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抗えない恋のようなものは存在していただろうか。そんな風に問われるとそこには確かに痛みがある。切った痕があり、刺した傷が残り、吐いた血の味がまだ舌先に憤りがコビリついている。けれど、ぼくにはまだどうしても信じられない。貴方のことを想い、愛しさに溢れながらも手に入れられない歯痒さに身悶えていた時間が存在していたんだと誰かに打ち明けてもいいものだろうかと迷いの中に溺れている。
「ねぇ、どうしたの? さっきからぼーっとしてる。あのさ、もう少しちゃんと手を動かしてくれないと困るかなー。君、目をつけられてるんだけどわかってる?」
 突然後ろから丸めたノートで頭を叩かれてタイピングする指先が止まっているのを叱られる。木山は職場の上司に当たるが年齢的には年下だけれど、 一ヶ月前に採用されて間もないぼくの世話係のような立場の人間だ。人間関係を築くのがとても上手なのかぼくとの距離を出来るだけ丁寧に図りながら接してくれている。ぼんやりと眺めていたPCのモニターに視線を戻して、素っ気ない男性ユーザーのメールに返事を返して、左後ろに向き直る。
「あ。すいません。なんか扱いにくい人だなってちょっと考え込んでしまって」
「そう。まぁ、気持ちはわかるんだけど、彼らはさ、早く返事欲しいと思うからさ。素っ気なくてもいいからパッと返事はしてあげて。時間をあまりかけないでくれるとありがたい。ねぇ、煙草吸いに行こうか?」
 紺のジャケットにデニムのジーンズにスニーカーというカジュアルなルックスの木山の誘いに応じて、ぼくは席を立ち上がり、ガラス窓で仕切られた休憩室へと二人で向かう。後ろの席の上司が気になったけれど、出社して二時間ほど経っていることをさりげなく確認して見過ごしてくれる。
「もう今日で一ヶ月でしょ。あんまり人の目を気にしないっていうのは良くないと思うな。こんな言い方は窮屈かもしれないけど、結果って大事だから。私もほら──」
「あぁ、鷺沼さんから色々話は伺ってます。いや、まだちょっとユーザーの考えに戸惑ってしまう時があって。当たり前の話だけど、ぼく自身は女の子ではないし、何を求めているんだろうって」
 電子タバコに口をつけて、白い煙を吐き出した木山が壁にもたれかかりながらぼくの様子を気遣う。鷺沼というのは彼女の直属の上司で、一ヶ月前の四月十五日に面接をしたこの会社の正社員だ。デジカムはいわゆるマッチングアプリケーションの運営会社でぼくの仕事は利用者、特に男性とのメールでの会話がメインになる。当然ながら、ユーザーは顔写真やプロフィールに基づいて相手を選び、食事や性的な関係を望んで連絡をしてくる。定期利用にはサービスに応じて一定の金額を支払う必要があり、ぼくはほとんどの場合、女性としてユーザーとの会話を進行させる業務についている。アルバイト契約で時給は1200円。日々の生活を凌ぐ程度には役に立つし、ある程度時間の自由も効く。以前に勤めていた会社を離職した理由を考えてもぼくにとってはとても都合が良い。もしかしたら、木山はそんなぼくの内心を見透かしているのかもしれない。
「じゃあ、約束をして。一時間以内に最低三〇件は片付けて欲しい。まぁ。嫌な言い方をするとノルマってやつになるのかな。一応鷺沼さんから言われているのはあと一月で五十件は片付けられるようにして欲しいってことだから。あまり悠長なことは言わないで欲しいな」
「あぁ。はい。そう、ですよね。あの、男性ユーザーが求めているものってなんなんでしょうか」
「うわ。すごい質問。けど、そうだな。彼らは寂しいんだよ。誰かに会って素直な話を聞きたいわけでもなく、ただ自分がちゃんと誰かに相手にされているんだって思いたいのかな。君もさ、男だったらなんとなくはわかるでしょ?」
「あはは。まあ、それはなんとなく。けど、まあ、友達とかそういうんじゃなくメールをするだけに何万円も払ってっていうのはまだ戸惑いがあります」
