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Tomorrow's the pay and mum's the word. I can't have that, can I, Baz?

「じゃあ奴らは最初からぼくの研究が目的だったって訳ですか? どうして『バイオポリティクス』のデータが外部に洩れたのかわからない。打ち明けているのは戦極先輩しかいないはずなのに。あ!」
 通報後に駆けつけた警察の現場検証と事情聴取を終えたぼくらは研究室に居残り、突然巻き込まれてしまった事件の真相を独自に探るべく話し合いを始める。
 何故、犯人が容易く厳重なセキュリティの京都電子頭脳研究所に侵入することが出来たのかは今後警察の力を借りて捜査が進められていくことになりそうだけれど、警視庁の刑事から聞かされた範囲だと警備員はどうやら眠らされていたらしい。
 とはいえ、強引にセキュリテイがこじ開けられた経緯はなく、なんらかの特異な方法を利用して関係者を装い研究所内へ入り込んだのだとすれば、そう簡単に片がつく問題ではなさそうだ。
 卒倒させられたとはいえ、重症ではなかったことから四月(一日)主任から打ち明けられたぼくの研究データの強奪に関する問題と突然遭遇した不慮の事故の関係性を把握するために状況を確認しようとする。
 どうやら犯人はぼくを標的にしているようだ。
 だとすれば、『天川理論』の予測は事前に算出した数値との誤差の範囲内の可能性があるということだ。
 認めたくない現実と受け入れざるを得ない状況が交差してぼくを再び運命の輪の中に引きずり落とそうとする陰謀のようなものを感じ取って四月(一日)主任に向かって少しムキになって口調を荒げて訴えかける。
「気付いたようだね。或いは彼らが件の犯行に関わっているかもしれないということになる。つまり、戦極が殺された理由も殺人鬼の気まぐれではない可能性すらある。しかし、その前にどうしても一つ確認したいことがある。先程の二人組の女性の顔を君は知っているような素振りだった。彼女が現れた後の君の反応も筆舌にし難い。詳しい話を聞かせてもらうことは出来るかな」
膝丈ほどの白衣と緩いパーマがかかった肩まで伸びた金髪の四月(一日)主任はとても真剣な表情で向かい合ってぼくの目を覗き込みながら突発的な行動の理由を探ろうとする。
 まだ冷静さを取り戻せないぼくは深呼吸をすると、嫌な記憶が蘇ってきた時のような焦燥感に駆られてしまったせいか冷や汗でべっとりと湿った手のひらを握りしめる。
「どう打ち明けていいのか心の整理がつきません。あり得ない事実が複雑に入り組んでぼくの目の前に現れて我を忘れた挙句、貴方たちを驚かせてしまうほど取り乱してしまった。なんというか、その」
「時間をかけてくれて構わない。君の反応を見る限り簡単な問題ではないことは明らかだ。紅莉栖、悪いんだが、佐々木君にコーヒーを淹れてもらえるかい。私の分も頼む。いつものようにミルクは多めに入れて欲しい」
 赤く染め上げた髪をかき上げながらとても疲れ切ったという顔をして四月(一日)主任の注文に応えると、コーヒーサーバーのある東側まで行き、冷蔵庫のペットボトルでミネラルウォーターを補給して、粉コーヒーを三杯ほどドリッパーへと注いでコーヒーマシンのスイッチを入れる。
「ありがとうございます。まず、最初にお伝えしておかなければいけない事実として、二人組のうちの女性の顔には見覚えがあります。けれど、残念ですが彼女にはもう会うことは出来ません」
「というと? 素直に受け取れば、今現在は遠距離もしくは関係性が途切れていると考えられる。けれど、敢えて伝えてくるということはそうではないということかな」
「ええ。三年前に彼女自身はとある事件に巻き込まれて他界しています。当時、ぼくが大学在学当時に交際していた女性で名前を梅里桃枝と言います」
