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昨日の夜は悠亜と別れた後に家に帰り、油絵のキャンパスの前に座ってみたが、幾重にも塗り重ねて現れたモチーフが思った通りの像を結んでくれずに投げ出したくなりそうなところを我慢して映画を見ることにした。残酷だけれど理由があり、悪事を咎められて破壊される存在と尊厳を保たれたまま自然への戒めとして送り届けられるものが純粋な欲望と真摯な信仰によって集団の犠牲になった挙句に昇華されるという物語でとても美しかった。ぼくは言葉を失い、しばらく放心状態のままベッドの上でぼーっとしているうちにいつの間にか眠りに落ちていて気がついたら朝を迎えていた。
「一日ぶりの出勤で君はご機嫌斜めかい。ユーザーは一応お客様だからあまり乱暴な口を利くな。ストレスが溜まってイライラをぶつけられると、周りのものが迷惑をするだけなんだ。みんなで協力して同じ女性キャラを演じている。わかっているのかな」
 金曜日は歓迎会の予定もあり、デジカムに出勤した。疲れていたせいなのか、それともメールの端々に未熟さが露呈していたことに木山が気づいて注意をしてきた。性的関係を求める男性ユーザーの稚拙さが目に入るたびに修正して露骨な嫌悪を返信内容に忍ばせていた。対面ではないユーザーが傷ついたり苛立ちが露呈することを快く思っていないということだろうか。
「え。気づかなかったです。クレームか何かですか。なんというかその──」
「お客さんが馬鹿に見える。のかな。上から目線で、彼らのメール内容に本当はどうしたいのかが隠れていて、そういう気持ちを揶揄って遊んじゃう。でも、私の方から見ると、君のメールも同じなんだ。仕事だからね、君が楽しめるようなことにはならないって言えばいい?」
「優しく接しても彼らの考え方は間違ったままのような気がして。アドバイスですよ」
「ふーん。そう。けど、あまり怒らせたり煽ったりはしないでね。タイミングは私たちが管理してるからさ」
 木山に咎められて、ぼくは歯痒さを言い訳に変えながらユーザーとの会話に距離を保とうとしていることに気づく。一昨日の夜、悠亜に返答されたことをぼくは解決出来なかった。描きたかったアイデアが頭の中ではっきりと思い浮かんでいると嘘をついていたのかもしれない。キャンパスに乗せる為に混ぜ合わせた油絵の具が何色何かはっきりと理解出来ずにモチーフすら曖昧だった。パン屋の店主に頼まれた三号サイズのキャンパスには幾重にも塗り重ねられた色だけがぼくの主張として置き去りにされていた。誰も助けてくれるはずがないのに、救いの声だけが筆に付着するのを求めている。
「穏便に話をしていても彼らは繋がりを求めてしまう。必要がないとは思わないってことなんですかね」
「一人きりだってことを自覚していないのかもね。じゃあよろしく。あんまり苛めないように」
 そうだ。ぼくは彼らが誰にも相手にされないからこそマッチングアプリに登録していることに自分を重ねてしまっている。酷い後悔と見えない不安を異性への感情と誤解してメールをしているだけなのに、傷が癒せるんだって思い込んでいる。勝手に答えを見つけられたって喜んでいるだけの子供の癖に、大人たちが手に入れられるような喜びを欲しがっている。絵を描いている時間だけ信じていることがたった一つある。きっとこれはぼくじゃなくても出来ることで、他の人が代わりを演じても許されるってことだ。ではぼくがいつも話をしている相手は誰なんだろう。対話を求めているのならば、ぼくは相手の要求に応えるだけでいいのだろうか。昨日は一日中筆を動かしいた自分のことを思い返す。今から会おうと顔も知らない女性にセックスの要求をしているユーザーの顔写真をみる。ぼく自身が分裂して意識だけ解き放たれたはずなのに自由を求めてマッチングアプリのユーザーとしてメールをしてぼくは対話を拒否するようにしてユーザーの言動を戒めてしまいそうになる。彼らが求めているのはやっぱり孤独なんだろうか。傷口が癒えるのを待って誰にも頼らずに生きていけるだけの強さを手に入れたいのだろうか。ぼくは子供みたいに我儘を言ってアルバイト生活を始めている。社会から取り残されていくことを快楽なんだって誤解をしているのだろうか。
