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Now, my point is that the lack of a silver spoon has set you on a certain path that you needn’t stay on.

「しばらくぶりです。木場工場長。真織君はお元気ですか? 彼とも卒業以来顔を合わせていないし、なんだかとてもご無沙汰してしまって。それと、彼女が真理亜さんの教え子です。彼女を出雲に送り届ける前にどうしても受け取っておきたいパーツがあったので」
ドアをノックして工場長室に入った蒼井信治は老眼鏡をかけて重要そうな書類に目を通している木場仁志に挨拶をして自分の要件を手短に伝える。
 気難しそうな表情で目線だけを蒼井信治の方に向けて彼の後方で楽しそうに戯れあっている芹沢美沙とアンダーソンの姿に気を許したのか書類を置いて溜息をつく。
「あいつは駄目だ。誰に似たのか分からないが未だにろくでもないことばかりに夢中になっている。いつまで経っても私のいうことは聞きやせん。それで、なるほど。そのお嬢さんが災いを呼んでいる訳だな。分からないものは分からないとはっきり言えばいいだけだろうに。ひたむきさや律儀さはお前さんを苦しめるだけだ」
「いえ、今回は『御前会議』からの勅命になります。ですからイオリア+のアップグレードに関しても強制権限が当たられていますが、ぼくは何より穏便に事を済ませたい。ご理解ください」
 手に持った小さな樹の枝で芹沢美沙の頭を叩いて意地の悪い顔で笑っているアンダーソンがいかにも堅苦しそうな木場仁志の方に向き直ると、虹色に光る羽根をパタパタと動かして工場長室の大きな樫の木製の机の方に飛んでいく。
「あいつはあー言っているが、今回はわしの顔に免じて気楽に受け流してくれると嬉しい。何より天照がお隠れになるのだから出雲は盛大に騒ぎ出すはずじゃ。壱ノ城の巫女も黒い眼帯をしたこの子を待っている。それにな、真理亜はお前も息子のことも憎んでおらん。何にも心配することはない」
 身長十五センチにも満たない小さな身体の妖精、アンダーソンが机の上にたって木場仁志を見上げて肩からずり落ちてしまった水色のワンピースの肩まわりを捲し上げながら素直な気持ちが伝わるとても明るい声で静かに話し掛ける。
 木場仁志は老眼鏡を外して眉間に皺を寄せながら右手の人差し指と親指で目の疲れを解しながらも、困り果てた顔をしてからいつもの通り間違えのない誰にでも通じる方法と言葉で蒼井信治たち一行に長い工場労働生活で幾度にも渡って行なってきた重要な決断を申し伝える。
「私の最高傑作は既に何度もテストを繰り返して手ぬかりのない検品を十分に行なった上で、開発室の金庫に厳重に保管してある。鍵は真織が持っているはずだ。この時間ならいつも通り休憩室にいる。会って話をしてみろ。私から出来ることはそれぐらいだ」
「ありがとうございます。話が早くて助かります。いずれにしろ歯車の動きに一分の乱れもあってはならないことだけは確かですから」
 机の上のアンダーソンはとても丁寧に深々とお辞儀をして年季の入った皺の刻まれた木場仁志の顔を見てにっこりと笑い、それからすぐに後ろを振り返って蒼井信治の元へと飛んでいくと、ようやくウチに帰れることが分かってくるりと飛び回って妖精の七色の鱗粉を振り撒く。
「時が過ぎるのはとても早い。私もお前もそれを忘れてしまっていただけかもしれんな。結局何も変わらなかった。一護のいう通りになってしまうのか」
 
*
 
「おはようございます。ネクストエレクトロニクス社から派遣されてきましたインターン生の佐々木和人と言います。今回は新型メテオドライブ『バイオポリティクス』を含む社内プレゼンテーションにご招聘頂きありがとうございます。短い期間になりますがよろしくお願いします」
 ぼくは紅莉栖朱音に案内された第三脳組織開発室に入ると、複雑な電子機器や実験器具に囲まれて金髪混じりの髪の毛を掻きあげながら険しい表情の室長と思しき女性に挨拶をする。
「電弱反応が合計で周囲二百キロ圏内に合計で三つ。電位差を考えると、一つは幽体に近くて、もう一つは高次元化状態でなければ辻褄が合わない。そして最後の一つは昨日までは確実に東京に在ったはずだ。君の方でも何か心当たりがあるんじゃないかな」