「他人の空似というわけではないのかな」
「もちろんその可能性もないとは言えませんし、そうである方がぼくも望ましいと考えています。とはいえ、彼女の方もぼくを以前から知っていた様子でした」
 紅莉栖朱音がそっと近づいてきて可愛らしいデフォルメされたシベリアンハスキーのプリントされたマグカップと来客用の真っ白なマグカップを二つ持ってくると、音を立てないようにそっとぼくたちの前に置く。
 茶色く濁ったコーヒーを四月(一日)主任が口につけると、紅莉栖朱音は自分のマグカップを持ってぼくの話に何も言わずに黙って耳を傾ける。
「幽霊を見たというわけではなさそうだね。実態もある。例えば、双子の姉妹がいた可能性だって考えられる。けれど、君の口ぶりではまるで本人が目の前に現れたと言っても過言ではない」
「二局線分率実在係数同一化現象。まあ、理論だけの話だけど、論理物理、特に多次元宇宙論を専門に取り扱う学者と仲が良くてさ。そいつがよくこの手の話を好きで私に一生懸命話してくる。まあ、簡単にいうと異次元の向こう側からもう一人の自分がやってきたって話さ」
 ぼくは紅莉栖朱音が用意してくれた真っ白なマグカップでコーヒーをぐいっと呑んで乾いた喉を潤して聴き慣れない物理現象に興味を示す。
「異次元同位体ってことですか。第三脳科学研究室らしい発想ですけれど、流石に実体を持ってこちら側の世界を歩き回るなんていう話は荒唐無稽すぎやしませんか。とても印象深い仮説ではありますけどね」
「まあ、そう茶化すな。確かにこの話は友人の仮説に過ぎないし、お前の言う通り意識レベルならまだしも肉体を持った同位体を私たちが目にするなんていうのは夢のまた夢だ。それこそ、映画の中にでも出てきそうなサイエンスフィクション。ただ、この論説にはある程度の科学的論拠も認められる」
「意地悪ですね。けど、ちょっとだけ救われる。あいつは桃枝であって、桃枝じゃない。別の可能性を生きる別人。それでも奴はもしかしたら記憶を共有しているかもしれない」
「ますます私の友人の仮説に信憑性が出てしまうな。失敬。話を逸らす気はないけれど、問題はその記憶ってやつだ。こいつの理論は脳神経経路と宇宙図に類似性を見出して多次元解釈をより有機的に解釈しようというものでね、つまりはそうだな」
「ド・ブロイ=ボーム解釈に近い論説に思えます。確率過程量子化状態を考慮すれば、宇宙がたった二つである必要はありません。二局線分率というのも恣意的過ぎませんか?」
「まあ、待て。あくまで決定論的現在を否定する方法論の一つに過ぎないと考えてくれ。時空分岐点をある特定個人の脳内に保存された記憶を元に定義することで、波動関数を特定しやすくすることが出来るという訳さ。射影宇宙を超極私的に限定してしまうから演算が最小で済むし、まあ、突拍子もない仮説ではあるけれど、現在の問題を理解する手助けぐらいにはなってくれるだろう?」
「それでも実体を持って会話を出来る状態を解決出来ない。ある過去を分岐点にして記憶の共有を肯定出来たとしても重力定数を超えて二人のぼくが同時に存在するなんて不可能なことでしょう」
「同時ではないから可能なんだ。高次元に保存されている情報に意識や魂と呼ばれる不可視の値が認められばね。この辺りは主任の方が詳しい」
紅莉栖朱音はニヒルに笑って意気消沈してしまいそうなぼくを挑発するような態度でわかりすく問題を整理しながら解決の糸口を明確にしようとしている。
袋小路に入り込んで堂々巡りになってしまいそうな問題を仮説を立てて順序よく説明していくところは科学者らしい判断だと思えたし、ともすればパニック状態に陥りそうな事態を回避させてくれたように思う。
とはいえ。
「高次領域の情報保存性と質料に関しては私の専門分野ではあるけれど、あくまで物質的依存を考慮しない場合に限定されている。紅莉栖の友人はロマンチズムに傾倒し過ぎているきらいがある」
