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See, Madness, as you know is like gravity. All it takes is a little push.

「いえーい! こいつがあれば私はリエンから自由になれると思う。正直さ、嫌なんだ。目の前でもう一人の自分が泣き叫びながらズタズタに切り裂かれて命を奪われていく。なのに、私はどうにもならないほどに快楽を貪ってブレーキだってかけられない。ねえ、助けてくれるんだろ、私をさ! 連れて行ってよ、もう誰にも縛られない自由がある場所に!」
「まぁ待て。お前の言っているリエンがどんなやつかは分からないけど、まだ身体を持ったっていう実感が湧かないんだろ。例えるならアイソレーションタンクに閉じ込められたまま知覚と認識だけが行動を制御しているといえばいいのかな。つまり無意識に溶け込んでいるが現実感は存在している。だから俺たちはまだ愛し合うことが出来ないんだ」
「ふーん。私はさ、このままだっていいって思っているよ。私のことちゃんと見てくれたのはお前が初めてだもん。頭の中だけで大好きって伝えあっている感じって案外悪い心地はしない。ただね、なんとなくこのままじゃないんだって気はしているんだ。リエンは私のことを許したりはしないよ」
 鬼嶋浩二は運転席のシートを倒してアイマスクをしながら助手席に向かって話し掛けている。
 後部座席には分解されてハードディスクだけを抜き取られたノートパソコンが無造作に放り投げられていて他にもいくつか細かい精密機器やPCパーツが転がっている。
 久遠山ジャンクション付近でボンネットから煙のあがっているGTRが路側帯に停車していてサイレン音に気付いた鬼嶋浩二がアイマスクを外してバックミラーを覗き込むと切なそうな表情の女性と五十メートルほど後ろから近づいてくるパトカーの姿が見えている。
「だからさ、俺たちの手で改良を加えた『アガンペン』を試してみようぜ。ゾクゾクするぐらいに思い通りに他人の意識に干渉出来る。まるでトラクトリコイドの向こう側に話しかけるみたいにな」
 

 
 研究所地下に併設された食堂で簡単な昼食を済ませながらぼくと四月(一日)紫衣と古河君香は午後の仕事の打ち合わせをして各々に必要な職務を確認し合う。
「君香には取り急ぎ佐々木君と話していた通りトークンキーの解読と再生成をお願いしたい。通常業務に割り込ませる形で申し訳ないが、こちらを最優先で処理してくれ。期日の迫っている業務に関しては私も手を貸せると思う。ただ昼食後は私の方は第一の篠山主任と第二の野嶋主任に『Archelirion』の経過を共有する必要があるのだがついでに佐々木君を紹介しようと思う」
「そやなぁ。佐々木君、トークンキーのアルゴリズムは変更してええんよな? うちのつこーとる暗号生成アプリケーションに適合させた方がもし佐々木君の『メテオドライブ』を復旧させた場合でも量産化が容易やろーな。ただ問題はPEPS権限保有者との適応比率なるやろな。エーテルいうんは最近ようやく国も認めてきた遺伝子疾患であるにせよ、現実での実効力に関していえばまだまだ未知の領域というよりもほとんど無力に等しいやろ。うちが言うとる意味はわかるな?」
 ぼくは食後のコーヒーで喉を潤しながら古河君香の話を咀嚼して出来る限り明快に自分自身の考えを昼食の場を利用して伝えようとする。
「分かります。現在、内閣府及び厚生労働省がPEPSに対して認めている基礎疾患はDeviance、Distress、Disfunction、Dissonanceの四種類。肺表面活性物質の異常パターンに対して与えられた名称ですが、問題は保有者の肺胞においてガスから血流へと変換される過程で発生する不可視粒子の影響を体外で測定する技術を組み込むことでした。被験体として協力してくれた女性はDisfunctionに付合する疾患を抱えていた為に肺表面活性物質の分子構造を優性遺伝者と比較した場合、分岐鎖アミノ酸の一部の比率に偏りが見られました。彼女を基準に採血と投薬による治験を行った結果を通して他の被験体にも似たような分子構造での変化が記録されています」
