『慈覚剣八』は聖愛党絶対普遍宣言を肉声で叫び始める。
「どいつもこいつも腑抜けた面で雁首揃えて真っ昼間からよく集まってくれた。貴様たちに朗報だ。私が『ホーリーブラッド』現指導者代理『慈覚剣八』である。天現を示し、決して変わらぬ誓いを胸に称え、困難労苦一切を引き受ける貴様たちの救世主に他ならない。これより我々は『マコト』などと戯言を抜かし、世俗を誑かすことを胸とし、チルドレ☆ンこそが正義であると我々に協定を迫った『S.A.I.』との宗教協定を完全に破棄することを提言する。空虚な幻を絶対の真理として稚拙な輩の経典によって教えを説くことで我が国の治安にひび割れた信念を叩き込んだ蛇蝎の如き神の下僕を一掃することを貴様らに約束しよう。逃げるな。怯えを感じ取れ。恐怖にこそ我が存在する。信じることの無益さに耐え、貫き続ける苛立ちを決して表には出さない勇気を自ら讃え続ける徒であれ。私が貴様たちの弱き心に救う鬼どもを踏み躙って信じよう。我こそが『性愛』である。失った喜びを二度と手に入らぬものだと嘆き悲しむ暇があるのならただ祈れ。いつの日か来る希望を決して離さぬと誰にも打ち明けぬ強さこそ私である。さぁ、叫べ。我が『ホーリーブラッド』に『愚者の聖杯』が返還される。悪魔たちは皆この街から消え失せたわ」
 渋谷スクランブル交差点に金管楽器の盛大な音色が一斉に吹かれて歓喜の証を声高に叫び散らして聴衆の覚醒を促す『慈覚剣八』の微笑ましく凛々しい顔を祝福して大歓声と共に、『聖愛党絶対普遍宣言』が実行される。
「あの。先生。なんとかこの街に縛りつけられていた『愚者の聖杯』を解き放つことが出来ました。けれど、この器を私たちが返還する訳にはいきません。私たちは罪なき通行人でしかなく、名前すら持たない非存在透明化現象そのものです。声はなく、心は許されず、脚を踏み出すことも、光をつかみ取ることすら拒まれる。けれど、先生のおっしゃっていた通り、私たちこそがこの世界を成している。権力者どもには私たちの夢がわからない。何を本当に欲しているのか理解すらしていない。ならば、今日だけは救われる瞬間を目の当たりにしても良いのでしょうか」
「馬鹿をいう。瞳に宿ってくれるのは幻想なんかじゃない。存在を肯定することを許された現実なんだ。ぼくたちがいかように物質世界にこだわり続けたとしても意識に立ち現れるのは常に『超長距離高次元通信装置ギャグボール』の設計図案そのものさ。もし、あの時彼女に手紙を送ったりしなければと悔いたところでもう二度と会うことは出来ないんだ。いや、例え、そうだとしてもぼくたちはヤミを救う。そのために旅を続けてきたんだろう。この役目はあの子に任せよう。よく闘ってくれた。きっと彼女が産まれた意味をようやく理解してくれるはずだよ」
 渋谷の街にエーテル粒子体が可視化されていく。見えないはずだった抑圧者たちの思念が舞い踊り、偶像が消化されていく段階を聖愛党絶対普遍宣言によって断絶される。道が切り開かれていくと、母親に見守られ、密ノ木貴史に背中を押されて、三人の仲間に励まされた神原沙樹が背筋をぴんと伸ばして行進を始める。腕を大きく振って、金管楽器の音色で満たされた旧大山街道ガード下を潜り抜けて『聖愛党絶対普遍宣言』がなされている渋谷駅スクランブル交差点に入場していくアゲウルとサゲカウが紙吹雪をばら撒いて歓喜に沸いて涙を流している聴衆たちの興奮を最高潮に高めていく。神原沙樹はヒロインとして産まれた自覚が油断を産んで表情が弛緩してしまわないようにだけ気を引き締めて『慈覚剣八』が待つ大型トラックのステージ前まで真っ直ぐに歩いていく。
「ずっと傍にいてくれてありがとうございます。けれど、これはもう私が持っていてはいけないものです。きちんと返さなくてはいけません。私にはもう信じることの出来る仲間がいて、大切にしたい人がいます。私の目の前に姿を現してください。お父様に埋め込まれて否定されていた『ヒダリメ』の怨嗟が私を苦しめることはないでしょう。『愚者の聖杯』を今、此処に。私が神原家復興の切り札、神原沙樹です」