「おはよう。まあ、件数は延びてきたな。稽古のやつがこうるさく言っているけど、相手はただの客だ。まあ、多少手荒に扱っても俺は文句は言わないよ。スピード勝負って考えの方が大事だからな」
 鷺沼が後ろからぼくの肩を持って一時間に応対するユーザーの返信数が先週より二十件ほど増加していることを褒めてくる。男性客一人に対する丁寧な気遣いが身を潜めている代わりに似たような応対をして適当にあしらう方法を気に入ったらしい。木山がユーザーの機嫌を伺っていることに不信感を抱きそうになる。広告代理店勤務時代のクライアントはぼくの緻密なデザインを気に入ってくれることが多かった。フォントの形と大きさ、ナビゲーションとボタンの配色の関係性、バナーへ適切に視覚誘導する為の技術、重要な情報とそうではない文字の意味。丁寧に一つずつ説明する度に彼らは感心して喜びを伝えてくれてぼくの作成した夢の販売方法を承諾してくれた。時間をかけてあげた成果をぼくは詰るように貶める必要がどこにもなかった。自信に満ち溢れた態度でコミュニケーションを取りながら欲求をひけらかさずに嘘を言えた。罪悪感は感じることの出来ない装置のようなものだと思い込んでいた。
「ありがとうございます。彼らの考えていることに同化しすぎないようにしただけでだいぶ楽になれたので。考え過ぎはよくないですね」
「そうだろう。嘘でもなんでもいいから片付けてしまった方が自分も楽なはずだ。必要なのは手を動かすことだけだよ。木山が何か言ってきたか」
「ユーザーの声に耳を傾けてってことなんだと思います」
「うーん。難しいことを言うな。もう少し気を抜いて大丈夫だ。あいつとは俺も話しておくよ」
「鷺沼さんは彼らのことをどう思っているんですか?」
「彼らとは? ユーザーのことかな。もちろん俺の飯の為の大切なお客様だよ。いくらでもメールを送ってやれる」
「あぁ。そういうことですか。なんとなくわかりました」
「そうだ。それじゃあ後はよろしく。ちょっと難しいキャラを飛ばす。相手をしてやってくれ」
 ぼくの肩から両手を離して席から立ち去ると、登録しているユーザーに対して新規に設定してた女性キャラクターからのメールを送信する為に自分の席に戻っていく。メールしていて気づくのは利用している男性ユーザーの職業や生活環境が多種多様で明確に彼らを区別する手段がないところだ。社会福祉の微々たる余剰を利用してメールをしている典型的な底辺もいれば、ある程度の収入があったり、それどころか相応の社会的地位についているユーザーも存在する。当然ながらヘビーユーザーには異性との関係性の構築に難がある性格的問題を抱えていたり思考パターンにはある一定の偏りが存在する。けれど、不平や不満レベルでいえばぼくと大差がない。当然の理屈に異を唱えているしコミュニケーションが完全に破綻しているものは稀だ。だからこそ、ぼくは少しだけ考えてしまう。メールの着信が届いた時の彼らの反応を出来るだけ具体的に。
「ユウヤ@ねえ、ポイントがもう残ってないんだよ。今日これからでいいから会いたいんだけど、どうにかならない? あんまり話長引かせないでよ」
「みーあ@私もすごく会いたい! けど、今日はね、仕事が残業になっちゃいそうだから難しいかも。それに私はまだユウヤ君のことたくさん教えて欲しいって思っているよ。ダメかなぁ?」
 二十代男性でアルバイト。ユウヤは顔写真をみて好みの女性に出来るだけ簡単なステップでまず会うことを目的としてメールをする。ぼくも含めてデジカムのアルバイトが複数の女性のキャラクターをメールの文章を利用して演じて返信をする。ユウヤはサイト内で見つけためぼしい女性に連絡をしてアポイントメントを取ろうと催促をしてくる。もちろんリンカと登録された女性はぼくを含めた従業員が交代で設定通りのメールを作成して相手をしているので、実際に会うことは出来ない。出来るだけ丁寧に尤もらしい理由を考えてメールでの関係を持続させようとする。
「ぺろぺろ@LineのID送るからこっちでメールしようよ。********。面倒だからマジでお願いねー」