「あぁ。感心やな。大人顔負けの実験結果や。けど、だからと言ってエーテルなんてもんが分子構造の変化に影響を与えておるとは限らんやろ。君のは統計データとして不十分や」
「いえいえ。統計学側面はこの際考慮しないことにしています。そもそも学説によってはエーテルの存在を万人に認めるなんてとんでもを拡める連中だっていますからね。ぼくが『バイオポリティクス』に組み込んだのは1/Fで観測可能だと言われるエーテル粒子体がPEPSの体内から排出される過程で引き起こされる未解明の化学変化及び、うーん、この場合は状況変化と表現しましょう、つまり不活性から活性へと移行する直前でエーテル粒子体を捕捉し『メテオドライブ』内部に高次意識への到達地点まで速度限界を考慮した上で利用し生成することですからね。形状を指輪型に限定したのもその為なんです」
「ほぉ。そや。うちら学者に必要なのは奇跡ってことやな。それを忘れたらあかんよ。その調子やと基礎疾患程度のパターン解析ならすでに十分と言うことやな」
「その問題に対しては現状はハードウェアとアプリケーションの有線接続で解決しています。任意の疾患に対して随時、高次意識への接続状態を維持した上で、四種類のパターンとアプリケーションとの親和性を高める為に高度な暗号水準に基づいたトークンキーを作成する必要がありました。ただ残念ながらマスタープロダクトを失ってしまっては再生成を少なくとも短期間では行うのは不可能です」
「うん。自己認識も完璧やな。その辺は大人に任せとき。うちはこう見えてもアルゴリズム解析の権威なんよ。なんとかならんことはないしやってやれんことも全くない。最後にもの言うのは努力と根性やと言うことを教えたる。けど、お姉さんから一つ質問や。PEUPSについてはどうするつもりやったん? パターン解析は不可能やろ? そもそも不随意に観測出来るものなら科学の領域では扱いきれん。匙を投げてまうならこの『メテオドライブ』に発展性はない。彼らの存在こそうちら科学サイドが今後取り組むべき課題やいうならトークンキーぐらいどない複雑やっても一晩で作ったるんやけど」
 食事を終えて古河君香が四月(一日)紫衣から予め手渡されていた書類を机の上で叩いてからまとめて席を立ち上がろうとするのを見てぼくは立ち上がる。
「今回のプレゼンテーションでぼくが現在仮説として推論たて実用段階まで構築した新理論を組み込んだヴァージョン2の協力体制を京都電子頭脳研究所へ求めるつもりでした。バックアップに不手際があったことは認めます。ただ『バイオポリティクス』はPEPS及びPEUPSにとってももちろんぼくらにとっても公平な社会の実現の為に必要なはずです。有効な手段は必ず見つかります」
「有言実行が大切だとは思わん。実験に失敗はつきものだし挫折なんて何度も経験しとる。だからこそうちはこの研究所の第三に配属はされとるんよ。PEUPSの件は単なる意地悪や。紫衣さんからの命令やしトークンキーの件はなんとかしたる。心配せんといてな。あぁ、それとな、あんたの大学時代の同級の乖次君。あんたと違って甘え上手やな。うちはあーいう男の方が好みやわ。堪忍な」
「え? やっぱり乖次を知っているんですか? 会話の中に名前が──」
 古河君香はぼくの問いかけには反応せずに書類の束を胸に抱えると昼食後の眠気から逃げるようにして欠伸をして右手で口を押さえながら第三研究室の方に戻っていく。
「君香は佐々木君のことがお気に召さなかったらしい。私の命令とはいえ、個人的に二、三大事な案件を抱えている状況ではあるからね。とはいえ、それは彼女が君の仕事に対して敬意を持っている証拠だろう。簡単に解き明かせる程度の暗号ならば彼女の興味は動かないだろうしね、安心して任せても大丈夫だよ」
ぼくは緊迫感から解放されて力がすっかり抜けてしまうように食堂の椅子に座り込んで自分の立てたプレゼンテーション計画に落ち度がなかったかどうかを頭の中で冷静に精査しながら四月(一日)紫衣の表情を伺う。
