「なぁ、俺たちはどうして殺しをやめられないんだと思う？　地上に君臨する生き物で理由なく同胞を殺す種は数少ない。その中でも狡猾で残忍で知恵と勇気を使ってまで共食いとも呼ぶべき行動を起こして同族に振り回されるのは人間だけなんだ」

『帽子』が四つん這いになる男の上に座って自己否定をしながら、切り取った手首をまるで野球ボールのように空中に放り投げてニヤついた笑いを止めようとしない。

大きな石の上に横向きで頭を抑えつけられて恐怖と不安が一斉に押し寄せてきて表情が涙と鼻水でボロボロの原型を留めなくなるほどに歪んだ女の横顔に『阿呆』が鉄パイプを振り下ろす。

『皮肉』が顔に浴びせられた二十代の女の血を拭ってから手にこびりついた血液を舐めとると、錆びた鉄の味を舌先で感じ取って大袈裟に笑い始める。

「全てはシステムに基づいて実行される命令に過ぎない。俺たちの一人一人に完全で自由な意志が存在しているかどうかを疑った哲学者たちは軍隊と牢獄を作り出した上に、社会に寄生する蟻どもに甘美な蜂蜜を垂らすことにしたんだ。そうやって徐々に逃避や反逆の活路にも適切な道筋を整備することで統制された意識と思想の流通を誕生させた。殺人はその影響下で起きる些細なバグに過ぎない」

『皮肉』が四つん這いになっている男の尻の穴に先が折れて鋭利に尖った金属パイプを突き刺した後に、パイプの穴から煮えたぎる融解した鉄を流し込む。

『リーダー』が最近中学生の間で流行っている金属バットなどの凶器を使って路上生活者を殺害し続ける疑似感染者たちのグループである通称『エリシオン』という不良少年たちの死体を七つまで数えたところで指の数が十本しかないのだという至極当然の理屈に気付き数を数えるのを放棄すると、目の前で口の中に薄汚れた女性ものの下着を詰め込まれたまま正座させられた上、両手を後ろで縛られた男の傍に座り込む。

「ここには全部で十一人の男と女がいて、俺たちはそれぞれの十三回に渡って鈍器を使って殴った後に、十七箇所を刃物で切り裂き、合計で二十三名が二十九日間に渡って誰にも知られることなく死んだホームレスたちの無念を言い訳にしてお前たちに暴力を加えた。さぁ、お前が後何秒間生きていられるかお前は理解できているか？」

男は首を横に振り、何かの決意を示すようにして目を閉じる。

『無邪気』が『嘲り』の姿を探して辺りを見回してみるけれど、どこにも見当たらないので泣き喚きながらしゃがみ込む。

『リーダー』が男の周りを歩き回りながら一から順に数を数え始める。

適当な数字を言う訳にも行かず、黙ったまま俯いて順番に聞こえてくる数字に耳を済ませているけれど、答えが分からないまま増加していく最後の瞬間への不安がどこかで弾けて飛んでしまうのかもしれないという恐怖だけがひっそりと耳元で囁いていて、眼球を静かに動かしてあたりの状況を確認すると、血と肉がスクラップで囲まれた空き地に飛散していることをもう一度確認して目を閉じる。

けれど、いつものなら洗礼を与えにやってくるはずの『嘲り』がいないせいなのか、さっきまで泣き喚いていた『無邪気』が男の傍に近づいてきて大声を出して目を開けさせる。

「だめ！　最後まで考えて！　あなたが死ぬのはあなたの頭が悪いからなの！　けど今日の『リーダー』はとても優しい。脳味噌が壊れたフリをするあいつがいないから。だから、ねえ、上を見て！」

『無邪気』と『帽子』と『皮肉』と『阿呆』が男の傍から走って逃げて、『リーダー』が２４を数えあげた時に男が目を開いて言われた通りに上を向くと、頭上には巨大な鉄の塊と成り果てた乗用車がぶら下がっていて、絶望的とも呼べる状況で脱出という選択肢を見つけ出した男はなぜか２７から順番に数を数え始めようとしたところで次の数を考えることが出来ずに叫びだす。

「わかんねぇよ。何で俺が死ななきゃいけないんだ！　助けろよ！」

醜く最後の力を振り絞って叫び散らす『エリシオン』を率いていたと思われる男の正面で『リーダー』が脚を止めると、男からちょうど二メートル百三十一センチ離れたところで手に持ったスマートフォンの画面をタッチする。