「ジュリ@あれ? LineのIDちゃんとこっちに送ってくれた? 文字化けしちゃってわかんないんだけど…。まあ、とりあえずさ、会ってちゃんとお互い顔見てから交換した方がいいよね☆ 私は結構相性いいと思うんだけどなぁ」
 三十代男性で母親と同居。基本的に女性に対しての高圧的な態度でメールをしてくることが多く、対等な関係性を築こうとはしない。サイト内での世間話のようなやり取りを極端に嫌い、大抵の場合はLineなどを交換することで課金制のサイトの利用を辞めたがっている。男性ユーザーが女性会員とやり取りするのにはポイントが必要だ。0になってしまえば連絡を取れなくなる。大抵の場合、焦って出来るだけ早く関係を成立させようとしてくる。ぼくたちはそういうユーザーと同時に沢山の女性キャラクターを使い分けながら会話をさせることでサイト内の課金を促す仕事だ。マッチングする女性は架空であり、現実には存在しない。彼らはどんな部分に満足感を得てメールを利用した関係性に依存してしまうのだろうか。攻撃的な印象を作り、他者との距離感を出来る限り零にする為にサイトを利用している。どんなに知恵を絞ったとしても画面の向こう側の恋人には会うことが出来ない。何処かで誰かに必要とされたいという願望を課金することで手に入れている。彼らは孤独で何処にも行き場所がなく、視野狭窄のまま与えられた現実だけを信じようとしている。目の前にある情報を変更可能だという事実を否定することで求められている自分を偽造している。認められたいのならば、他者への信用のみを獲得するべきだ。
「ショウヘイ@ねえ、ぼくは君のことが大好きなんだ。こうやって素直な気持ちだけを打ち明けてくれることが本当に嬉しいよ。だから嘘だけは言わないでね。大切にしたいんだ」
「レイア@私もずっと同じ気持ちだよ。今日もメールしてくれて嬉しいな。お仕事はもう終わった? お疲れ様。今日は何を食べたのかな。ねぇ、私のこともしかして疑ってる? 信じてくれてるって思ってたのになぁ」
 ショウヘイ。三十代の男性。会社員。稼ぎは同年代と比べると少しだけ劣っているようで、学生時代の知人の悪口を時折メールに混ぜてきて相談を持ちかける。レイアというキャラクターとのメールのやり取りが三年は続いていて、奇妙なことに彼はほとんどの場合性的な話題がやり取りの中に混入すると苛立ちを露わにした返答をする。レイアと意識で繋がっていることを誇りに感じているのかもしれない。承認欲求を満たすためだけの恋愛相手を自らの欲求に従って創り出している。ぼくや他のアルバイトはレイアという女性の設定を決して間違えてはいけないし、仕事は家族関係だけではなく過去の出来事や交友関係に至るまでメール内容に余分な情報を混入させてはいけない。月額およそ三万円から五万円の課金で彼は非存在であるレイアとの友好的な関係を購入している。
「レイア@私も松屋は本当に大好き。吉野家と違ってお味噌汁だってついてきちゃう。あのね、レイアは焼肉定食が好きなんだ。それからサラダにかけるのはいつもシーザードレッシング。私たちは食事の好みもピッタリだしいつでも一緒に暮らせるね。ねぇ、水族館デートなんてどう? お魚さんたちのことをいつも羨ましいって思ってるんだ」
愛しているという言語認識から得られるのは当然ながら承認欲求と相互理解によるコミュニケーションの成立を想起させる。ショウヘイがサービスを利用する理由が男女間における完全な対話だとすれば、ぼくらオペレーターはより機械的に会話を成立させる。おそらくショウヘイという会社員にとって必要なのは真実ではない。彼が会話を通じて獲得したいのはレイアという女性を巧妙に演じているメールであり、サービスとして成立するだけの品質が保たれている返信内容だ。
「ねえねえ、ショウヘイのやつ怒っているよ。吉野家はお味噌汁がついていないからダメなんだって。意味わかんなくない? なんかこいつロボットみたいなくせにキモイよね」
 左隣に座っている赤い髪のバンドマンがぼくの返事に返してきたショウヘイとレイアのやり取り内容を見て笑っている。