「そう見たいですね。あの人はぼくとは全然違う。なんというか自分の知識や技術に絶対に自信を持って生きていて、間違ってもいいんだって言いながら間違ったことなんか一度もないって顔をしている。やっぱりこの研究所はそういう人達が集まってきているんですよね」
「全くいう通りだ。自らの才能を遺憾なく発揮して目的を達成する為の環境が整えられている。君にとって必要なのはより洗練された知識と邂逅することで得られる至高への手順だろう。エデンが失われたのならばバベルによって我々は再び神への頂を手にしようとする。君が奪われたものがどんな形をしていたのか思い出す手助けを私はしたいと思っているよ、まずは第二研究室の野嶋主任に顔合わせをしよう。主に小脳及び発生学を研究対象としている。彼はもしかしたら君とは最も遠い部類の天才かもしれないな」
「小脳が高次意識を切り離してしまう場合、『バイオポリティクス』が随意筋まで作用する可能性はありませんが製品化する過程で悪用の危険性を排除することで今後どういった開発工程を想定出来るのかぼくの方でも確認しておきたいことはあります。強奪された経緯から逆算して犯人の思惑を阻止することだって出来るかもしれない。簡単に理解し合えないのならば歩み寄る努力は必要だと思います」
「彼に限っては単純明快な結論は却って仇になるだろう。小脳が保有している複雑な神経回路そのものだといっても過言ではない。見た目に騙されていると完全に成熟した思考の術中にあっという間に取り込まれる」
「おおよその人物像は分かりました。事前に知っておいた方が接しやすいという意味で受け取ることにします。腹拵えも済みましたしそろそろ行きましょう。必要な資料は既に揃えてありますから」
 ぼくと四月(一日)紫衣は十三時を回る頃になってようやく人もまばらになってきた食堂から離れて第二脳科学研究室へと向かいながら、午後の予定を確認し合う。
 けれど、なんとなくぼくは昨日の夜の出来事と研究所に入ってからの四月(一日)紫衣の差異を頭の中でうまく組み替えながらうまく表情を読み取って平衡感覚のようなものを調整しようとする。
『ようやく俺と位相を合わせてくれたか。第七官界において俺とお前の意識がリンクしている間は本能と意識を区別する手段すらない。問題は知覚情報の共有の主導権だという話をしてきたはずだが、少なくとも現在において俺の物質性は存在しない』
『脳内に棲み着いている古代の魔導師、類。意識が距離関数を無視して生成可能であれば、思念の遠隔操作は確かに可能なんだろうけど、お前は一度もぼくにそんなことはしてこなかった。そもそもNo.9に至るのならば感覚は消失してしまう』
『そういう問題ではないがな。単純に俺自身はお前の関係性を遮断するつもりでいる訳じゃない。意志決定の段階において介在すべきなのが俺とお前の主体と客体を切り分ける条件設定だったに過ぎない。事実、俺の知識が現代社会に適合したとしても、状況認識がお前を上回る可能性はないだろう。ならば、性的関係における主導権は既に俺とは切り離されているべきだ』
『バランスを保てるのであれば狂気は常に正気に内在することの出来る意識領域だと断定するべきだが、お前にはやはり独立した意志が存在している。双方向性こそが低次意識への入り口なんだろうな。だから、自然と俺とお前は分離出来ていた』
『つまりは外部からの介入を許諾した場合にフェイズシフトが行われて精神同位体としてのみ俺とお前の繋がりは保証されるというわけか。異次元同位体ではないのは空間座標においてZ軸が零点から移動していないからだが、だとすればやはり俺のいる場所は同一宇宙空間上のとある地点だと断定できるはずだな』
 時空の特異点について思考状態を出来る限り『同居人』に擦り合わせようとしたところで、第二研究室の扉の前で四月(一日)紫衣が立ち止まる。
「もし人間社会が高度な知的富裕層の管理下でのみ存在することが出来るのであればこの扉の向こう側で日夜業務に勤しむ所員たちこそがまさに典型的な実例となりうるだろう。ジレンマや葛藤を合理性と機能性の狭間で演算することが可能なのだと彼らは証明しているはずだ。さて、君は此処ではどちら側の人間だろうね、佐々木和人」