「よくわかったな。答えは３１でお前の年齢と一緒。ジ・エンドだ」

俺はここまで数えられるんだと『リーダー』が言葉を発する前に鉄の塊が彼の鼻先を掠めて落下してきて、男の記憶はそこで遮断されて『リーダー』の履いているＮＩＫＥの真っ白なスニーカーがペンキをぶちまけたみたいに赤く染まって周りに散らばった四人から歓声が聞こえてハイタッチを始めている。

人間の原型がなくなってしまうぐらいにかつて男だった物体は巨大な鉄のスクラップでペチャンコに潰れてしまい、痕跡すら残さないのだという揺るがない意志によって復活を与えられない愚者への制裁が完了する。

「じゃあキリストが抱えた原罪ってやつはどこに行ったんだよ。奴が神様に懇願して現世から持ち逃げしてくれたはずだろ？　アダムとイブは許されていいはずだ」

『帽子』はまるで真っ平に地面と同化してしまった男の気持ちを代弁するようにして大袈裟な素振りで熱弁している様子を出来るだけ馬鹿にしないように『無邪気』が肩を持って話しかけてくる。

「けど、神様はじゃが芋と鯨と羽蟻とペゴニアのことが気になっているから人間たちの罪をお許しになるのはずっと先のことで予測では五億七千六百万年後に順番が回ってくるらしいよ。それまではお祈りするしかないんだって」

『阿呆』が揶揄いながら『無邪気』の前で舌を出して中指を立て、彼女が涙目になっている様子を見て腹を抱えながら笑っている。

「じゃあお前は助けてくれるまで待つっていうのかよ。じゃが芋も羽蟻も踏み潰しちゃえば俺たちの順番だって先に回ってくるかもしれないだろ。どこに行ったって俺たちが神の代弁者でいいはずだ」

だから、精霊は鉄の塊で、キリストは『リーダー』で、神様は圧死してしまったらしいよってどこかで誰かがまた噂をし始めている。

『皮肉』が赤いスプレーを持ってきて日が暮れる前の自動車スクラップ工場の一角にポツンと寂しく陣取っているかつて世界に名を轟かせた黒塗りの高級車に──我々に領土と生命線を！　──と誰にも届かないメッセージを書き殴っている。

「これで今日からこの場所がお前に許された領土になり、大気と鉄の塊の全てがお前のものになる。座標から半径二メートル百三十一センチ圏内ならばお前はどんな自由も謳歌できる。完全で完璧な解放だ」

『リーダー』が四人の場所へ近付いてきて真っ白なスニーカーが赤く汚れていることなんて気にもしないで、適切な予測に基づいたシステムの発動が行われたということ確認するようにして当て嵌められた数値に間違いがなかったのだということを懺悔する。

「『嘲り』が巣に戻りたいと言い出して白痴であることを恥じるようになってしまった。だから、これ以上はぼくたちが０を作り出しても意味がなくなってしまう。何もなかったフリをさせるために大衆へ与えられるだけの余白が黒を塗り潰してしまうんだよ。わかるか、聖人がとうとうお前たちを堕落させ始めたんだ」

『帽子』が申し訳なさそうな顔をしてツバを手に取って深く被り俯いて、『無邪気』は必死になって涙を堪えて我慢強く耐えていて、けれど『阿呆』はやっぱり何も理解することなんてなくてその場の空気を紛らわそうと無闇矢鱈に騒ぎ回っている様子を『皮肉』がいい加減にしろと殴りかかっている。

『リーダー』は陽の落ちる時間が来ていることを空の色と露店で千円で買った腕時計で確認してスクラップ工場を後にして立ち去ろうとするのに気付いて四人は迷わず彼が向かう道と同じ方向に一緒に歩いていく。

埼玉県にあるあまりひと気の少ない自動車解体工場を出たところには白いワンボックスワゴンが止めてあって、『リーダー』がオートロックを外して運転席に座りハンドルを握る。

助手席にはいつもは『嘲り』か『無邪気』のどちらかが座るのだけれど、『嘲り』はまだ未練をたくさん残して何か思い残すことがあるらしいので出来たら終焉や限界なんてものに囚われない普通の暮らしに戻りたいんだと言い出して、メンバーが集合しているいつもの喫茶店にはやってこなかったから『無邪気』が迷わず座り込んでお行儀良く座って『リーダー』を怒らせないようにしている。