「あはは。全く嘆かわしい。一途な想いが情報を低次領域の確定的実体へと変化させるというわけだからね。否定と肯定を繰り返して消去法的に削除していった現在を二局線分率が最小、つまり五十パーセントに到達するまで波動関数を特定する。超弦理論は重力定数に干渉せずに彼方と此方を入れ替えてしまう。馬鹿らしいが、夢のある話だろう。お前にとっては、悪夢のようなものだけれど」
 ふっと緊張の糸が途切れて身体から力が抜けていくのを感じて、さっきまであった割れそうなほどひどい頭痛と耳鳴りが和らいでいくのを感じる。
 攻撃的な態度はどうやら嫌な記憶に圧迫されたから引き起こされていたらしく紅莉栖朱音にいつの間にか張り詰めた気力を解されていたようだ。
「ご友人は確かにユーモアのある素晴らしい人だと思います。わかりました、この件に関しては後回しにしたいと思います。ただ打ち明けることが出来てよかった。戦極先輩の一件に絡んでいたとしても今のところは警察に任せるしかない。『バイオポリティクス』のデータはご破産。なんだかすごく情けないです」
 紅莉栖朱音は切羽詰まったぼくの態度に平静さが取り戻されたことに安心したのか自分のデスクに戻って再びPCで何かの作業に没頭し始める。
 コミカルなシベリアンハスキーのイラストがプリントされたマグカップを手に持ってコーヒーを口にしてから四月(一日)主任が冷静な態度のまま話を進めていこうとする。
 彼女には事件後の動揺のようなものがあまり見られないのは気のせいだろうか。
「そうだね。君の研究データのバックアップは所内にも保存されていないし、強奪されたSDカードと破壊された君のノートパソコン以外には現在のところ記録が残されていない。幸い、今回のプレゼンテーションは私の研究と合わせて発表する予定であることを考えれば君の出張を取り止める必要性まではないと思うが」
 四月(一日)主任は気休め程度にしかならない慰めを伝えていることに気付いてしまったのか気まずそうな顔をして意気消沈して塞ぎ込みそうなぼくの出方を伺っている。
「プレゼンテーション資料やデータはともかく基本的な理論は頭の中に入っています。東京本社のぼくのPCからデータを送ってもらう訳にはいかないのですが、所内のものを使わせて頂ければある程度復元可能だとは思います」
「わかった。その件は君に一任しよう。一応、使っていないPCが一台余っているし、自由に利用してもらって構わない。必要なアプリケーションがあるのならばこちらで出来うる限り対処しよう。とはいえ、強奪されたものは君の財産に等しいものだ。このまま手をこまねいている訳にはこの研究室の主任としての立場が許してはくれない」
「お言葉だけでも嬉しいです。けれど、先ほども伝えてくれた通り元所員とはいえどうやって侵入したのかもはっきりしない状況では警察の捜査に任せることしか出来ないのでは? ぼくらだけでどうにか出来るような問題があればもちろん協力するのはやぶさかではありません」
「わかった。まずは状況を整理しよう。憶測部分は私も含めて所轄の警察には報告していないと考えていいのだね。東京で起きた事件と京都で遭遇した犯人に繋がりがあるかどうかはまだ判断しかねるが、少なくともこの件を知っているのは私たち三名だけであることが現状だ。愚鈍な警察の連中では所内への侵入方法は愚か二つの事件の関連性を見つけ出すことも難しいだろうからね」
「そうですね。実をいうと、ぼくも全く同じ気持ちでいます。三年前の殺害事件の犯人すら警察はまだ特定出来ていないどころか容疑者の一人に最近までぼくをあげていたぐらいです。彼らには目星すらつけられない相手、だとしたら迂闊に情報を共有する気にもなれないとすら思ってしまう」