「現代病って感じがするよね。誰かと繋がりたいのに傷ついたり苦しんだりするのは嫌なんだ。それでも、職場とか普段の生活で出会う人たちとの上べだけの関係で波風立てずにってやりとりに疲れちゃうのかな。ほら、お客さんってさ、ただのサラリーマンの男性とか結構いるでしょ。なんで女性に相手にされないのか理由が透けてくるっていうか」
「あぁ。そこを突いてやればいいんですか。だったら、やっぱり考えすぎなのかな──」
「そう。そんな気がする。だからもっと力を抜いて。あ、そうそう。歓迎会。今週の金曜日だってさ。予定空いている?」
 自分の心に穴が空いているのはなかなか気づけない。だから目に映るものに嫌悪感が発生してしまう。相手がまるで合わせ鏡のようにぼくを責めてきている。どうしてこんなにも求めているんだろうと誤解をいつの間にか言い訳の材料にしている。男性ユーザーから分単位で返ってくるメールを見るたびに心の隙をつかれたように感じる。だから、彼らは拙いメールで気に入った女性を引っ掛けて思い通りに操ろうとするのだろうか。不安だけで繋がろうとするから辞めることが出来ない。火をつけた煙草の味が苦くて、ニコチンがもたらす微かな高揚感に脳が刺激される。寂しさの埋め合わせをしているのはぼくも一緒なのかもしれない。いつの間にか辞めることが出来なくなっている白い赤マルの箱の煙草には何度も注意されたぼくの欠点がべっとりと染み付いているような気がしてしまう。 デニムジーンズのポケットからスマートフォンを取り出してカレンダーアプリを調べて金曜日の予定を調べる。空白だ。一ヶ月前まであった記号はこの先の予定には残っていない。
「あぁ、大丈夫です。歓迎会ですか。確か、鵜飼さんもいらっしゃるんですよね。なんだかちょっと緊張しますね」
「うん。他のアルバイトの子何人かとうちの部署の鷺沼と木川と鵜飼さん。それから奏水かな。もしかしたらあっちのサイトの子も来るかも。大勢だから何話していいのかわからなくなっちゃうかもしれないけど、みんな歓迎してくれるはずだから。自己紹介も兼ねて。あ、それとさ、使ってるメールソフト。何か気になるところはある? うちのエンジニアに修正点提出するのが今週末までだから私も色々まとめておかなくちゃいけなくて。開発部はほら、リモートでしょ。顔合わせたりしないから細かいところまで言わないと彼仕事しなくて。なんか同じ会社なのに待遇が全然違うってたまにでも不満に感じちゃう」
「リモートワークってやつですか。事務所まで出勤はせずに自宅で作業をする社員さんもいるんですね。メールソフトの気になる点ですか。うーん、今はまだメールするのが精一杯で。ただ顧客のリストを条件絞って検索するときの操作が少しだけわかりにくいっていうか」
「あぁ、了解。夜勤の詰田さんのコネクションで雇っているエンジニアさんだから腕は確からしいんだ。だから、まとめて気に入らないところがあれば伝えておく。君は話も早いし、真面目で助かるよ。これからも頑張ってね」
 電子タバコを吸い終えた木山はぼくに労いの言葉をかけると、休憩室から出て先に自分の仕事に戻っていく。年齢は七つほど離れているが、職場では三年ほど早く勤務していてぼくにメール対応のノウハウを教えてくれる。ユーザーにはタイプがあり、出来るだけ簡単に女性と性的関係を望もうとする人。それから疑似恋愛を楽しみたいのだが、やはり直接会うことを前提として関係を深めようとする人。そして、最後にメールだけの関係に特に不満を抱かず何気ない日常会話に課金をして時間を潰している人。社内で使用されているのはマッチングアプリのユーザー対応向けに開発された特別なメールソフトで、サイトで選んだ好みのタイプの女性にメールをしたユーザーのリストが年齢や住まい、その他の条件別にフィリタリングされてソートされた結果が画面に出力される。ぼくはメールの着信履歴順にユーザーのメールに返答してノルマをこなしていく。彼らのメールの内容の特徴には女性蔑視側面や自身に対する劣等感が垣間みえているのでぼくは業務に携わりながら出来るだけ彼らの性格的側面に合わせた返事を作成して送信する。ちょっとした刺激でサービスの継続的な利用を控えてしまう繊細さをあまり非難する気になれなくなれば、一人前なのだろう。言ってしまえば、架空の世界に存在している異性と話している自分の存在を否定されたくない。デジカムにとってユーザーが本当の意味での幸福を得られる基準には関わる必要性がない。