後ろの席に『帽子』と『阿呆』と『皮肉』が乗り込んできたらすぐにエンジンがかかる音がすると白いワンボックスワゴンは発進して国道沿いを東京方面へと走りながら、メンバーはそれぞれ学校帰りにはしゃぎ回る小学生みたいに、金属バットで頭蓋骨を叩き割った時の感覚やうっかりお腹を裂きすぎてしまって血が止まらなくなってしまってびっくりしてしまったことや一晩中考え抜いた新しい殺し方を前にドラマで見たことがあるよくあるやり方であることを笑われたことや頼りない政府に決定的な一言を添えてやったはずなのに、今日もぼくたちは平気で人を殺せてるんだぞと矛盾した大人みたいな発言を言っていることをそれぞれ大笑いしているけれど、『リーダー』は大真面目で一言も話さずずっと数を数えていて、それが昨日どこかで自殺をした完全数と同じであったことに気付いてこのいつもの光景がいつまでも続いてくれるといいなってつい呟いてしまいそうになったところで、左前方をたった一人で歩いている金髪混じりの百六十センチぐらいの女の子を発見して、彼女の二メートル先で急ブレーキをかけて停車すると、『帽子』と『皮肉』と『阿呆』がドアを開けて女の子をワンボックスワゴンの中に悲鳴をあげる暇もないぐらいにすぐに引き摺り込んで無理矢理身体を押さえつけて車の中に監禁する。

事情を察した女の子は三秒前まで物凄い力を使って暴れ回って抜け出そうとしていたのに、車のドアが閉められた途端に急に逆らうのをやめて何もかも受け入れるようにして大人しくなる。

覚悟を決めたことに『帽子』も『皮肉』も『阿呆』も引き下がる様子なんてまるでないけれど、『無邪気』がよく考えた後に『リーダー』に小さな声で相談を持ちかける。

「ねえ、どうする？　この前の三十代ぐらいの女の人はバラバラにしちゃってどろどろのコンクリートの中に捨てちゃったでしょ？　それから好きな女の子と一度もエッチなことがしたことがないって言っていた男の人はマンホールを開けてゴキブリ用の餌をたっぷり塗りつけて吊り下げておいたら発狂して聞いたことがない言葉を喋り始めた後は神様みたいな顔をして死んじゃったでしょ？　じゃあさ、この女の人はその人たちと何が違うのかな。私たちは私より小さな子供を殺したりはしないけれど、『リーダー』の数えた数字に間違いがないなら殺すっていうのが私たちのルールのはずだと思うんだ。だからね、あのさ、私はその女の人は殺しちゃってもいいと思うんだ」

『リーダー』はここには聖霊も神もキリストも存在していないのだということを埼玉県のとある国道沿いを見渡した後に気付いて、女の方をバックミラー越しに覗いて話しかける。

「お前の運命は多分今日で終わる。俺たちに散々凌辱された後に、お前の頭では考えつかないぐらいの残虐で非道な行為で殺されて、お前のことは誰も知らなかったっていう痕跡を残して俺たちのアルバムに加えられるんだ。よく聞け、なぜお前は俺たちに逆らわず黙って暴れ回ったりせずにそれだけ冷静でいるんだ。その事実をお前は理解しているはずだしお前の目を見ればわかるけれど、そのぐらいのことはちゃんとシュミレーションがすんでいるはずだろ。破綻について予測していた俺の計算に狂いはなかった。なぜだ？」

口を抑えられている女の口元がいつの間にかガムテープで覆われて話せなくなっていたところを『帽子』が『リーダー』の目を見て思い切り憎しみを向けた後にガムテープを剥がして、助手席の後部を思い切り蹴り飛ばす。

「あのさ、今日で終わることは産まれた時から知っているんだよ。お前だって死ぬ日ぐらいのことは分かっていてこんなことをやっているんだろ。だったら、昨日訪れるはずだった予定のことで我侭を言ってもしょうがないだろ。それだけだよ」

『リーダー』が『無邪気』に指示をだして助手席からおろさせてワンボックスワゴンのドアを開けた後に女の子の手を引っ張って、外に連れ出す。

「私はね、後二千三百四十五日後に不注意で飛び出した明治通りのとある交差点で左折してきた四トントラックに引きずり殺されるのだけど、その時私は五分前にお父さんに電話するはずだったのにそれを忘れてしまうから、うっかり自分のことをぞんざいに扱ったままペチャンコになってしまうんだ。けどさ、お前は死ぬ日が分かっているなんて嘘だろ？　だから許してあげるよ。こんなところで平気で嘘をつく人間なら、誰かを平気な顔をして殺したりはしないはずだ。だから洗礼は与えない。お前は特別だってことにしてあげるよ。神様なんていないって知っているんでしょ」