「それは驚いた。それでは少なくとも警視庁の人間から君はマークされていると考えていいということだね。もちろん疑う訳ではないけれど、君が容疑者リストから現在外れている理由は何かあるのかい? 未解決事件であるのならば、そうやすやすと彼らだって諦めたりはしないだろう」
「ええと、それは」
「ちょっと待って。先輩。ありました、このログ。サーバー内のパケットが急に増加している部分です」
 四月(一日)主任の鋭い質問にぼくはたじろいでしまい答えを言い淀んでいると、紅莉栖朱音が何か重大な発見をしたのかぼくらのほうに向かって手招きをしている。
 ぼくはどうしても口に出して情報を共有する気になれなかった柵九郎と田神李淵の名を呑み込んでしまうと、奇妙な体験と不可思議な記憶が煮えたぎりながら身体の奥底を刺激するのに耐えながら、四月(一日)主任と一緒に紅莉栖朱音のデスクまで駆け寄っていく。
 
 *
 
「いえ、皇補佐官。順当に行けば本隊から離脱出来るのは三月頃を予定しています。白河三尉の指示の元に我が隊も独自のルートでの情報収集も三分の二を完了。『ストロベリージャム』が既に国内に入り込んでいるのだとしても事前に『フリープレイ』の発動を防ぐ手筈は整えています。ご心配をなさるようなことは」
 二等陸曹に昇級したばかりの皇三門は黒い安全靴を履いた両脚を揃えしっかりと背筋を伸ばして革張りの椅子に座った五十代ほどの上官に向かって敬礼をしながら報告をしている。
「貴様はまだそんな悠長なことを言っておるのか。三尉の元に預ければ甘さが抜けると考えてのことだと思ったが未だに母親のことが恋しいと見える。一族の中で、唯一『解放軍』ではなく陸軍に配属されていることを恥とも思わんとは」
「皇補佐官、お言葉ながらで、多分に公私混同としか受け入れない発言は撤回して欲しいでござる。元はと言えば、これは陸軍内部の機密情報漏洩に端を発しているでござる。一概に皇二等陸曹を責めるのはあまりにも筋違いでござる」
 カイゼル髭を蓄えた皇補佐官は高級そうな革張りの椅子に座ったまま口惜しそうに押し黙り、白河稔の提言を渋々受け入れる。
「君がそういうのならば私も身を引こう。此奴は未だに皇家の血族である自覚がない。男子として産まれたからには」
「皇補佐官、そんなことよりも、もし『ストロベリージャム』がたった一人でも生き残っていたとしたら必ず東條一護は身体を取り戻すでござる。無体が死を超越した思想であるのならば、彼らはその原理にはたどり着いていたと考えるべきでござろう」
「ふん。心配せずともその辺りに抜かりはない。『解放軍』とて手をこまねいていた訳ではない。『パラトリウム』などという世迷言が散布される世の中など訪れはせんよ。問題は」
「はい、皇補佐官。『中山美稀(あのひと)』が強奪された経緯を考えれば、元陸軍士官参謀長が総務省や防衛庁の癒着していた場合、おそらく国内の情報機関は壊滅的打撃を受けるものと考えられます。『ストロベリージャム』の謀略さえ無為に帰す。その可能性を『解放軍』は陰から支えてきたと言えるのですから」
「この通りでござる。少なくとも『御子息』は貴君の意向を何もかも理解しているでござる。だからこそ、我々『MGS』には特務権限が与えられているでござるからな。落ちこぼれ士官の部隊とはいえ、だからこそ出来る軍務はあるでござる。一護の幻影を発掘する手がかりは掴んでいるでござる。どうかこの件は我が部隊に一任する気はござらぬか」
「その通りだ。君が軍属にありながら、上官への従属義務を持たないのは巡音家の意向によるものだが、その『MGS』とやらの功績が認められて西部方面陸軍幕僚長のたっての推薦で京都地方協力本部との合同演習に参加が認められている。まさか『ストロベリージャム』の置き土産が陸軍に配備されているとは『執務室』とて夢にも思わんだろう。だが、白河稔三尉。貴君は本当に獣人であることの異和から逃れられるとお考えかな」