 十歳の誕生日を迎えた夜に、神原沙樹は父親の元から逃げ出した。彼女が産まれ持って与えられたのは『ヒダリメ』という輝夜の呪いであった。一千年の時を経て、彼女が失った眼球は愛を奪い、現実のみを肯定し続ける少女を産み続けてきた。救われぬ運命が与えるのは過酷な試練と絶望によって関係を保ち続ける虚構の世界。けれど、神原沙樹だけは知っていた。私を呪いによって苦しめるのは他でもない自分自身だったと、とある夜ベッドの中でそう気付いたのだ。どうすれば良いのだろう? 何をすれば誰のせいにしなくて済むのだろう。私に与えられた『ヒダリメ』はお父様を苦しめるだけなのかもしれない。どうしても償いが私を拘束する。自責の念だけが生き甲斐となり、復讐のみを誓い続ける愚者へと成り果てる。だから、彼女は抗うことを決断した。決して誰のせいにも出来ない自分だけの人生を生きる決意を神原沙樹は歩もうとする。
「よく来てくれた。『カラ=ビ⇨ヤウ』の件は私の落ち度だ。お前の父親が手に入れたかった新世界に私でも心が揺り動かされたのだ。だが、子のお前に責任はない。一切合切を水に流し、副顧問が代理となって結んだ『フラックスコンパクト』を解消することを約束しよう。だからもう苦しむな。私たちが必ずやり遂げよう。この街に溢れる笑顔が未来永劫失われることだけを理念としよう。さぁ、教えてくれ。お前の名はなんというのだ」
 神原沙樹は自分の背丈の何倍もある『慈覚剣八』をステージトラックに用意された階段から見上げて優しく包み込むような声に震えてしまいそうになる。私にはないものなのかもしれないと口に出してしまいそうになったところで『ネオンテトラ』の三人の顔を思い出す。目を閉じてまだ小さな胸の前で両手をしっかり合わせると心の声を向き合い本当の気持ちを打ち明けようとする。眩いばかりの光が彼女の両手いっぱいに溢れ出していくと、金色に光り輝く『愚者の聖杯』が両手の中に現れて彼女の決意を決して揺るがぬものへと変えていく。大きく息を吸う。最初の一歩を神原沙樹は自らの意志で踏み出す。
「私はまだ何も分かりません。青い空のことも街を彩る沢山の色や音もビルの隙間に吹き荒れる風のこともきっと知りません。けれど、これは私の手元にあってはいけないものだと思いました。お父様に言われたからでも、お母様を幸せにしたかったからでもないのだと思います。もう二度と私のことを信じる人たちのことを苦しめないでください。これをお返しします。私は私は私の左目に従って生きたいと思います。私の名前は神原沙樹と申します」
 神原沙樹は手に持った金色の聖杯を立派な髭を蓄えた『慈覚剣八』へと手渡すと、深々とお辞儀をして何故か自然と溢れ出てくる悔しさに負けないようにと涙を必死で堪えている。この場所では弱くちゃダメなんだと何度も唱えながら、たった一晩だけの旅路で得た経験で小さな身体を支えようとする。
「ありがとう。沙樹くん。これは元々私たちのものだ。簡単に手渡したりはしてはいけないと私の方こそ教えなければいけない。神楽坂まで持ち帰ろう。勇気を出してくれたことを感謝する。後のことはこの二人に任せるがよい。君が望む道を示してくれるはずだ」
 真っ白な髭を蓄えた『慈覚剣八』は受け取った金色の聖杯を両手で掲げて聴衆に『ホーリーブラッド』に返還された信仰の証を示そうとする。紅いチャイナドレスに黒髪のサゲカウが手を差し延べると、神原沙樹が掴んで蒼いチャイナドレスに金髪のアゲウルが笑顔でたった一人でステージトラックにやってきたことにねぎらいの言葉を述べる。
「よく頑張ったわね。私たちがあなたに渡さなければいけないものは何もない。ただ私の名前を覚えておきなさい。サゲカウよ。必要な時に思い出してくれればいい。私たちは大人たちのルールに従っている。天現に記された者でなければ此処では何も話すことが出来ないと肝に銘じなさい。勇者よ。あなたにはきっと新しい名前が与えられるはずね」
「ついに決めたのね。少しだけ私には未来が見えます。だから決して私の名前を忘れてはいけない。大切な瞬間に時を誤まるようなことはあってはいけない。天現にいかに背こうとも私たちがそれを許しません。あなただけに与えられるはずの使命をよく噛み締めておくのです。賢者よ。あなたにはきっと新しい部屋が待っているはずね」
 壇上へと上がった神原沙樹はサゲカウとアゲウルを両脇に従えて聴衆の方へと振り向くと、両手をあげて歓声に沸くスクランブル交差点に集まった人々の注目を一身に浴びる。ざわめきが少しずつ収まり始めると、沢山の人々で溢れかえった渋谷の街に静寂が訪れ始める。