──ばーか、神様はいるに決まってるだろ──と女の子は当たり前の顔をして『無邪気』を抱き締めてそのままどこかへ行ってしまう。

『阿呆』は後部座席のシートを倒して寝転がってワンボックスワゴンの天井を見上げていて、『皮肉』はまた鬱病になって塞ぎ込んでしまったようだ。

『帽子』だけは人生の全てを後悔するみたいにグスグスと泣いていて涙が止まらないことを誰にも言い訳できないってことに気付いてまた深く『帽子』をかぶっている。

「昨日の夜遅くに三十代の男が拳銃自殺したというニュースが今朝の朝刊の三面記事にこっそり書かれていた。他愛もない毎日当たり前に起きている事件のはずが派手な死に方をしたせいでそんな場所に載って俺の目に入ってきたんだ。だから、そいつの代わりにあの女は生かされている。そこには数字によって知らされるべき神の明示は一切存在していなかったというだけなんだ。『無邪気』はそれを分かっているんだぞ」

助手席のドアが開けられて『リーダー』はアクセルを踏み込んでワンボックスワゴンを走らせてしばらく進んだところにさっきより少し細身だけれど偶然にもまた同じ金髪で肌の白い女の子が立っていて、こちらを伺っているけれど、数が全く合わないってことを車内にいる全員が理解してそのまま通り過ぎてしまう。

「先生の車なのかと思った。私の家覚えていてくれて、迎えに来てくれたって思ったから絶対運命だって思っていたのに」

『貝野木若菜』は学校帰りに一人で歩いている時に通り過ぎたワンボックスワゴンを見て少しだけ欲情するけれど、そこに担任の英語教師の佐々木の顔が見えなかったので、目を背け自宅に帰る途中で月曜日から毎日のように送っている『立野聡美』にメールを送る。

【ｗａｋａｎａ＠ねえ、そういえば貸していた腹崎稔の小説だけれど、もう読み終わった？】

月曜日に鬼が帰ってきて呪いが振り撒かれて学校の屋上で五人の友人たちが集まって『舞川翔子』の言う通りに隠れんぼをした後から、返事が帰ってきていない。

『立野聡美』はその日まで毎日のようにメールを返していてくれていたけれど、ピタリと返信が止まってしまった。

『内藤恋花』も『新庄藤乃』も同じように彼女にメールを送っている。

校舎の屋上から飛び降りても、私たちはずっと繋がっていられるんだって言い出したのは『闇街霧子』だけれど、『舞川詩乃』だけはずっと反対をして『舞川翔子』は彼女の静止を振り切って、『ブラックエンド』に正規の手続きで依頼をしたらしい。

だから、『立野聡美』は生と死の区別が付かなくなってしまったのかもしれないと、今日も帰ってこないメールを見て『貝野木若菜』は項垂れる。

代わりに、『内藤蓮花』に電話をして、『舞川詩乃』が今日の夜の遅くに、儀式をまた行うかもしれないから気をつけてと伝えようとする。

「もしもし。聡美は『ルシファー』に犯された後に、『ミカエル』が連れ去って行ってしまったはずでしょ。どうしてそんなに不安になるの？」

「だって、あの日から電話が鳴り止まない。このままじゃ渇くことなんてないってことに気付かされるだけなんだよ。詩乃みたいに『ガブリエル』を守護霊につけようとするなんて馬鹿な真似だけはやめたいもん」

「あの子はまだ堕天することを躊躇っているんだね。あのね、私たちは結局、イザク記に書かれた通りの日付と場所でキスをするだけなの。まだ分かっていないの？だから佐々木先生に体を許すんだね」

「分かってないのはやっぱり恋花の方だ。詩乃がアクセスしたら私たちのことだってバレてしまう。『宇宙図書館』にわからないことなんてあるはずがないもの」

羽根がなくたって飛べるんだって最初に教えてくれたのは『闇街霧子』だったけれど、彼女の言う通りに動いていた『舞川翔子』はいつの間にか自由を奪われてクラゲたちの餌に変わってしまった。だから、『貝野木若菜』は『宇宙図書館』にアクセスをする。