「報奨系っていうらしいよ。こういうメールに返事してくる人ってさ。デジドラってアプリあるじゃん。あれで、連鎖とかさせると同じ気持ちになるんだって。今日ネット見てたらキモいブロガーが偉そうに書いてた。ねぇ、どうしてこいつはぼくに返事とかしてきちゃうんだろうね」
席に戻ると隣の席に座っている頭髪を赤く染めた太めの男の子が話し掛けてくる。年齢はぼくより十歳ほど年下で平日の空いた時間や週末を利用してバンド活動を行っているらしい。彼はインターネットで見つけたブログや書き込みネタを度々ぼくに報告してきて、自慢げに情報の真偽性に疑念を持たせようとしてくる。当然ながら、インターネットリテラシーなんてものにぼくがそれほど詳しい訳もなく、件のブログ記事に興味が湧かないことを察したのか作業に戻りぶつぶつと愚痴を言いながらタイピングをしている。返信用の画面を確認すると時間順のメール履歴の先頭に三十八歳男性で経営者を名乗るユーザーからのメールが先頭に来ている。
「Tiger@今日は仕事が早く終わるんだ。よかったら、待ち合わせでもしない? 18時ぐらいから空いているよ」
 このユーザーのお決まりの文句というか、当然ながらぼくはいくつかの女性を使い分けて彼の対応をしていて、違う顔写真の女性で似た内容の返信をした覚えがある。どうしてもメールから彼の生活習慣や仕事内容などを想像してしまうけれど、インターネットの情報と同じで彼のメール内容には確かに真偽性に価値なんてないかもしれない。彼の話している内容が嘘であれ、本当であれ、ぼくの業務は考えていることを伝えるのではなく、彼の嗜好に合わせたメールを提供することのはずだ。彼にとっての良質さと一般常識のずれに違和感を感じながらも出来る限り彼の希望に即した返答を作成する。
「ミンミン@あは。お疲れー。仕事いつも大変そうだよね。なんだか出来る人って感じがして素敵だなって思っちゃいます。けど──今日は両親が家で誕生祝おうって言ってくれてて。ごめんね? また時間空いている時に誘ってもらってもいい?」
 ぼくの性別は四十代の男性で、メールソフト上に出力されている画像は二十四歳の茶色い髪のいかにも今どきといった女性で、職業は美容系の会社員。両親は貿易系の会社を営む良家の子女で門限があり、性的な関係に対してはあまり表に出さないという設定だ。彼女が実際に存在するかのようにぼくはメール内容を作成する必要があり、メールのやり取りを通じて得たお互いの情報以外の内容を盛り込んではいけない。ぼくが使用している女性会員の情報は社内のアルバイトや正社員が共同で作成した虚構に基づいている必要性があり、例えば、細かな口癖や生活習慣、好きな食べ物や趣味に至るまで管理されている。ぼくはこの設定内容に応じたキャラクターを利用して男性会員へのメールを作成し続ける。上司はぼくの内容を別の画面でチェックしながら、会話のやりとりがスムーズに行われることで男性の欲求を刺激して、会社の管理しているマッチングアプリケーションへの課金を促すことが主な業務になっている。