 白河稔は予期していた問いが何の衒いもなく投げかけられたことに対して真っ直ぐに受け止めて何か大切なことを当然のように思い出させられたように目を細めていつの間にか忘れようとしていた人間だった頃の自分の姿を皇家の家君であり、自衛隊異空間方面部隊『解放軍』補佐官、皇琿覇の姿に重ねようとする。
 
 *
 
「そうだ。問題は研究所の入り口に設置された監視カメラによるチェックをすり抜けることと虹彩認証、指紋認証、声帯認証及び人体スキャナーによる国内最高度のセキュリティを難なく突破して研究所の所員を偽装する方法なんだ。いいか、これをよく見てくれ。外部との接続が遮断されているはずの所内のサーバーに不審なログを見つけることが出来た。システムとは直接関係がないパケットに解読不能な記号の羅列が存在している。暗号化技術の類でもないとすれば非言語言語が使用されていると考える方が合点がいく」
 紅莉栖朱音はターミナルを開いて所内のサーバーログに記述された解析不能な文字の羅列をマウスカーソルで選択して該当箇所についてぼくと四月(一日)主任の意見を求めようとする。
「暗号解析ソフトは既に実行済みだな。だとすれば、紅莉栖の読み通りで間違いはないだろう。とはいえ、コンピューター言語でもない記号がどのようなネットワークを介して外部との接続がされていないサーバーにアクセス可能することが出来るのか分からない状況では手がかりの糸口すら掴めないということになる」
「内部の人間が手引きをしていたと考えるのが一般的ですが、それでもサーバーの管理者権限を持っているのは三つある脳科学研究室の中でも主任クラス以上ということですね。特に、外部とのアクセスを可能にするマスターともなると、京都電子頭脳研究所所長と副所長の二人のみです。警察によるアリバイが証明さえ出来るし、事実上不可能な犯罪としか言いようがない」
 ぼくは状況を整理して紅莉栖朱音が見つけ出した決して立証することが出来ない犯罪行為の痕跡から推測される手詰まりの可能性を指摘するのと同時に、ぼくらが遭遇してしまった異常な事件の本質に迫る為の情報を何とかかき集めようとする。
「鬼嶋元所員が四月(一日)主任を含めた管理者権限を持つ役職クラス及び所長と個人的な関係があった線は私たちの目から見ても薄いとしか言いようがない。それに今回の事件は彼だけではなく佐々木君の元恋人に瓜二つの女性も同時に侵入してきている。所内のシステムがダウンしていれば話は別だが、少なくとも彼らが現れた時にはそのような形跡は一切なかった。どのような角度から見て不可能性が証明されてしまう」
「結論を出すのにはまだ早すぎるが、どちらにせよ所長ですら一存では実行出来ない外部接続処理コマンドが実行されていないのにも関わらず、所内のコンピューターでは生成不可能な文字列が存在している。これを単なるエラーとして処理して無視すべきなのか、それとも犯人の残した重要な証拠と捉えるかで私たちの態度や行動目的が変わってしまうのもまた事実だ」
 T+(W*superL/f)=A11F
 何かの方程式を示しているようにアルファベットと記号が並べられてはいるけれど、少なくとも現在どのようなデータベースを用いても照合する数値や現象は見つけることができず、もしそうであるのならば、不規則に不随意に無作為に偶然性を現しているに過ぎず、紅莉栖朱音がいうようにサーバーログに記述された記号と配列は非言語言語の一種だと定義することが現状は適切なのかもしれない。
「とはいえ、ランダムに配置されているとは言い難いです。意味性はある程度保持していると判断するのが妥当ですが、それぞれの文字列を抽出した上で反証しようとしても該当する基準値もしくは物理現象の類は類推することが出来ない。『彼ら』は何かを伝えようとしているのでしょうか」