彼女の書いた絵は、池袋駅東口から徒歩十五分程のところにあって、彼女のような信者たちは子供と同じ背の高さにならないと見つけられない──ハックルベリーフィン──と題されたグラフィティアートを眺めてはこのまま大人にならないで済む魔法を見つけて空の動きを観察する。

けれど、 は私たちのことを馬鹿にする。

それは彼女が生まれた時から持っている指先に灯を宿すことのできるエーテルのせいだろうって『闇街霧子』は言っていた。

「若菜はさ、飛べなくたって大丈夫なんだよ。代わりに『ラファエロ』のことを大切にしたいって気持ちを忘れないようにするの。そうしたらね、翔子みたいにはならないはずだから。だからちゃんと私の言うことをよく聞いて」

恋花との電話を終えたら、すぐにまるでどこから見ているように予め私の気持ちがこの場所に辿り着くのを知っていたように霧子がメッセージを伝えてきて、不安に溺れそうな私のことを助けにやってきた。先生はやっぱり私に嘘をついていたみたいだし、何も信じられなくなりそうだったけれど、すごく優しい声と言葉で私を救ってくれる。霧子はそういう人だ。

「ねえ、けど『宇宙図書館』の絵を見ていたら、霧子は『サタン』の化身みたいに扱われていたよ。私たちといつまでも仲良く手を繋いで隣にいる馬鹿な奴らを食べて暮らすって。あいつは霧子のことが嫌いなのかな」

『宇宙図書館≒クィーンオブメディア＝渋澤量子』はちょうど四ヶ月ぐらい前から私たちの間で噂になり始めたいわゆるアーティストってやつだ。

自分で作った覆面をして素顔を見せたことがないから正体は誰も知らない。

けれど、まるで私たちの心の中を覗いているみたいにぴったりの絵を書いて、誰にも見つけられそうにない路上の隙間や堂々と大通りのショーケースのガラスに突然彼女の絵は現れる。

話の早い海外の連中が早速彼女の絵に高額な値段を付けてしまったせいで、いつもなら簡単に落書きとして処理されてしまうグラフィティアートは消されず残されて、まるで彼女専用のアートギャラリーみたいに占拠されてしまう。

『宇宙図書館』は嘘なんて絶対に言わない。私たちが見たくない大人たちが隠しているごく普通のことを当たり前のように最高にかっこいいやり方で私たちに見せてくれる。だから彼女のことを私は『クィーンオブメディア』って呼ぶようにしている。翔子が水族館の水槽でクラゲに囲まれながら殺されたのだってBaptismaって奴らの『宇宙図書館』への仕返しだと思ってる。

「私は嫌いな訳じゃないけど、『イーティングサタン』は少しざらざらする。新宿駅伊勢丹のショーウィンドウに堂々と真夜中にたった一晩だけであいつは私のことが間違っているって言いにきた。多分あいつに私は会ったことがあるような気がする」

珍しく『闇街霧子』は出来るだけ『貝野木若菜』に合わせるように未来のことについて話そうとしていてそのことが疲れたのか電話越しに要件を伝えてチューニングが狂っていないことを確認した後、すぐに『新庄藤乃』へコールすると、予定通り三十三秒後に声が聞こえてきてキックボクシングのトレーニング中に一休みをとっていることを伝えてくる。

「若菜は詩乃のことが心配なだけだよ。翔子はあいつのこといつも苛めてたけど、やっぱり可愛がっていたのも本当だしさ。魔術教育を専門に受ける連中とは違ってたいしたことはないけれど、れっきとした『魔術回路』持ちでしょ。おじいちゃんからの隔世遺伝だっけか。あいつまでお空を飛んでしまったらってそればっかり考えているんじゃないのかな」

青いボブヘアの『新庄藤乃』は汗を拭いながらジムの隅っこでサンドバッグが叩かれる音を聞きながら『闇街霧子』の電話に応答する。

脂肪が削ぎ落とされて引き締まった身体にぴったりとしたトレーニングウェアは汗でびっしょりと濡れていて嫌なことも思い出したくないことも全て洗い流してくれるような気がしてしまう。

「逃げているのは藤乃の方みたいだね。私たちは気を許してしまったら天使たちは降臨する場所を見失ってしまうでしょ。何度も教えたはずなのに、お前はそうやってすぐ未来のことばかりを気にしてしまう。言ったでしょ、私たちは五人で一つなの。少しでもふしだらな悪魔に気を許したらダメ」