 京都電子頭脳研究所は主に大脳辺縁皮質を専門とする第一脳科学研究室と小脳を担当する第二脳科学研究室によって構成されていて、少数精鋭の第三研究室とは違い、どちらも世界中から選抜され抜擢された研究員達が人間の脳髄の完全な機械化を目指して職務を遂行している。
 知覚と運動機能の統合を主要な役割とする小脳が各々の随意筋への指令や平衡感覚の調整などを司っていると理解しているものであれば、ぼくが目にしている光景の美しさに対してある種の畏敬の念を抱くかもしれない。
四月(一日)紫衣に先導されながら第二脳科学研究室内部の様子を観察している限り、国内屈指の研究機関で働く所員が的確に業務をこなしながらもある一つの意志によって完全に制御されているという明確な情態を感じとれぼくは出来る限り彼らの邪魔にならないように何処かに潜んでいるはずの命令系統の正体を探ろうとしてしまう。
「紫衣先輩のいう通り、彼らの仕草や会話には高度な知識に基づいた目には捉えることの出来ない規格のようなものが存在しているような気がしてしまいます。不思議と威圧感のようなものは確かに見つけることが出来ないけれど、無邪気で純粋な欲求の塊が息を殺してぼくらの侵入に対して警戒心を働かせています。歓迎されていないということなんでしょうか?」
「あぁ。歓迎されていないというよりも君が異分子であることを認めているんだろうな。とはいえ、彼はあまり人見知りなどしない。私達が訪れるよりも早く向こう側から姿を現してくるはずだ。佐々木君、子供が悪を許容する為に最も必要なものがなんであるかを知っているかい?」
「えっと、あぁ、好奇心だと思います。ブレーキを簡単に外してしまえるようになるにはそれなりの訓練というか思考体験のようなものはきっと必要だけれど」
 背後から監視されているような気配がしていることをぼくは四月(一日)紫衣と会話しながらも感じているけれど、それが敵意であるのかそれとも善意であるのかを伺い知ることが出来ずに視線の在処のようなものを探そうと第二脳科学研究室内を注意深く見渡してみる。
「君が探しているものは此処では見つからないはずだよ。450億の神経回路を潜り抜けてどうやって研究所に侵入してきたのかを知る為にぼくに会いにきた訳じゃなさそうだね。平衡感覚が狂わされた守衛がもしかしたら身体の在処を見失っていただけかもしれないからね」
 ちょうどぼくの腰の高さぐらいの身長の大きめの眼鏡をかけた男性が研究資料を手渡したり日常会話を笑顔で交わす男性と女性の研究職員の間から現れてぼくを見つけると無邪気な笑顔を浮かべて白衣の袖をあげて手を振って挨拶を送ってくる。
 四月(一日)紫衣は成長することを拒んでいるような背丈の野嶋進一郎第二脳科学研究所主任の前に立つと腰を屈めて目線を合わせて必要な情報を共有しようとする。
「こんにちは。野嶋主任。侵入経路を把握出来ていないなんて『皇帝ネロ』にしては珍しい失態ですね。研究所のシステム内部にあなたにバレないようにバグを混入させるなんて芸当は確かに部外者からの情報漏洩を疑いたくなりますね。けれど、彼はシロですよ。私と一緒に犯人たちに遭遇していますからね」
「彼が新しい『メテオドライブ』をプレゼンテーションする為に出張してきた研修生だね。命令系統が作り出す幻想に取り憑かれることを想定しているなら悪用する輩だって十二分に考えられるさ。コードネーム『ANGEL』が実用化に至る過程での困難に果たして君の彼氏は必要なのかな」
「私たちに生贄は必要ないはずですよ、野嶋主任。可能性が常に障害と障壁によって行き先を限定されてしまうのならば、彼もまた京都電子頭脳研究所での何かしらの功績を達成する為に呼び出されているはずですからね。脳科学の領域に運命論の入り込む余地があるのだとしたらですけれど」