「あはは。此処は国内でも有数の頭脳が集まり最先端の技術が投入され最新鋭の設備によって管理されているある意味陸の孤島とも呼ぶべき場所なんだ。天才と呼ぶべき人種が集まり、人間の脳という我々が持ちうる最大の武器の研究を行う機関に対しての宣戦布告だと捉えるのであれば、その可能性は十二分にある。分からないことはまだ無限に存在するはずだという結論をもし言いたいのだとすれば」
「犯人は何らかの重要な機密情報を握っているということですね。けれど、だとすれば尚更『バイオポリティクス』が強奪された経緯の説明が出来ません。要約すれば、あの研究データは脳と意識の自由を開放することが目的です。製品化されれば不可視領域に対する認識能力が格段に向上するのは事実ですが、推測されうる犯人の意図と合致させられる判断材料が見受けられない」
「事態は複雑であり深刻だけれど、諦めるだけの口実が一切見受けられないのは不幸中の幸いと呼んでもいいはずさ。インターンとして今回出張してきた京都電子頭脳研究所での成果は別の形で見せてくれたまえ。君にはその実力と知性が兼ね備えられている。佐々木和人、我々はエンジニアとしてこの問題に立ち向かわなければならない。関数と変数によって定義づけされた処理を簡略化して特殊環境下に置かれた相対性を一般化すること、つまりは全ての謎を完全に解き明かすことが使命なのだと断言しよう。君はその為にこの研究所を訪れたんだ」
 四月(一日)主任は決して迷いのないはっきりとした口調で今まで出会った他の誰よりも真剣にそして今まで感じたことがないほど激しく燃え上がる感情を伝染させるようにして、ぼくの眼を真っ直ぐに見つめながらひび割れた心の中に侵入する。
 破壊されたものは消滅してしまうのではなく、あらゆる情報を元にコピーを繰り返して復元される時間が訪れるのを待っている。
 だからぼくに必要なのはきっと運命が延々と繰り返される瞬間同士を接続して逃げ出すことなんて出来ない自分自身の模造品が目の前に姿を現す歯車の動きに一部の乱れもないとそう判断したこの場所のことを言うのかもしれない。
 ぼくと四月(一日)紫衣はお互い知り得るはずのなかった世界の向こう側を手に入れることで、どうにかして傷跡を癒して前に進むだけの力を手に入れられるのかもしれないけれど、まるでそんな事態を嘲笑うみたいにして、T+(W*superL/f)=A11Fという『形而上に存在している記号と配列のパラドックスに関する簡単なラブソング』がコンピュータープログラムの中で再生されている。
「忘れたことは一度たりともないし、これからもぼくの頭と心にはきちんと刻まれたまま永遠を偽るのはわかっています。だけど、貴方のいう通り、これはきっと何度も叩きつけられて証明を求められ続けた真理を現す記号なのだとぼくも感じています。だからこそ、きっとこの第三脳組織開発室の力が必要になると思います。一人では決して解決できない。分裂して統合が失われた人格が一つを求めてやって来る。ぼくの言っていることが伝わっていますね」
 四月(一日)紫衣がこの時にもしいつの間にかパソコンのモニターから目を離すことが出来ずに意識を占領されている紅莉栖朱音に気付くことが出来ていたのならば、もしかしたら世界線は異様な分岐を繰り返すことなく、まるでCoffee & CgaretteSの気怠いボーカルと怒り狂ったシャウトがぶち壊してくれるありきたりの日常を知るみたいにしてぼくらといつまでも時間を供にしていただろう。
 虚な眼のままモニターを流れ続けるサーバーログを見つめたままの紅莉栖朱音を置き去りにするほど猛烈なスピードに乗って誰にも許されない場所で何処にも出口なんてあるわけがない時空の片隅でぼくと四月(一日)紫衣はゆっくりと激しく淫らな恋の予感に堕ちていく。

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