「どうかな。彼はぼくより稼ぎがあるみたいだし、もし社内や他の環境で手に入れられる女性関係がないのなら合理的な理由でサイトを利用している可能性もあるかな。月に高額の料金を支払ってメールだけを買っているのなら彼は満足しているのかもしれないね」
「へぇ。何それ。女なんて何処にでもいるじゃん。なんでわざわざこんなところでメールするのかな。意味わかんねぇ」
「対面の関係に煩わしさを感じる理由はわからなくもないよ。バーや飲み屋で同じサービスを提供してくれる女性は存在するだろうけど、感情的だったり性的アプローチに違和感を覚えるのかもしれない。心配事は仕事の妨げになるからね」
 木山や鷺沼の視線が気になっていることをそれとなく隣のバンドマンに伝えてぼくはメールでユーザーの応対をする作業に気持ちを向けようとする。面白そうにユーザーを揶揄っていたバンドマンもむくれた顔をして仕方なくタイピングを始める。多少の会話ぐらいなら大目に見てくれているのか鷺沼は笑顔を配りぼくらの後方の席で社内の様子を伺っている。広告代理店に勤務していた時期は他の社員とデザイン案の修正やクライアントとの要望のずれを確認し合う程度で基本的には作業に没頭することが多かった。無駄話をしたくないというよりも仕事に打ち込んでいる時間に楽しさを見つけようとする集中力が何よりも大切だった。出来上がったデザインに僅かな違和感が混入するのが苦手だったのかもしれない。今は基本的には週に三回のアルバイト生活で責任の所在は目の前にあるユーザーとのメールのやり取りだけに限られている。例えどんな内容であれ、ぼくがユーザーに対して送る内容は社内で決めた女性のキャラクター設定に基づく適切な応対であり、ぼく自身の意向は出来るだけ少なく削り取った上で文章を作成する必要性がある。
「じゃあよろしく。今日のキャラ名は翔子。28歳の広告代理店勤務のOL。残業が多くて社内恋愛は苦手だから会社の外で秘密の関係が欲しい。性格や言葉遣いは明るいけれど、裏に透けて見える暗さがポイント。誰かに甘えたいって気持ちをあまり人に見せないようにしている。強気さの裏側をユーザーに突かせたい。カフェ通いが趣味で月に一度大学時代の女友達と飲み会を開いていて、彼氏いない歴は七ヶ月。相手の浮気が原因で別れている。一人暮らしで独立心が強くて、実家との関係は良好。というわけで、あとはテンプレを見て。とりあえずやり取り十回分は作っておいたからイレギュラーには個別に対応してください。波玲君はもう大丈夫かな? わからないことは木山にフォローしてもらってね」
 上司の鵜飼が同胞と呼ばれるメール文章を作成してサイトに登録しているユーザーに向けて一斉に同じ内容の文章を送る。女性会員であれ、男性会員であれ、マッチングアプリの主な特徴はプロフィールと掲示板だ。自分が望んでいる関係性や現在の生活環境を詳しく記載していくことでより好みの近い異性とのマッチングを目的とする。趣味や家族構成、住んでる地域や休日や恋愛に対する考え方。独身もいれば、既婚者もいる。パートナーには内緒で普段の鬱憤を晴らしたい。マッチングアプリを利用する男性ユーザー層のニーズに合った女性キャラクターを日々量産することもまた運営会社の責務になる。架空の女性とはいえ、彼女達が持っている設定は現実と即した形で男性ユーザーとの相性を高めるものでなくてはならない。レイアを愛し続けるショウヘイにとって彼女は彼の理想の姿だけを維持する。
「あ、波玲君。今日はさ、いつもみたいに細かいことは気にしなくていいから件数を出してみて。丁寧に返事をしてくれているのは助かるけど、鵜飼さんの作ったストーリーに出来るだけユーザーを合わせて欲しいんだ。どうしてもって時は私に声かけてみてね。それじゃあちょっとだけ忙しくなるけどよろしく」