 簡単な挨拶すら飛ばして突然ぼくに高度な物理学の質問を投げかけてきた女性の白衣の胸元には『第三脳組織開発室主任 四月(一日)紫衣』と書かれていて、ぼくの研究成果を評価して社内プレゼンテーションに招いた張本人だということを確かめる。
「ちょっと待ってください。まさかモル気体定数を今すぐ暗算で提示しろという訳ですか? そもそも対象の体積値だって不明瞭なままでは話を進めようがないです。ぼくは此処に電子頭脳研究における合成意識の手がかりを見つける為にやってきています。統一場に関する意見交換は不要だと思います」
「その様子ではまだ何も聞かされていないというわけか。事件が事件だけに、勤務先に連絡が遅れているのだとしても妙な話だね。口が重くなってしまうが、赴任早々仕方がない。織姫は既に彦星に邂逅している。二人はやはり運命的に出会ってしまったんだ。何を言っているのかはわかるね?」
 紅莉栖朱音よりちょっとだけ小柄だけど、とても女性的で柔和さと強さを一眼見ただけで感じさせる四月(一日)紫衣はとても挑発的な態度でぼくに視線を合わせて感情を誘発するように、聞き覚えのある言葉を重ねてぼくの心の隙間に侵入しようとしてくる。
 出張先でイザコザを起こさないように穏便に研究発表を済ませようと冷静さを保ち続けていたぼくが思わず身を乗り出して彼女の挑発に乗るようにして本来のプレゼンテーション資料とは関係のない話題に触れようとした矢先に、ジャケットの中でスマートフォンの着信音がなり、たった一週間ほどでありながら、それでもぼくの心に強く刻まれることになった四月(一日)紫衣との出会いの幕が開けたことを唐突に知らせてくる。
「お疲れ様です。はい、今、現地に到着したところです。何度か連絡を送ったのですが、主任の方と連絡が急に途絶えてしまって。あ、はい。昨晩から何度か。え? ど、どういうことですか?」
 電話の相手はネクストエレクトロニクス社の人事部の部長だった。
 相手が何を言っているのかほとんど理解出来なくてなぜかぼくは人型の模型を頭の中で作り出して浴室で裸になった男性の内部に収まるだけの理想気体を演算しようとしてしまう。
 けれど、途切れ途切れに入り込んでくる辛辣な言葉が意表を突くようにしてぼくの意識を目覚めさせて、四月(一日)紫衣が口走った七月七日の恋人同士だけが理解出来る理想的理論値の限界に関する問い掛けで、当然ながら予測されていたはずの被害者の存在が確定的情報になってぼくの元にやってきたことを思い知る。
 昨日の昼未明、ぼくの直属の上司であり、インターンとしてネクストエレクトロニクス社に配属されて以来ずっと面倒を見続けてきてくれた研究開発部人事課主任である戦極一樹が他殺死体で発見された。
 発見されたのは自宅のバスルームで、第一発見者は彼女の恋人であり、今年の秋に結婚を予定していた大学時代から付き合いがあった女性。
頭部と胴体が鋭利な刃物のようなもので切断され大量の血液がバスタブを満たしていた残忍な犯行にも関わらず部屋の内部が荒らされた形跡はなく、もっと言えば被害者、つまり戦極一樹が抵抗した様子も見られなかったという。
「概要は理解したようだね。私は件の戦極一樹の恋人であった君塚祥子から連絡を受けていたので、君より早くこの情報を入手していたけれど、警察当局が事件に介入してからネクストエレクトロニクス社まで連絡が行き届くまでにかなり時間がかかったようだ。もし良ければ、詳しい話を聞かせてくれないか」
 混乱と混迷が交互に頭の中を走り回りながら、知識と経験を最大限に活かして乗り越えるべき障害を明確にしながらどうにかして現実との交点を見つけ出すことで、今、ぼくがいる場所と起きた出来事を繋ぎ合わせてどうにかして四月(一日)紫衣の質問に答えようと呼吸を整える。
「そうですか。あなたとぼくはほとんど同じ形の理論を追い求めて近似値を見つけ出していた。けれど、お互いに先を越された挙句、当然のことながら、というよりもまるで思いもしなかったやり方で大切なものを失ってしまったというわけですか。予測を完全に上回っていたのは事実です。自惚れていた訳でもないと思います。ただ、あいつはやっぱりぼくに再び憎しみを植え付けた。三年前とは違った方法で答えをより複雑で入り組んだものに変えてしまったんだ」