髪の毛を掻き毟って与えられた命題を解けないフリをしてズレた眼鏡の位置を直さずに野嶋進一郎主任はヨーロッパ系の白人の研究者から笑顔でファイリングされた資料を受け取るとも中身をパラパラとめくってみてからぼくにプリントされた紙の資料を手渡そうとする。
「紫衣が何故君を選んだのかはおおよその見当はついているんだ。篠山教授ともほぼ見解は一緒でね。『Archelirion』と対を成す理論を提唱するためにインターンを選んでいるということは理解している。だが、何故プレゼンテーションのするはずの製品には組み込まなかったんだ? こちらで推測出来る原因をおよそ1232通りに分析してリストアップした。非常にアナログな方法だがぼくからの友好の印だ。受け取ってくれたまえ」
「初めまして、野嶋主任。佐々木和人と言います。四月(一日)主任がぼくを選んだ理由は『バイオポリティクス』が弊社にとっても此方の研究所にとっても社会的公平性の実現に最も有効であるからだと聞いています。とはいえ、『Archelirion』はいわばコンピュータプログラミング上で形成される自己増殖と自己複製を基盤とした擬似生殖行為のはずですよね。ぼくにとっては夢のまた夢というか『バイオポリティクス』そのものにはあまり関係のない思考アルゴリズムと考えているのですが」
 野嶋主任は左手に持っているファイリングされた資料を右手でパラパラとめくって呆然と立ち尽くしているとすぐ傍をアメリカ系のスレンダーでグラマラスな女性研究員が通り掛かった拍子に右の鼻腔から血液が流れ出てほんの少しだけ口元を緩める。
「本当に気付いていないのかそれとも機械生命でも仲間に引き入れているのか。どちらにせよ、因子となるバグの可能性は精神性や遅効性のものも含めて残さず列挙したはずだ。いいかい? ぼくたちは当然ながら見たいものしか見ていないし、見えないものまで気を配ったりはしない。病理が常識として固定された空間にまで子孫を残そうとする輩はいないからね。とにかくだ、ぼくたちに手の内を隠す必要性は全くない。君は当研究所が開発責務を担っている新規プロジェクトに関わる第一歩を踏み出しているし、もうすでに仲間というわけさ」
 野嶋主任は手に持っていた紙の束をぼくに手渡すとズレた眼鏡の位置を直してぼくと四月(一日)紫衣に背中を向けて慌ただしく動き回り始めた研究員の群れの中へと戻っていこうとする。
「珍しく饒舌におしゃべりをしてくれたと思ったらもう体力が持たないという訳ですね。小さな身体で二桁を超える研究員たちの動きを隅々まで理解されているのだから仕方のないことです。けれど、彼に枝をつけようとしても無駄だとは思っています。そもそも『バイオポリティクス』の目的がその名の通り生政治にある訳ですからね。1/Fゆらぎは一体誰が必要としているのかをきっと私たちは再確認することになりそうですよ」
 野嶋主任は背中越しに四月(一日)紫衣の報告を聞き流すようにして右手を挙げて承諾と別離の合図を示すと両手で耳を塞いで余分な情報を遮断するパフォーマンスをして京都電子頭脳研究所で起きたミステイクの範囲を許容するように指示を出している。
 四月(一日)紫衣は第二脳科学研究室に走り始めた規則正しいリズムの中に身を委ねて目を瞑り人工物の楽園が降り重ねるハーモニーに耳を傾けて野嶋主任からの返答を待っている。
「何故電子ファイルではなくわざわざプリントアウトされたファイルを手渡してきたのかを理解しようとするところからぼくは既に野嶋主任が想定したゲームの中に取り込まれている気がしてしまいます。恐らくこのファイルに記載された項目は三日前の強盗事件以後に作られたものだとして野嶋主任は既に答えを見つけているということなんでしょうか」
「いいや。彼もそこまで暇ではないだろうね。君の『メテオドライブ』を奪った犯人がもし我々の想像を遥かに上回る手段でこの研究所に侵入することが出来たのだとしても君に手渡された資料のチェック項目は恐らく君が研修へやってくるより前に作成されたものであると推測される。つまりは、そうだね、野嶋主任ですら想定外の出来事がもしかしたら『ANGEL』の到来を阻んでいるのかもしれないということなんだ」
「『ANGEL』ですか?」