 木山がぼくの仕事の様子を見にきて同報と呼ばれるサイト登録者への同じ内容のメールが同時に送られるシステムを利用したユーザー対応への心構えを伝えてくる。ショウヘイだけではなく多くの男性会員が相性の良い恋人を探している。とはいえ、女性に対するはっきりとした指標を当然ながら彼らは持ち合わせていない。理想的な女性のテンプレートは時事やテレビメディアで作られた偶像でなくてはならない。広告代理店時代に嫌というほど思い知らされたようにクライアントが実は何も求めていないことを理解しなくてはいけない。男性ユーザーが求める女性像すら運営会社が偽造することで彼らの好みを作り出していく。レイアを愛しているショウヘイがメールだけの関係を望んでいる理由は感情や個性を持った女性像をショウヘイが拒んでいるからに他ならない。他の誰かが作った羅針盤を利用して自分の行く先を決めている。返信メールの件数が増えて忙しくなる前に、スマートフォンを手に取って運営会社のマッチングアプリケーションを立ち上げる。爽やかさというイメージを視覚的に補完するライトブルー系を基調としたデザインと女性の満足そうな笑顔。冷たさを補完するためにキャッチコピーの「いますぐ会える」はチェリーピンクの装飾効果を利用してライトな性的印象をユーザーに決定づけている。SNSで見かけた広告に誘導されて男性会員の登録が促される。彼らは気まぐれに見かけたバナー広告で偶然と必然が重なり合って運命の恋人を手にいれる。
「お疲れ様。今日は波玲君の歓迎会も兼ねてお店予約したから。21時からだからほとんどみんな参加出来るよな。とりあえず先に木山と鵜飼が店によって席を確保してあるから社内チャットで連絡した通りのお店に向かってくれ。奏水、三人を連れてやってくれるか?」
 鷺沼が深夜番のアルバイトと社員への引き継ぎ報告をしながら歓迎会のお店へ移動するように指示をする。女子大法学部に通いながらアルバイトをしている奏水が手を挙げて、ぼくと赤い髪の横川とそれから入って三年になる二十代後半の鎹さんを先導して事務所を出る。合計四人で移動して宮益坂を下ったあたりの地鶏居酒屋まで歩いて移動しているけれど、ぼく以外は二十代で一人だけ四十代になっていることに当然ながら不自然な違和感を消化できないまま愛想笑いを極力しないように心がけて会話に入ろうとする。男性二人が気を遣わないように奏水が積極的にぼくに話題を振って雰囲気を和ませようとする。
「ねえ、波玲さん。どうしてうちに入ろうと思ったの? 誰かの紹介? なんか鷺沼さんと同い年なんでしょ。あの人は社員だけどさ。貴方は何をしている人なの?」
「ぼくは絵を描いて暮らしている。合間を縫ってアルバイトをしにきているよ。インターネットで募集の記事を見つけて面接を受けて働き始めた。慣れない仕事だけれど、興味を持とうとは努力をしている」
「アーティスト? ってこと? Twiiterとかやってる? 有名人なの?」
「フォロワーは二百人にも満たないし、名前が売れているとは言い難いかな。たまたま一昨日ぼくの絵を買ってくれる人がいて、出来るだけ素敵な絵をプレゼントしたいと思ってる」
「へぇ。それなのに、アルバイトをしているの? 将来のこととか怖くないの? 私は卒業したら、多分宅建の資格とって不動産会社とかに就職すると思う」
「そうだね。ぼくは八年間広告代理店に勤めてデザイナーという職業に就いていた。けれど、上司とうまくいかなくて辞めてしまって道に迷いそうだったけれど、絵を描いて過ごすことが向いていると思った。確かに二十代の頃本気でそんなことを考えていたけれど、いつの間にか愛想笑いの方が上手くなっていたんだ」
 ぼくの打ち明けている状況に奏水は戸惑っているのか、それ以上質問はせずにぼくの顔を真っ直ぐに見つめて夢を叶えようとしない言い訳を見つけ出そうとしている。
「へー。波玲さんはすごい人なんだ。ぼくはやりたいこともなかったし、なんとなくアルバイトを続けてる。物書きになりたいって思ったことは何度かあったし、本をたまに読んだりはするけど、時間がないし、嘘をつくのがたまに嫌になることがあるしさ」
 赤い髪の横川と一緒に前を歩いていた鎹がぼくの方を振り向いて怪訝そうな表情で見つめてくる。足りない記憶を後悔しているのか探している人生を見つけられないから誤魔化してしまうのかどちらの方が正しかったんだろうって迷いが産まれている。ぼくはクライアントからの要望に応えようとするみたいにして二十代の若者の内面を覗き込む。けれど、以前のようにぼくは彼らの要求を理解出来ているのだろうか。宮益坂を下っていく途中で反対側の歩道を洸さんが彼女らしき女性と歩いていて話をしているのを見つける。ぼくは彼のことを追いかけないように前を向くと、地鶏居酒屋まで歩いていく二十代の若者三人の背中が小さく見えていることに不安を感じるけど表情には決して出さないようにだけ気をつけようとする。