「解決策が簡単に見つからないのは私にも分かることだ。けれど、今は代償を求めるのではなく、前に進むことしか出来ないのだとして、君は犯人にある程度心当たりがあり、それはもしかしたら、今後も身近な関係で引き起こされる危険があることを知っているということだ。何事も万事予定通りには運ばない」
「すいません。具体的なことを話すべきでした。上司の話では、戦極の訃報はつい三十分ほど前に会社に直接連絡があったそうです。警察関係者からで、現場にあった被害者の持ち物の中に戦極の名刺があり、連絡を取ったとのことです。多分、あなたの仰っていた君塚さんという女性からではないと思います。犯人の行方は分かっていないけれど、顔見知りの犯行ではないかもしれないと電話をしてきた警視庁の刑事が漏らしていたと言っていました。それから」
「ちょっと待って。君は少し冷静過ぎやしないか。仮にも直属の上司が殺されたという知らせが入ったばかりにしては恐ろしく情報を的確に把握している。三年前にというのは、何か似たような事件に巻き込まれた経験があるということかな?」
 四月(一日)紫衣という女性はとても頭が良く物事を正確に分析する能力に長けていて、理性を感情によって制御されてしまう危険性をよく知っている人だと短いやり取りの中でぼくは理解して、けれど、彼女が指摘してきた個人的領域に関する問題を話すべきかどうか判断を一瞬だけ保留しながら敢えて彼女の距離を遠ざける選択肢を決断して仕事と私生活を切り分けるように努力する。
「少し口が滑ってしまいましたが、それは個人的な問題だと思います。上司の話では、急な訃報であちらもパニック状態ですぐにどうにかなる話ではないけれど、ネクストエレクトロニクス社自体は簡単に休業してしまうわけにはいかないし、ぼくはこのまま出張を続けてもらうことになりそうだとのことです」
 インターンの君には大変申し訳ないと思うが、こちらも彼の抜けた後をどう補填するかで混乱して重要な決断以外はどうしても後回しになってしまうと電話の向こう側で話していた人事部の部長の声が聞いたことがないほど力が抜けていて普段ならぼくに嫌味を言ってきて邪険に扱う彼の面影が一切感じられなかった。
 だからぼくも事を荒立てるのは後回しにして、急場凌ぎでぼくに連絡をしてきた部長の意見をそのまま呑むことにした。
「そうか。深入りしてすまない。君も大変だろうけれど、出張に関してはこちらもネクストエレクトロニクス社の意向に沿うことにしよう。ただ、もし緊急の場合はいつでも帰れるように準備をしておいてくれ。それから聞いているとは思うけれど、葬儀に関しては戦極の実家がある京都市内で行われるはずだ。実家といっても十五年以上一度も顔を見せたことがない家族の暮らす家だけれどね」
「はい。そのように伺っています。人事部の話ではプレゼンテーションを中止にしてでも帰還命令を出すべきだが、葬儀の件もあるし、ぼくはこのままこちらに残った方がいいだろうとのことです。本社とのやりとりは代打のものが執り行うはずですので、こちらの研究所にご負担がかかるようなことは一切ないはずです」
 何故だか分からないけれど、適切な距離をとったはずなのに妙に彼女との関係性が身近に感じられてしまうのがネガティブな話題を共有した時に起こる錯覚であることを彼女が少し困りながらも見せてくれたほんの少しの安堵を交えた笑みの中に見つけて出来る限りビジネスライクな姿勢を保とうと努力する。
「よくわかった。ならばひとまずは予定通り物事を進めるとしよう。私は科学者だ。こういった事態に遭遇しても今出来ることと出来ないことを冷静に判断して考えてしまう癖がある。だからこそ君の気持ちをしっかりと確認しておきたかった。無礼があったとしたら謝ろう。とにかく、順番は前後してしまったけれど、私は四月(一日)紫衣。第三脳組織開発室主任を務めている。彼女の方は行きすがら自己紹介は終わっているようだね。この部署には私と紅莉栖君以外にもう一人女性の研究員がいるのだけれど、君と入れ違いで京都市内の別の研究施設に出向してしまっている。あとは私たちより大分歳は離れているけれど、室長と室長代理がいるのだが、彼らもタイミング悪く市外 で会議に出席中で週明けまで戻る予定がないと思う。全部で五名の比較的研究員の少ない部署だが、なにぶん新しく設立されたばかりで予算も設備も限られている。事前に聞いているとは思うが、脳科学の中でも意識の分野を取り扱うことを専門にしている。君には今回、プレゼンテーションの為に私の研究成果と照らし合わせながら件の『メテオドライブ』に関する情報を共有してもらいたいと考えている」