「さて、順調に仕事してもらっているみたいだから、今日は別の作業をやってもらおうかな。うちの会員に向けてまとめて同じ内容のメールを作成して送信してもらうんだけど、うちのサイトにログインしたアクセスログを元に一週間以内で対象を絞ってもらうから大体五千件ぐらいになると思う。相手の年齢は考えなくてもいいから出来たら男性会員の興味をそそるような内容にしてほしい。まぁ、例えば食事の話題とか今日の時事ネタだとかはそれなりの反応があると思う。けど、返信していて内容は分かると思うけど、ほとんどのユーザーは女性会員に、つまりぼくらにセックスの成立や会う約束を取り付けたりすることがほとんどだ。ヒット率は高いけれど、彼らを刺激してもぼくらは当然彼らの要望には応えられない。だから、直接彼らの返答がアポイントメントに繋がりやすいものになるのは避けてもらいたい。出来たら簡単に300文字程度の文章を作成してもらってもいいかな?」
「わかりました。えっと、女性のキャラクターに関しては事前に決められたものがあるんですか? それともぼくが一から考えた方がいいんでしょうか。例えば、ヒットしやすい年齢だとか職業なんかもあるんですか?」
「普段返信している内容から大体分かるとは思う。例えば、看護婦だとかOLなんかだったら自分でも作成しやすいんじゃないかな。性格的にはあまり暗い子よりは明るく元気な子の方が反応も良いね。まあ、とりあえず最初はあまり深く考えずに気楽に作ってみてよ。後で駄目だったらぼくの方から修正させてもらうね」
 似たような男性会員の対応を十件ほどこなしたところで、ぼくに話してかけてくる。BATIHEING APEのオレンジ色のスウェットパーカーとX-large太めのデニムとTimberlandのイエローのスウェードブーツを履いた鵜飼という上司が話しかけてくる。彼の右手の甲には中世ヨーロッパの騎士が中世の証に入れたという紋章が刺青されている。けど、彼の口調は優しく攻撃的な印象は見当たらない。業務の特色上、取引先やユーザーと直接対面する機会はなく、就業している社員やアルバイトに見た目の問題で拘束される心配はないらしく、種々様々なファッションを楽しむ職場環境になっている。中には首元や顔に直接タトゥーをしている上司もいて、管理職に相当する人間の中にも社会的には制約を受ける見た目であったとしても職務に問題がなければ出世や大規模な仕事を任される人間も多いようだ。ぼくは出社の際は出来るだけシンプルで目立たない格好を選んではいるけれど、マッチングアプリという名目で運営されている会社が都内のビルの一室を借りて業務を行っていることで管理職についた強面の男性や女性社員の見た目が影響を与えている可能性はあるのだろうかとつい無粋なことを考えてしまう。とはいえ、会社はIT事業登録をされている以上謂れのないクレームには然るべき対処が出来るから全く問題ないと鵜飼という上司はぼくが入社して一週間ほど経った後の休憩室でそんなことを話していた。
「わかりました。けど、彼らの要望が一か月経った今でもよく理解出来ていません。多分会いたいと考えているわけでも、本当の意味でヤレると思っているわけでもきっとないです。というよりも女って生き物が頭の中に存在していないというか──」
「ごめん、言っていることがよくわからない。とりあえず言われた通りにテンプレートを作ってもらっていいかな。一応鷺沼には伝えておくよ」
 少しだけぼくは自分の言っていることに自信がなくなり、不安が過り、過去の出来事が思い返されて不自然な歪みみたいなものが溢れて口元が緩む。誰のことを一体笑っているのかわからなくなり、鵜飼に言われた通りに手を動かしてメールの文章を綴る。
“おはよう! 今日はお仕事お休みだよ
最近彼氏と別れてしまってなんだか寂しいなって時間が増えてきちゃいました。看護師の仕事をしているんだけど、非番の日は一人で家で過ごすことも多いから相手を探しています。一人で部屋にいても何をしていいのか分からなくないですか? プロフを見たらとても気が合いそうなので連絡したよ! 私ってどうかな? 返事待ってます!”

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