「あ、来た来た。七人分の席をちゃんと用意しておいたから座って。コース料理で飲み放題だから今日は楽しもう。あ、奏水。今日はあんまり酔っ払いすぎちゃダメだよ」
 木山が個室のお座敷席にぼくらを案内して先に着いて中央に陣取り、誰かと電話で話をしながらとても上機嫌で笑っている。鵜飼の話している電話のやり取りが耳に入ってくるけれど、彼はどうやら鷺沼と話をしているようだ。
「あはは。そうそう。社会福祉系のリストをもう少し増やそうよ。年齢とかで絞ってさ。それと、ゆうちょ使ってる客も的絞った方がいいんじゃない? はは。まぁ、わかるよ。まあ、とりあえず今月中にあと二千万は行きたいね。夜勤の連中にその辺伝えておいて。じゃあ後で──。お、波玲君、お疲れ様」
「あ、お疲れ様です。相変わらず忙しそうですね。顧客のリストですか?」
「あぁ、まだ波玲君は知らなくていいんだ。これはさ、俺たち管理の仕事でさ。まあ、一応簡単に触れておくと、ユーザーをうちのアプリに誘導するのに必要なリストを新しく仕入れるんだけど、今月の売上目標普段より多めに設定しているからちょっと登録者増やしたいんだ。メール沢山来るようになるから波玲君にも頑張ってもらいたくてさ。で何飲む?」
「えっと、ビールで大丈夫ですよ。じゃあユーザーっていうのは自然と増えるわけじゃないんですね。SNSからだけじゃなくて」
「へえ。うん。そうだよ、あれだけじゃ他のサイトだとかアプリに差をつけられちゃうからね。自分たちで頭使ってお客さん探さないと。どういうやつが出会いを求めているかはいつも研究してる。彼らには必要だと思うからさ」
「理想の完璧な女性ですか。忘れられない思い出とか大切にしておきたい言葉とか彼らはあるんでしょうか」
「おー随分と硬いなー。まあ、そこまで深く考えないでも大丈夫だけど、あの人たちは何も知らなくていいんだって思うことはあるよ。知らないことがあっても苦痛じゃないんじゃないかな」
「ずっと同じようなメールが届いてくれることがやっぱり嬉しいんでしょうね」
 鵜飼は何も言わず笑顔で誤魔化すようにぼくの質問に答えて元気の良く明るい笑顔で女性店員が生ビールを人数分運んできて、ぼくの正面の席に木山。右隣から順番に鎹、横川、奏水に座っている。ちょうど事務所から移動してきた鷺沼がお座敷個室に入ってくると皆が一斉に盛り上がる。期待に応えるように両手を挙げる鷺沼。鵜飼の左隣の席に座る。それぞれ隣の席に瓶ビールをグラスに注いでデジカム内でぼくが配属されたサイト「いまこい」の歓迎会が始まる。木山がビールの入ったグラスを手に持って身を前に乗り出すと、お座敷に集まった全員の顔を見渡して鷺沼が乾杯の挨拶をする。
「それじゃあ波玲君と今月の売上達成目指して乾杯! 今月も後少し頑張りましょう!」
 八人がタイミングを合わせてグラスをぶつけながら乾杯をしてグラスのビールに口をつける。大きな声で鷺沼が笑いながら、正面に座っている横川が生ビールをテーブルに溢したことを注意する。鎹がグラスを持ってぼくと乾杯を交わすと先ほどの話の続きを始める。
「あ、あの。絵描きさんって言ってましたよね。なんかすごい気になっちゃって。いい年してってそういう面倒なことをぼくもアルバイト生活だし、親からもよくはっきりしろって言われるからあなたにも言いにくいです。けど、アーティストって言いながらぼくのことをあまり見下したりはしていない。こいつとはちょっと違っていて。先行きが見えなかったりすることが辛かったりはしないんですか」
「不安定な状態でいることを望んだのは自分だから依存関係を明確していれば問題はないと思っているよ。拠り所を分散させてやることが重要で、操り糸の支点を力学的に想像する。これはどんな繋がりでどんな風にぼくに作用しているんだろうって。無重力空間を浮遊しているみたいに」