「脳科学の分野において『エーテル』による大脳及び小脳への過負荷は非常に繊細でともすれば違法性の高い意識干渉すら危ぶまれる道徳や法観念の点から見ても製品化が非常に難しいと従来は考えられてきました。ある種の洗脳状態を外部から意図的或いは恣意的に行えるだけの装置の一般流通は社会構造そのものを基盤から揺るがしかねないからです」
「理解してもらえているようで非常に話が早い。『エーテル』研究は現在のところ、脳科学の亜種であり、呼吸器系に発生する粒子が血液や精神といった問題に影響を与える未だ人類にとって未知の領域が多い学問と言える。精神物理などと揶揄する学者達もいることから国内では未だにオカルトまがいの扱いをする連中も少なくない。京都電子頭脳研究所は国内屈指最新鋭の科学施設ではあるけれど、やはり例外ではなくてね。ただ、君の『バイオポリティクス』に関する論文はとても興味深い。これなら所内の頭の硬い連中にも割って入ることが出来るかもしれないと考えているんだ。私の研究に関しては事前に目を通しておいてくれただろうか」
 四月(一日)紫衣主任の質問にちょっとだけ気後れして研究室を見渡すと、紅莉栖朱音は既に自分のデスクに向かって何か作業を始めていて、ぼくが目を向けると追い払うような素振りを見せてパソコンのモニターと睨めっこをしている。
 とりあえずぼくは呼吸を整えてから知性の向上と完全に電子制御された人間の脳の完成を目指している研究所においてある種異端として若干二十八歳の若さで研究室の主任まで登り詰めている金髪の科学者に視線を合わせて期待に応えようとする。
 とても魅力的な顔立ちで力強いけれどどこか以前から知っているような懐かしさのようなものを感じられてしまい、うっかり気を抜いてしまえば、彼女の魅力にスッと吸い込まれてしまいそうな気がしてしまう。
「はい。理解出来る範囲では。第一段階においては、意識と感情の数値化に成功しておよそ一ヶ月間に渡って被験者の深層心理をデータとして記録、第二段階においては採取した情報を元にして疑似意識としてコンピュータープログラム上で演算し算出した図形を描画することが出来たと聞いています。視覚的に捉えられる状態で自我と呼ばれる領域を復元した例は国内初。研究所が目指している高規格アンドロイドへの転用や高度な電子頭脳への応用も視野に入れることが出来た画期的な研究だったと、その上司の戦極がぼくに熱弁してくれました」
「そうか。聞いているかもしれないが、京都市内で彼がまだ科学者の端くれだった頃にお世話になったことがあるんだ。だが、エンジニアには向かないかもしれないと部署を移動するに当たってネクストエレクトロニクス社のツテを頼って東京に彼は転勤することになった。付き合い自体は続いていたけれど、彼の面倒見の良さは私もかなり助けられた」
「そのようですね。話を逸らしてしまってすいません。それで、どうして四月(一日)主任の研究にぼくの『バイオポリティクス』が必要だと感じてくれたんでしょうか。戦極先輩の話では少しだけ合点のいかないところがあって。彼も直接あって話してみるのがいいといっていました。きっと話は通じ合えるはずだからと」
「それはね、いわゆる人間の脳が感じる恐怖という感情に関してある一定の効果が認められるからなんだが」
 ガタッと音がして振り返ると、紅莉栖朱音が立ち上がっていて京都駅前で待ち合わせをした時とは別人のような顔をして研究室の入り口の方を睨みつけている。
「お前、どうやって入った。IDはとっくに削除してあるし、とっくに除籍したはずだろ。三ヶ月も前に研究所を追い出されたはずのお前が此処に入ることの出来る方法は絶対にないはずだ。機密情報や国内屈指の研究成果が保存されているうちの研究所のセキュリティを抜けて私や主任の前になぜお前が現れるんだ、鬼嶋高次」