「皆さん。私は『S.A.I.』代表神原理英樹の愛娘、神原沙樹と申します。今日はどうしても皆さんに伝えなくてはいけないことがあります。私たち神原家は共に、『写真家』によって託された予言の書と『戦争装置の必要性を訴える平和主義者』が遺した預言の書を研究して信者の皆様に伝えることで、国内の治安を守り、彼らが望んだ破滅的な未来の到来を防いできました。私の父、神原理英樹はその第一人者として『S.A.I.』の設立に深く携わったご承知の通り、『アメセク』の一員であり、リーダーであった彼の兄、我利貴、通称『シス』のよき理解者でした。けれど、知っての通り、『S.A.I.』つまりスーペリアアンドロギュヌスインテリジェンスにおいて教祖とされていました『サイトウマコト』は今生の『ヒダリメ』正統後継者であった女のヴァギナと眼球を消失させた大罪人です」
 神原沙樹は静まり返っている聴衆を見渡すと、両脇でしっかり前を見定めているサゲカウとアゲウルの顔色を一度伺って、左眼につけていた黒い眼帯を取り外し、彼女が持って産まれた左眼を冒している不治の病を顕にする。
「うわ。なんだ。あれ。左目が勝手に動いている」
「気持ちわる。どうなってんの、あれ」
「おーい。引っ込めー」
「なんで急に喋り出したのー。おかしいよー、それー」
 もし此処で涙を流してしまったら、彼らはきっと私の左眼のことを信じないだろう。お父様は新しい『ヒダリメ』が産まれてしまったことをとても悔やんでいた。私のことを蔑むような態度が多くなった。どうしても私が近くに寄ることを許さなかった。寂しかったけれど、「それはあなたが悪いのよ」とお母様は何度も私に仰っていた。辛い思いや嫌な気持ちを何度も味わった。逃げ出したいって思ったけれど、何処にも居場所なんてなかった。学校に通っていてもクラスメイトたちはいつも嘘偽りのない笑顔で私はなんだか彼らの気持ちが見透かせるような気がして怖かった。本当のことを私にだけ話してくれていない。そんな気がしてしまった。いつの日か部屋に帰ると真っ白な妖精がいた。彼は『ヘルツホルム』から来たんだって私に話してくれた。どんな気持ちを打ち明けても答えてくれたし、もし私が間違っていたら真剣な顔をして私のことを否定してきた。寂しさはいつの間にか消えていて、いつの間にか彼と話をするのが私の楽しみになっていた。私は『ヒダリメ』のことを打ち明けた。出雲という場所では『ヒダリメ』様と呼ばれて、皆が優しくしてくれるけれど、私は彼らのお住まいに訪れたことがない。きっともう必要ないんだって思っているかもしれない。だから、私はお父様の傍にいなくちゃいけない。私はちゃんと自分の頭で考えてそう決めた。君は私のことをどう思っているんだろう?
「なぁ。俺はいつかお前とお別れをしなくちゃいけない。そのことは何度も伝えたはずだぜ。そんな大切なことをもし俺に相談しちまったら、この先誰にも本当の気持ちを話せなくなるだろ。それでもいいのなら答えを教えてやる」
 頭の中にこびり付いてしまった悪い考えを追い出そうと私は頭を振ってお父様やお母様の顔を追い出そうとする。声が聞こえなくなる。もう私の周りには誰もいない。知らんぷりするのを辞めて真っ直ぐに前を見て真剣な気持ちと本当の感情だけを出来るだけ大きな声で伝えようとする。
「だから、私たち『S.A.I.』は『マコト』によって天現を示す手段を考えました。とても難しい話で私にはまだちゃんとわからなかったけれど、『カラ=ビ⇨ヤウ』と呼ばれるもので皆を幸せに出来るものだと神原理英樹はとても喜んでいたのを覚えています。ついに悲願を成就した、私はお前のことをもう憎んだりしなくて済む。だから、私が今生の『ヒダリメ』様に代わり、父に全てを捧げないとそう誕生日の前日に告げられました」
 声が震えている。自分でもよくわかる。交差点に集まっている人たちの顔がよく見える。皆が私のことを不審がっている。私に資格があろうのだろうか。きっとこの国は輝夜姫が遺した怨嗟の源をまだ必要としているのかもしれない。私には特別な力があり、きっとわかっていることを話さなくてはならない。視線がぼやけてくる。はっきりと見えていた沢山の人たちの表情が朧げに変わっていく。人だかりが怖くなくなっていく。喉から、両手から、両足から不安だけが何処かへ消え去っていく。人混みの向こう側に『ネオンテトラ』の三人の顔が見える。壱號雲母。円城緋色。久遠寺哀莉。もう何も迷う必要がなくなった。
「凍子。俺様はもういくぜ。あの子がきちんと役目を果たせるのなら片眼ぐらいならくれてやる。『真紅の器』がやらなくちゃいけない仕事はまだまだこれから増えてくるはずだ。だが、密ノ木は試練を乗り越えてくれた。東北は恐らく荒れることになるはずだ。もう時間がない。パンデモニウムに乗り遅れるわけにはいかないからな」