「責任って言葉がぼくは嫌いで。よく聞いてみると、誰かが何かをしなきゃいけないって状況はないのに、大人ってカテゴライズされた集団が無理やり押し付けてくる時ってあるじゃないですか。まぁ、逃げてるのかなってぼくも思ってしまうけど」
「正社員の鷺沼さんや鵜飼さんを見ているともう少し割り切っているように思えるけどな。大人であることを強要しているのは他でもなく社会な訳だし、生産手段にこだわらなければ楽に生きようとすることだけは出来るんじゃないかな。責任は枠組みの中で十分達成出来るようにはなってるはずだから」
「やりたいこと、やりがいって気持ちを伝えてくる人たちのことが気にならなくなるってことなんでしょうか。けど、自己実現って気持ちがアーティスト活動に近いんですよね。誰かに認められないと叶わないことがあるのかなって。だとしたら、やっぱり──」
ぼくの正面に座っていた木山が小皿に胡麻カンパチとチョレギサラダに乗せて素っ気ない表情で話しかけてくる。清原誠吾のディレクションがぼくの目の前に実態を帯びて現れたような気がして少しだけ怖くなる。
「なんとなく波玲君のメールの謎が解けたよ。ちゃんと恋しているなぁって思って心のどこかで嫉妬しちゃってるんだ。だって、男の人はこうしてあげたら喜ぶんだろうなってメールをちゃんと送れてるでしょ。私たちはほら、サイトの売上のことだけ考えてるから。当たり前だけどさ」
「あぁ。意味がわかります。ユーザーには上から目線でものを言ってあげれば十分なのに、波玲さんのやりとり見ていると、本当に存在する女性になってあげようとしている」
「そう。それそれ。あのね、こう言っちゃなんだけど、メールをしてる女性キャラが本当にいるんじゃないかって気分になるんだよ、私だってさ。この人は馬鹿な女の人で、頭の悪い男に一生懸命になってるって。ユーザーはさ、やっぱり私たちと一緒なんだよ。こんなやついないってちゃんと思ってる」
「あーですよね。波玲さんは優しい人ですよね。けど、彼らは波玲さんの作った女性で心が痛んだり苦しくなったりすることを嫌っているでしょうから。触れることが出来ないって思ってるんですよ」
 木山と鎹の話を聴きながら、ぼくはグラスを片手に生ビールを呑んで彼らが見ている世界とぼくの知っている時間をずれだけを確認しようとする。もしほんの少しでも操作を誤ってしまったら自機が爆発して消えてなくなってしまう。生命は有限で時間だけは誰にでも平等に与えられている。脳内に投影されている縦スクロールのシューティングゲームで注意深く敵機の放つ攻撃には決して当たらないように慎重に隙間を縫っていく。けれど、ぼくはこのゲームをクリアしたいのだろうか。確実な操作で襲いかかってくる障壁を交わしていき、銃弾の雨霰の中で決してミスをせずにアイテムを手に入れてパワーアップを繰り返しながら現れたボスキャラと対峙する。随分長いこと夢を見ていない。浅い眠りの中で瞼に映る幻がぼくに悪夢の到来を教えてくれている。
「な、波玲君。夢はあるか? 例えば、うちで働きながらでもいい。何か特別なことがしたい。他の誰かと違う自分になりたい。それから一番になりたいとか、あ、そうそう、木山みたいにいつか自分のお店を持ちたいっていうのでもいい。どうかな? まだ入って間もないからこそ君のことを色々と教えてほしい」
 鷺沼が横川をいじりながら笑っている奏水と鵜飼の方ではなくぼくと木山の方を向き直り、話題を拡げようとする。仕事の話題を中心にテーブルの上の料理を突いていたぼくたちを気遣っているのだろうか。コース料理のちゃんこ鍋を木山が自分の取り皿に盛って、鎹が瓶ビールを追加で店員に注文をしている。
「もし人生が本当に一度きりしかないのなら、ぼくはどうしても自分の心の中にあるわだかまりをどんなに計算を繰り返しても解消出来ないと思ったんです。みんなが叶えたい夢なんてある訳がないと思いませんか。広告代理店に勤めていたことがあります。クライアントがぼくに夢を語るんです。絶対に私は私のやってみたいことがあるんです。協力してくれませんかって。仕事だからじゃない。ぼくは彼らのいうことを否定なんて出来なかった。一生懸命に話を聞いてぼくが出来ることを利用して夢の形を具体的に見せる協力をしていたんです。夢が曖昧なうちはどんなに捕まえようとしても逃げていってしまう。掴めないんですよね。あぁ、だから、ぼくはまだあなたの前で話せないかもしれない。情けない限りです」