 ぼくと四月(一日)主任が入り口の方へ向き直ると、M字型に生え際の後退した男が不貞腐れた顔でニヤニヤと下卑た笑いを浮かべている黒い革ジャンの男がカードキーを手に持って挑発的な態度をとっている。
「いや、何か誤解されては困るが、俺って天才ってやつだ。少なくとも人間の心ってやつを操るって意味ならお前たちよりずっと上。脳内で起きていることを単純に解釈しようとしているのはお前の方じゃないか? 四月(一日)。このカードキーは誰のだと思う?」
「まさか君香と接触したのか。お前が持ち逃げしたあいつの思考アルゴリズムに関する研究を失ってから情緒的に不安定な状態が続いていたからとしばらく六分儀先生のところに出張させたはずなのに」
 紅莉栖朱音はとても悔しそうな顔をして自分のしでかした失態をどうにかして取り戻そうとするような表情で赤く染め上げられた髪をかきあげて白衣のスマートフォンを右手で取り出そうとする。
「朱音。待ちなさい。どうして鬼嶋が此処に入ってこられたかはともかくとしてあいつの口車に乗ってはだめ。君香なら絶対に大丈夫。師元君にも手伝ってもらえるようにあちらには連絡しておいたから。それより誰なのかな。後ろに隠れている必要がないのなら姿を現して」
 出来る限り冷静な判断を崩さないように四月(一日)主任は迂闊な行動の結果が最悪の事態を招いてしまわないように慎重に相手の出方を伺いながら、紅莉栖朱音に向かってアイコンタクトを送りながら、鬼嶋浩二の後方に潜んでいたもう一人の共犯者に向かって呼び掛けて状況をより正確に把握しようとする。
「あはは。バレちゃいました? ジャーン! この鬼嶋っておじさん、めちゃくちゃヤバ過ぎるじゃないですか。けど、君香って子のことなら御名答。攫って痛い思いをさせてやろうと思ったところに正義の味方登場って感じで私、萎えちゃいました。選ばれし女の子ってやつですかね」
 一瞬だけ目を疑って自分のことが信じられなくなりそうになり、けれど、やはり鬼嶋浩二の背後から嫌味なほど明るい顔をしてはしゃぎながら現れた女性が何度も否定しようとしたはずの幻ではなく、現実に存在している本当に嫌になる程知っているはずの梅里桃枝本人としか言いようがなく、ぼくは唖然として行動を奪われて思考を停止してしまう。
 けれど、その次の瞬間にぼくは自分でも信じられないぐらいに取り乱しながら発狂スレスレの状態で叫び声をあげて溜め込んでいた怒りと悲しみを絶望で蓋をしていたどす黒い感情をむき出しにする。
「なんでだ。どうしてモモエ。なぜお前がいる。どんな気持ちでそんな顔で笑ってあの時と同じ声で話をするんだ。答えろよ。お前は誰だ。梅里桃枝は死んだんだぞ!」
 気付いた時にはぼくは涙を流しながら怒りに打ち震えた表情で鬼嶋浩二と彼が連れてきた幻の方に向かって走り出していて、行動が制御出来なくなっていることを頭の何処かで自覚しながら梅里桃枝としか疑いようのない女性に向かって襲い掛かろうとしている。
「おぉ。危ねぇ。ていうか相変わらずめちゃくちゃキモいな、お前。おまけにクソデブ野郎ってあたりも全く変わりがねぇ。佐々木和人だろ。私はずっとあの子の傍でお前のブサイクな面を見ていたから知っているよ。けど、一つだけ教えてやる。私は梅里桃枝じゃない。全く口惜しい。お前みたいな鈍臭い野郎に私とおんなじ身体を触られていたんだと思うとゾッとするよ」
 なんの考えもなしに無我夢中で飛び込んで覆い被さろうとしたぼくをひょいと軽く交わして研究室の一番近くにあった机の上に飛び乗ると、履いていたショートブーツでその女性は思い切りぼくの顔面を蹴り飛ばす。
 夢の中で何度も聞いたことがあるような高笑いが聞こえてきたのかと思うと、何度も耳元で聞いたはずの梅里桃枝によく似たても懐かしいけれどどこか歪に歪んでしまった声を打ち消すようにしてけたたまし警報音が鳴り響いてぼくはゆっくりと意識を失いながらその場に倒れ込んでしまう。
 また無力感に打ちのめされて掴めるはずだった後悔がどうにもならないほど悲しみと一緒に押し寄せてきて涙だけがぼくの存在理由みたいに第三脳科学研究室の床に流れ落ちている。
 どうやらまたぼくは大切なものを失ってしまったのかもしれないと何度も掻き消して記憶の底に追いやろうとしたはずの梅里桃枝、いや、彼女によく似た女性の声をリフレインさせながら気を失う。
 