「ふふ。剣八様のあんな嬉しそうな顔を見るのはいつぶりでしょか。白い羽根の理力は私たちが責任を持って管理することになるでしょう。私たちが失ったものの価値と手に入れたものの重さを知ることにはどのくらい先になるのかは分かりません。ただ、やはりあの人は私の為にあれを創ったのではないでしょう。和人はきっとリニアレールを完成させるつもりでしょうから。とにかく、蓮華。お世話になりました。あなたがいなければ、大聖堂の崩壊はあり得なかった。あなたの見ている未来を私は共有することはもう出来ませんが、最後に一つだけ忠告を。『KODE S』の本当の目的を知れば、きっとあなたは選択をしなければいけないはずです。どうかルナ☆ハイムコーポレーションを信じてあげてください。それだけは忘れないで欲しいのです」
 天堂煉華はとても爽快な笑顔で三ツ谷凍子と別れを告げると、『聖愛党絶対普遍宣言』が行われている渋谷駅スクランブル交差点から立ち去ろうとする。人混みをかき分けながら現れた密ノ木貴史が天堂煉華に声を掛けると、笑顔を溢し激しい戦いに勝利した喜びを分かち合いながら消え去っていく。
「そうだ。私たちは大きな間違いを許したのだ。だが、この幼き子が歯を食い縛り苦しみに耐えて誓いを果たす為に親元をたった一人で離れてこの場所に立ってくれた。私たち大人は責務を果たさねばならない。これより『愚者の聖杯』返還の儀を執り行う。異議申し立てのあるものは迷わず前に出よ。この街から『S.A.I.』を撤退させる。私たちにはあれはもう必要のないものだ」
 『慈覚剣八』は南東方面の空を指差すと、左手に持っていた金色の聖杯を両手に抱えて神原沙樹の背丈に合わせるようにしてしゃがみ込み、今一度とても小さな痛みを背負う覚悟があるかと問い直す。神原沙樹とはっきりとした意志で頷くと、サゲカウは銀色のナイフを『慈覚剣八』に手渡し『S.A.I.』と『ホーリーブラッド』の代表の血液が混ざり合うことで完成する『聖愛党絶対普遍宣言』の発行の儀を執り行う旨をアゲウルが宣言しようとする。
「稔。未だ。時空を超えて、二つの予言を重ね合わせ『ファティマ』を発動させろ。『超高次元通信装置ギャグボール』が何もかも消滅させてくれる。俺たちには誰も罪なんて必要がない。奴らの思い通りになんてさせてたまるか」
「了解でござる。この日の為に何日も徹夜した『ソルマニア』の射撃能力を知らしめることが出来るでござる。小生たちが過去も現在も未来も手にいれる。eSシリーズは必ず完成させなければいけないでござる」
 スクランブル交差点の渋谷駅側に大柄な狐の獣人の白河稔が球体状の弾丸を右手に持った光線銃に装填して、大型トラックのステージ上に狙いを定めると、紺色の着物姿で腰に脇差と長刀を携えた太めの体格の佐々木和人は無銘の日本刀を抜いて同じ方向を指す。高まる充電音が鳴り響いて、光線銃の照準が『愚者の聖杯』のちょうど中央に目掛けて合わせられると、高質量熱原体が収束して電荷を帯びてコンデンサ回路が集積した電撃が白河稔の携えた『ソルマニア』より発射される。赤外分光砲によって分子振動を繰り返しながら『高次元通信装置ギャグボール』が大型ステージトラック中央の『愚者の聖杯』のちょうど真上で停止すると振動波動関数が三次元空間で合成されていく。
「これで完全に高次元化関数がウェルニッケ野とは分離される。脳髄から生成される言語構造が意識の領域に影響を与える可能性そのものを遮断出来るはずだ。どうにかして定的状態での通信回路を音響情報と完全に隔離される。物理法則とは無関係な情報因子の介入を完全に排除出来る」
「あぁ。集合的無意識に介在する状況分析を外部と接続されてしまっては少々厄介でござるからな。暗闇が一気に消失するでござる。渋谷の街にようやく光が訪れるでござるな」
 電荷を帯びた分子振動構造体が神原沙樹と『慈覚剣八』の狭間で圧縮された情報爆発が引き起こると、渋谷駅スクランブル交差点の北西側に停車した大型トラックのステージ上で収束した大気による赤外分光が発生する。『聖愛党絶対普遍宣言』を目の当たりにしていた聴衆は視覚及び聴覚への過剰刺激によって現実認識と物理知覚での状況を把握して現在時間による自我同一性を獲得する。

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