 グラスビールを一気に飲み干す。苦くて喉の渇きが潤う感覚に酔いを感じる。鷺沼が追加注文の瓶ビールを持ってぼくが差し出したグラスに金色の液体を注ぐ。ちゃんこ鍋で熱せられてぐつぐつと煮立っている。奏水や横川が鷺沼とはしゃぎながら将来の話をしていて、横川はフジロックに出たいと豪語して大笑いをされている。
「あー痛い痛い。あのな。世の中は当然ながら金だよ。稼いだ奴が偉いし、持っている奴がきちんと自分の意見を言える。口惜しくても耐えがたくても黙っていうことを聞いているしかない連中がごまんといるんだ。だからな、夢ぐらい見ろ。お前はどうやって自分を騙してやろうかって必死じゃないか。欲しいものを素直に手に入れようって気持ちが人を強くするんだ。弱いことを自慢げに語っても苦しくなるだけじゃないか」
 鵜飼のまっすぐな意見にぼくは何も言い返すことが出来ない。黙ってグラスビールを呑んでみるけれど、テーブルの上の料理に箸が延びない。行く道を塞がれていることにあの日と同じ感覚が押し寄せてくるけれど、息苦しくなることをどうにか耐えていることに自分でも驚いている。変わったのだろうか。どうしても受け入れられない鉄屑みたいな考えで頭の中を占拠されていくことに文句をいう自分を恥ずかしく感じるようにでもなったのだろうか。木山が話題にこまったのか鎹に話を振って奇妙な違和感と他愛のない笑いが行き交うお座敷の雰囲気を変えようとする。
「ねぇ、鎹君。彼女さんとは最近どうなの? 私はさ、最近色々将来のこととか考えた方がいいんじゃないかなって思っててさ。うちのはでもなんかいざってなるとはぐらかしたりするんだよ。大切なことだよねっていうんだけどゲームばっかだしさ。なんかさ、いい男っていないねー」
「あはは。彼氏さんは三つ上でしたっけ。確か他サイトの管理でしたよね。ぼくはどうかな。やりたいこととか夢もないし、ちゃんと貯金が出来たらとはどっかで考えているのかもしれないですね。変わらなくちゃって毎日思ってることが歯痒いですよ。なんていうか。その──」
「あぁ。夢がないよね。いつも同じことしてるだけだもん。うーん、あーもう。波玲さんさ、馬鹿なこと言ってないでさ。うちの社員さんになりなよ。結構イケメンだし、ちゃんとしたら彼女とか出来そうだよ。おじさんだけど、色々諦めちゃ駄目だよ。君は逃げてる。逃げちゃダメだ!」
「おぉ。エヴァンゲリオンですか。思い込み激しすぎていつの間にか世界が破滅しちゃうんですよね、アレって。目標をターゲットに入れてスイッチオン。心が病んでしまうと、夢だって見れなくなる。自分がみんなに認められる日のことを恐れなくて済むようにネガティブなこととはおさらばしたいですね」
「あぁー。そうです。ぼくはそれが言いたかった。ユーザーはいつも悪いこと考えてますよね。いや、女性に騙されている訳ですから当然なんですけど、会えない理由を人のせいにばかりしてるって感じがします」
「もう。また仕事の話をする。まあ、でもそうなんだよね。私たちの仕事は心が病んでしまうような気がするよ。あの人たちは救えないし、さっきの店員さんみたいに元気な笑顔で接してあげるわけにはいかないもん。だから私は素直にお金が欲しいですっていう」
 木山は頬を赤らめてはしゃぎながら笑いが増え始めた宴会の雰囲気にすっかり酔っ払ってしまっている。夢の話をされたので、ぼくは誰にも言えない秘密を抱え込むようにして飛び交う冗談や下ネタに時折食いついては気持ちが安らいでいくことをちゃんと受け入れようとする。だから、ぼくとは反対の席で少しずつ暗い表情へと変わっていた奏水に気付いてしまったのはもしかしたら小さなキッカケみたいなものを掴み取れたサインだったんだろうって後になって思い知ることになる。

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