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「あかん。あいつはまだウチのことつけ狙っとる。残業続きでめっちゃ疲れとった日に研究所の入り口で待ち伏せまでしておかしなこと口走るから顔面叩いて目を覚まさせたったはずやのに。なんでや、なんであいつはまだ京都におるん?」
 古河君香はまだ十月に入ってばかりで残暑めいた気候にも関わらず何故か全身に寒気のようなものを感じたせいか震えながら蹲り、背中を支えて安心感を与えようとしている師元乖次に向かって心情を吐露している。
「間に合ってよかった。六分儀先生は研究以外のことには無頓着で有名だからな。けど、どうしてあいつは君に接触しようとしてきたんだ。話を聞いている限りでは思考アルゴリズムのパターン解析に関するデータは丸ごと持ち逃げされたはずだ」
「ちゃう。あいつのやりたいことはそんなんちゃう。だってあいつ馬鹿やし、絶対そんなん必要ないもん。単純にうちに構われたいだけや。それだけの理由で『爆発する知性プロジェクト』のことまでかぎつけてまうようなど変態や。こんなん知られたら紫衣先輩に申し訳がたたんわ」
「君の研究のことは八神教授と萌木助教授の方からも伺っている。最初の被験体、四月(一日)紫衣が脱退することで事実上『爆発する知性プロジェクト』の第一目標は頓挫しているはずだが、京都電子頭脳研究所の協力で一般化への道だけは残されていると聞いた。だからこそ、俺も参加を決めた。それが」
「戦争装置の必要性を訴え続けた平和主義者の願いって訳やな。あかん、あかんで。あんたもあいつと同じ馬鹿や。今、うちはこうやってめっちゃ悪寒に襲われて気が滅入っとる。昔の女の話をしていいムードをぶち壊しにしとるよーならほんまにあほやわ。分かったら、はよ、私の手をとって立たせてーな。ウチを助けてくれた王子様やから一回だけなら許したる」
 師元乖次は決まりが悪そうにちょっとだけ苦笑いを浮かべてからすぐに表情を引き締めて、茶色いショートパーマヘアの古河君香の右手をとってそっと立ち上がらせる。
 
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 甘くて優しい匂いが鼻腔を刺激してぼくは意識を取り戻すけれど、額のあたりにひんやりと冷たい感覚があり、目をゆっくりと開けるとほど良い大きさの隆起物があり視界を塞いでいる。
「お。気付きましたよ、先輩。いくら煽っても乗ってこないから無理矢理犯してやろうと思っていたんですけど、その必要はなさそうですよね。ちゃんと感情があって怒ることが出来る。意識は誰にも奪われていないってことです」
「あぁ。うん。まだちょっと静かにしてあげよう。この子はたぶんずっと一人で耐えていたんだね。誰にも打ち明けることの出来ないことを誰のせいにもしないで乗り越えようとしていたんだ」
 どうやらぼくは四月(一日)主任の膝枕に後頭部を乗せて介抱されているようで、彼女の小さくて柔らかい手が僕の頭を撫でていて、目の前にある隆起物と鼻腔周辺に漂ってくる自然と心が落ち着いてしまう匂いに絆されて下半身が疼いてしまうのをどうにかして悟らせないように姿勢を変えようとする。
「あぁ。すいません。なんか突然見境がなくなってしまって。しかも出張初日にこんな」
「いいんだ。何も気にすることはない。しばらくこのままいてくれて構わないよ」
「なんだかそんなことを言われたらうっかりお言葉に甘えてしまいそうで」
 四月(一日)主任のとても甘美で誘惑に身を委ねようとした瞬間に気絶する前に見た光景が蘇ってきて体温が上昇して胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
「やはりか。君はあの女性に見覚えがあるようだね。鬼嶋元研究員のことはさておき。それならば、結論から先に述べよう。残念だが、君が持ち込んだ『バイオポリティクス』のデータを奪われてしまった。残念だが、暴力は専門分野ではなくてね。すまない、事後策を練らねばならないかもしれない」


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