思い当たる節があって、リングの上で後輩を一人一人叩きのめしている金髪のショートヘアの男の方を『新庄藤乃』はつい見つめてしまう。

汗が飛び散る様子がさっきまで光り輝いていたけれど、急に気持ち悪くなって吐き気がしてトイレに急いで駆け込んで『新庄藤乃』のお腹の中で蠢いている気色の悪い感覚を全部吐き出してしまおうと指を喉の奥まで突っ込んで胃の中に入っているさっき食べたカレーライスを何もかも便器の中にぶち撒ける。

流れていくトイレの水をどうやって呑ませてやろうなんて考えながら、リングの上で一切の脂肪分が削ぎ落とされたジムで一番強い金髪の男に昨日の夜、無理矢理連れて行かれた居酒屋で日本ランキング一位を目指すって目をキラキラさせながら熱心に話していたまとわりつくような男の声がまだ耳の中に残っている気がしてもう一度『新庄藤乃』は心の中に留まっている嫌な奴らを何もかも外に追い出そうとする。

ぐるぐると回る水の音に耳を済ませていたら急に意識が遠くなって頭の中が真っ白になって暗闇の中にあっという間に帰ってくる。

「最初は私の身体の中にあったはずなのに、分裂してそれぞれ別のものになって自由に振る舞っていたけれど、また一つになって私の中に戻ってきたってそんな気がする。左眼がずっとそうやって私に話し掛けてきてくれたんだ」

芹沢美沙は左眼につけた黒い眼帯を左手で押さえながら、闇の中に引きずり込まれて戻れなくなってしまいそうだった意識が卑弥呼の願いによって呼び戻されたということをまっすぐに見つめながら伝えようとする。

「違和感を見つけられたのなら大丈夫だな！後は帰る手段を見つけるぞ。この耄碌ババアはナ、私たちには手を貸さないつもりでいる。深海一万メートルから帰らなきゃ海の底で誰にも会うことのないお姫様でお前は終わってしまう！」

『アンダーソン』が宝物の『桜珊瑚』の剣を掲げながら、扉の向こうを指して自分たちが迷い込んでしまった世界から抜け出す方法を探し出させようと芹沢美沙の左眼に一生懸命話しかけている。

『蒼井真司』は疲れ切ってしまったのかベッドの隣でぐったりとしながら眠りの中に落ちている。

きっと古代の巫女と交わってしまったせいで、頭の中に仕舞われていたはずの過去の記憶が押し寄せてきて古代種たちに襲われているのかもしれない。

外の世界は危険なことがたくさんで簡単に抜け出せるような道はないのかもしれない、あなたの力が必要になるのかもしれないと芹沢美沙も『アンダーソン』と同じように左眼に話しかける。

機械が動き始めて歯車の噛み合う音がしたのかと思うと、真っ赤な『桜珊瑚』の剣が光り輝いて『アンダーソン』が吹きかけた息が少しだけ（病）を軽くしてしまうと、赤い光がゆっくりと吐く息を吸収しながらピンク色の光へと変化していく。

鯨が送り届けた救難信号ではなくて正確な座標を知らせることの出来る淡いピンク色の光が明滅を繰り返しながら海の底から発信している。

「配役と関係性が置き換えられて意味をより複雑なものへと進化させているのにも関わらず、劇場から恒常的な常態が取り除かれることがないまま決して不安を増殖させるだけの意趣返しになることがない。『円夜凪』が練り上げた美学を大鏡に映る対掌性を軸にして反転させてしまったとしても同一の形を維持して観客席を鼓舞しているんだ。お前の中に眠っている人格を揺り動かして外の世界から現在見ている世界へと連れ出そうとしてくるようだろ、未亜葉。『ナンバーズ』たちの感染した思考に潜り続けていたら狂気と正気の区別がつかなくなってしまう。外科手術が必要だったんだ」

進馬は暗闇の中を縫い合わせるようにして小さな声でピンク色の髪をした未亜葉にだけ聞こえるような音量で囁いて鏡の向こうに映っていた世界に見知らぬ人影が入り込んでいた事実を肯定しようとする。

「お姉ちゃんたちにもそうやって優しくしてあげたら、あの人たちだって普通の暮らしを送ろうとしていたのかもしれないよ。けど、そうだね、まるでキャリバンの勘違いが暴走して演劇空間自体を呑み込んでいつの間にか入り込んでしまったこの異世界から脱け出す方法を考える必要性はあるのかもしれないね。私たちはすでに結界の中に取り込まれている。それは呪いと呼んでもいいのかもしれない。『ブラックエンド』の仕業だね」