「我々はある一つの意志に基づいて制御された電子頭脳を作り出すことを目的としている。だが、当然のことながら人間の脳髄もまた我々が作り出そうとしている電脳もまた複雑な電子回路の集積によって成立しているんだ。私たちはそれを『ANGEL』と呼んでいる。人に留まることを恐れることがないようにね」
「空から天使が降ってきてぼくたちを救ってくれるということであれば、それはきっと無意識の中に眠っている原罪なのかもしれませんね。野嶋主任はそれを肯定しようとしていたのですか?」
「彼は原理主義者では当然ながらないし、純粋理性を批判し続けることを恐れない。恐らく君にファイルを託した理由がそうなのだろう。私たちの手で謎は解いていく必要があるのさ、犯人探しが結局のところトークンキーの再生成を後押しすることだってあるかもしれない。それに君は心の傷を癒す必要だってあるはずだからね」
「ぼくはまだ野嶋主任やあなたのように機械的に、というよりもプログラムを扱うようには心の問題を解決出来ているとは思えません。一連の行動に理由が必要なように、ぼくには『バイオポリティクス』を製品化させるまでの手順がまだ見えていないからかもしれません。けれど、戦極先輩はそのことを時間の問題にはしていなかったのではないかなと思っているんです」
「私は君と一緒に解決するつもりでいるだけだよ。もしかしたら君の頭の中にある私によく似たものに惹かれているだけかもしれないね。何故なのか分からないけどまだ君は私にその事実を打ち明けてくれていないからね」
「天川理論とぼくが呼称しているものであれば確かに紫衣先輩の『Archelirion』によく似ているとは思います。けれど──」
 ぼくは仕事に関わる問題と私生活で起きた出来事の関連性を結びつけるべきかどうかを悩みながらゆっくりと縫い合わせられていく過去の傷口が消え始めていることに安堵する。
 
*
 
「なぁ、マシマロ。お前は私にいつか言っていただろ。天才っていうのはいつだって孤独だし、私の声は誰にも届かないってことなんて最初から知っているんだって。けど、おかしいんだよ。私はさ、偽物だって知っているのにこの電話はいつまで立っても誰にも繋がらない。これじゃあまるでさ──」
 紅莉栖朱音は自室の部屋の隅っこでスチール製の扉を叩く音に怯えて震えながら縮こまり妨害電波のようなものに阻まれたスマートフォンが外の世界と繋がってくれないことを確かめている。
 彼女はその日が来るのを知っていたみたいにして諦めかけた表情をしているけれど、玄関を強烈に叩き続けている音に怯えてしまい身体が硬直するのを震えた手で抱きしめるようにして落ち着かせようとしている。
「そろそろ観念して出てこいよ! お前は俺たちのことを舐めていたんだ。何故サーバーの中に侵入できたのか教えてやろうか。なーに、ちょっとした出来心さ。お前たちの中に裏切り者がいるのだとしたら答えは簡単だろ? ずっとお前の頭に棲みついているやつ、それが俺なんだ。いいか、俺にはリエンの言葉がわかるんだぜ? だから出てこいよ。俺とゲームの続きをしようぜ」
 部屋の外から聞こえてくる甲高い男の声に嫌悪感を露わにしながら何度記憶から追い出そうとしても二度と忘れることの出来ない呪いのように蘇ってくるT+(W*superL/f)=A11Fという文字列をもう一度かき消そうとして頭を掻きむしる。
「だからさ、アイニー。私にはきっと才能ってやつがなかったんだ。いつの間にか追い込まれて聞きたくもない歌の歌詞がずっと頭に残っているんだ。私はだから殺される。あの日三人で朝まで明かした夜に感じたみたいに何処にも逃げ場なんてないって思い知らされるみたいにしてさ」
 誰にも繋がらなったはずのスマートフォンの着信音がなり自動的に応答メッセージが流されるとスピーカーから耳をつんざくような電子音が再生されて紅莉栖朱音は両手で耳を塞いで目を閉じてあーあと溜息を漏らして涙を流して運命と狂気を受け入れる。

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